番外編 あと一歩の風
如月凌は小高い丘のてっぺんにそびえる木の下に座っていた。
太い幹に背を預け、首を垂れている。吹き抜ける初春の風が心地よくて、彼は思わず目を細めた。
いろいろな事情があり、裏世界で犯罪に手を染めていた如月が、その危険な稼業から足を洗ったのはつい最近のことだった。
その主な理由としては、二つある。
今まで、病院で眠り続ける少女の治療費のためにといろいろな裏の組織からいただいてきた莫大な金額が、彼女が回復に向かっている現在、だんだん必要がなくなってきつつあること。 そして、急な失踪以後、必死で探していた父親を自分以外に真摯に探してくれる存在が現れたこと。如月の母親であり、大きなマフィア組織のボスを務める彼女なら、自分より効率よく人探しができるはずだ。
だが、実は一番大きなきっかけとなったのは、如月の貴重な友人である、深町和海の一言だった。
――お前のやってきた犯罪には一切証拠がないんだ。お前が犯罪者だって立証するものは何もないんだ。なあ、普通に学校に戻って来いよ。待ってるからさ……
自分がやってきたことを知りながら、もう罪を重ねなければ、このまま証拠を残さず終われば、お前には普通の少年としての日々が送れるのだと言ってくれた彼の言葉は如月には忘れることができない。
さすがに、正体がばれた刑事(しかも、クラスメイトの兄だ)がいる日本で今までのように普通の高校生活を送ることはできないが、如月に、真っ当な方法で金を稼いで普通の生活を送ってみようと決心させたのは、紛れもなく、和海だった。
ふと、如月は手元の時計に目を落とした。現地時間と別に、日本時間も同時に表示できるその時計は、如月凌の仕事上の相棒だった高遠朗が贈ってくれたものだった。
高遠は、如月が犯罪行為から足を洗うと伝えたとき、彼自身にも彼が社長を務める会社にも決して利益にはならないのに、すぐに賛成してくれた。もっとも、大事な自社の情報漏れや資金難など、困ったことがあったら力を貸してくれ、と約束させられたのだが。俺も何かあれば必ず力になるから、と言って。
高遠からのプレゼントである時計を見た如月はゆっくり顔を上げ、重なり合う木の葉越しに空を仰いだ。晴れた真っ青な空が目に痛かった。
もうすぐ、仕事に向かう時間である。
なんでも器用にこなす如月が当面の職業に選んだのは、ここ、ヨーロッパのとある田舎町でそこそこはやっている大衆食堂の見習いコックだった。
あと数時間もすれば仕事帰りの陽気な労働者たちで店内は埋め尽くされるだろう。最近入ったばかりの若い黒髪の見習いコックの作る料理が最近街で大変な評判になっているのだ。
多くの人が、如月を待っている。彼の魔法の腕が自分たちの胃袋を心地よく満たしてくれるのを。
(……でも、あともう少し、いいだろう)
もう一度時間を確認してから、如月は幹から背をずりずりと滑らせ、木の根元に寝転がった。
草の匂いが強烈に鼻を打ち、背中にはちくちくとした感触がある。遠くで牛が間延びした声で鳴くのが聞こえた。
つい最近この町に落ち着くまで、忙しくしており慢性的な睡眠不足で疲労がたまっていた如月は、こういうのんびりとした時間を切実に求めていた。
だが、いくら体を休めても、彼にはまだ何か足りない気がしていた。それが何だかはっきりとは分からないけれど。
丘の上で毎日暇を見つけてはじっと座る如月は、自身に向かって吹いて来る次の風を待っているのかもしれなかった。
しかし、待っているだけでいいのだろうか?
それは自分からのアクションがなければ訪れやしないのではないだろうか。
「そうだ、和海に手紙を書こう」
唐突に如月は思いついた。口にしてみると、それは、とても素晴らしい考えに思えてきた。
休んではいられなくなり、如月は勢いよく身を起こした。
ずっと昔、少年の頃、和海と出会い短い充実した日々を過ごして別れたあと、如月はどうにも彼との日々が懐かしくて、異国の町から手紙を出したことがあった。そのときのことが懐かしく脳裏に浮かんでくる。あのときには、まさか数年後彼と再会できるなんて思っていなかったっけ。
丘を駆け下り、一番近くの小さな店で、このおもちゃ箱のような町と抜けるような青い空が印刷されたポストカードを一枚買った。
狭い店内に据えられたテーブルで如月はペンを走らせる。
あの日和海と別れてから――
無事に宝を見つけてボスの元に送ったこと。
その際、彼女に息子だと認定されて悪名高いマフィア一家の跡継ぎにでもされたら困るから自分では出向かないようにしたこと。
小さな病院で眠っていた少女は順調に回復し、あと一月もすれば目覚めるだろうということ。
そして、もう多額の金は必要なさそうなので、合法的に稼いでいくことにしたこと。
(最後の言葉に、きっと和海は喜んでくれるんだろうな)
思えば、彼はいつも自分のことを心配してくれていた。
転校してきた高校で偶然再会した自分が、クラスで問題児扱いされているのを見て、自分のことのように腹を立て、何とかしようと必死になってくれたっけ……
如月は、カードの最後に、ありがとう、と書いた。彼の、心からの言葉だった。
まだ自分の居場所を知られてはまずい人物が日本にはいる。本当なら匿名にして差出し人の住所も書かない方がいいのだろうけど。
迷った末、如月はポストカードに現在自分が住んでいるロンドン郊外のこの町の住所を書き、外からは決して中が見えない分厚い封筒を買い求めた。
いつまでここにいられるか分からないが、和海にだけは自分の居場所を知らせたかった。ひょっとすると返事をくれたりなんかするかもしれない。
(いや、それとももう俺のことなんて忘れちゃったかなあ)
その考えが浮かんだ途端、如月は情けない顔で、机にへばりついた。悲しいが、十分ありうることだ。
もう、日本では新学期が始まっている頃。今年高校三年になる彼は受験という大きな壁を見据えているのだろうし、新しい教室、新しいクラスメイトに囲まれて充実した日常生活をスタートさせていることだろう。非日常を生きる自分のような存在などひと時の夢くらいにしか思っていないかもしれないよな……
慌てて飛び込んできたかと思えば、時間をかけてカードを選び、にやにや嬉しそうにしまりのない顔で笑ったり、急にがっくりと机に突っ伏したり。一人で百面相を始める少年を、この店を一人で切り盛りしている女主人は思わず興味深く眺めてしまうのだった。
しばらく悶々としていた如月だったが、もともとあまり悩む性分ではなく、なるようになるさ、と立ち上がった。
「おばちゃん、ありがと!」
声をかけて、店を出る。
手紙、出しとこうか、と声をかけられたが、礼を言って断り、如月はまた丘のてっぺんを目指した。
もう、就業を告げる鐘がなる頃。仕事の時間が迫っている。それは分かっている。
でも、あと少し。
次の風が吹いてきたら、行動を開始しよう。
この町で一番高く、全てが見渡せる丘の上で、如月は待った。
心地よい、春の香りのする風が吹いてきたら……このカードにあと一言を書いて、すぐに一歩を踏み出そう。
書くことはもう決まっている。
P.S 近いうちにそっちに遊びにいきまーす。和海、待っててね。
一瞬の後、ざわざわと木立を震わせ、強い風が吹いてきた。
了
本編最終話(57話)のときの、如月側のエピソードです。