54.交戦
次の日の朝、如月が再び島に渡ったとき、そこに人の気配はなかった。
三日前、彼がのして拘束していた男たちはさすがに脱出したのだろう。宝探し気分で訪れていたグループが残した古い焚き火の跡のほかは何もなかった。
さてこれからどうするか、と如月は考えた。五年も前から侵入者の監視を続けている組織が急にこの島から手を引くとは思えない。
静かな島の様子に如月は遠くを見るように目を眇めた。三日前捕らえた迷彩服の男たちは下っ端だとはいってもヨーロッパ屈指の犯罪組織に属する裏家業のプロだった。油断していなければ如月にああもやすやすと捕まったりはしなかっただろう。彼らが警戒心を全開にして周到に如月を待ち受けていたとしたら、反対にこっちの身が危うくなるかもしれない。
如月は用心深く身を隠し、辺りの様子を窺った。これは、彼らと接触を持つまでかなりの長丁場になるかもしれないな、と内心ため息を吐く如月だった。
昼前に、一見穏やかだった島の空気が微妙に変化した。見晴らしのいい高台に移動した如月の目に、島の海岸にたどり着いた一隻のボートが見えた。如月はデイパックからフィールドスコープを取り出して片目に当てた。
(……おいおい。あれってアシュレイ捜査官じゃないか。なぜここに? ひょっとして、つけられたかな)
如月は冷や汗をかいた。エイプリルのことを知っているアシュレイが、あの病院を調査済みであることは予想できたことだ。それなのに、昨日自分は病院から直接、最短ルートでこの島まで来てしまった。犯罪捜査のプロであるICPO捜査官の存在を忘れるなど、なんとも迂闊な行動をしたものだ。
だが、猛省する彼の思考は、アシュレイの後に続いてボートを降りた人物を見ていったん完全に停止した。
(和海? そんな馬鹿な。どうして)
驚きに目を見張る。だが、少し離れた場所で今まで全く気配を感じさせなかった何者かが動いたのを察知した如月は慌てて思考力をかき集め注意力を総動員した。
以前にこの島で会った男たちと同じ迷彩服の二人組みが、海岸の方を見下ろしている。手にはスコープを取り付けた銃を持っている。ひどく訛ったイタリア語で話す彼らの声が如月の耳に届いた。
「……確か、B班所属のやつの情報では、要警戒人物は日系人の少年だって話だったな。今ボートから降りたあいつか?」
「こんな辺鄙な島に日系人のガキがそう何人も来るはずがない。間違いないだろう」
「なあ、すぐに始末した方が面倒がなくていいんじゃないか」
「いや、ボスからは、聞きたいことがあるから殺さず捕らえろとのお達しだ」
「口を割らせるまでは手を出すなってことか。だが、相当腕が立つらしいから、少々の怪我はやむを得ないよな」
外国人にとって日系人はみな同じに見えるというが、どうやら、彼らは和海を自分と勘違いしているらしい。このままでは親友の身が危険に晒される。如月の心は決まった。
音も立てずに彼らに近づいた如月は、自分と反対方向に石を投げて男たちの意識を逸らせ、それと同時にすばやく動いた。手近な男の銃を足で蹴り飛ばし、もう一人を低出力スタンガンで昏倒させた。銃を使う暇もなくずるずると倒れこむ仲間を見て怯んだ男の喉下に如月はぐっと腕を回して締め付けた。全ては一瞬の出来事だった。
あとはこの男の通信機を借りてボスともう一度話をつけるだけだ。相手もどうやらこちらと話したがっているようだから丁度いい。
如月が男の懐を探ろうとしたとき、海岸を挟んで向こうの丘の上で、何かが光った。
それに気をとられた如月の腕に鋭い痛みが走る。顔を顰めて見ると、如月の右腕に小型のナイフが突き立てられていた。知らず男を拘束する力が緩んでいたのか、その隙を逃さず、男が服に仕込んでいたサバイバルナイフで反撃に出たのだった。
再び腕に力をこめなおし、あっという間に男の意識を落とさせた如月は、刺されたナイフをそのままにしてフィールドスコープを取り上げ、先ほど光が見えた方向を探った。
(中距離狙撃銃用のスコープだな。くそっ、あちらにも仲間がいたのか)
海岸を歩いて島の内部に向かうアシュレイと和海を狙う黒い銃口が見え、焦った如月は足元に倒れた男の銃を取り上げた。狙撃用ではないが仕方がない。片手でマガジンを確認し、撃鉄を起こした。そのまま空に向けて引き金を引く。
パァ―――ン
乾いた音が島に響いた。
地上ではっとこちらを仰ぎ見るアシュレイから見える位置に立ち、狙われているぞ、逃げろと如月は叫んだ。
事態を悟り、和海を伴って身を隠しつつ走る姿を見て安心した如月を、向かいの丘から標的を変更した狙撃銃が狙う。
サイレンサーを取り付けているのだろう、微かな銃声とともに、如月の肩先をかすめて銃弾が後ろの木にめり込んだ。その後も数発の銃撃が続く。
如月は身を低くして様子を窺いつつ、腕に刺さったナイフを抜いた。刀身が短いとはいえ、ナイフを抜くと同時にかなりの出血がある。とりあえず止血剤を振り掛けて保護テープで傷口を塞ぎ、簡単な手当てを済ませると、ほとんど片手一本で倒れている二人の男を軽く縛り、彼らの武器を遠くに投げ捨てた。
いつの間にか狙撃は止んでいた。ということは、そのうち狙撃者たちはこちらにやってくるだろう。
だが、それより早く、軽く土を踏む音がして、木立をくぐり、アシュレイと和海が如月の目の前に現れた。
「凌! お前、怪我してるのか」
血に染まる如月の腕を見て和海が駆け寄ってくる。その後ろからゆっくり歩み寄りながら、アシュレイが眉をひそめて聞いた。
「さっきの狙撃でか?」
サイレンサーで消音されていたとはいえ、現役の捜査官が銃声を聞き逃すはずがない。始めに狙われていたのは自分たちで、それを彼が庇ったのだということを悟ったアシュレイは苦い表情で、悪かったな、と謝罪した。如月はそれを無視する。そもそも銃で負った傷ではないがそんなことはどうでもいい。如月が怒っているのはそんなことではない。
「……アシュレイ捜査官。いくら俺を追っているからって、一般観光客のそいつを巻き込むのは筋違いじゃないのか。そもそも、俺を追っているのだって、正式なICPOの捜査じゃないだろ」
低く、地を這うような如月の声は、明らかに怒りを含んでいた。
もともと犯罪の証拠を掴んでいない以上、捜査として堂々と如月を追うことはできず、今回も正規の任務の合間に取った休暇を利用してここまで来たアシュレイだった。不法捜査と言われればそれまでであるし、一般人である和海を伴い、危険にさらしてしまったことも事実である。
返す言葉もないアシュレイだったが、如月のすぐそばまで来た和海がきまり悪そうに代わりに答えた。
「いや。俺が勝手にくっついてきたんだよ、凌」
如月が朝早く病室を出た気配に気づいた和海が窓から彼を見送ろうとしたとき、病院の敷地の外で張っていたアシュレイが距離をとって如月の後をつける姿が目に入った。如月を捕まえにきたと思った和海は慌ててアシュレイに追いつき、説得して追うのを止めさせようとしたのだが……相手の気は変わらず、結局一緒についてきてしまったのだった。
「……またかよ、和海」
高遠に協力を求め、強引にイギリスまでやってきたり、アシュレイの捜査についてきたり。彼はこんなに行動的なやつだったのか、と、怒りというよりも呆れる如月だった。