52.絵の女性
高遠とライアンについて如月が向かったのは、この病院の特別病棟、長期入院患者専用の個室であった。病室のドアにはAprilとだけ書かれたネームプレートが掛けられていた。
今年になって如月がここを訪れたのは、これで二回目だ。一回目は冬休み前、ライアンから彼女が肺炎を起こしかけていて緊急手術が必要になるかもしれないという連絡をもらったときだ。高遠と組まず単独で国際銀行から盗んだ金を送金したあと、如月は手術後の彼女の様子を見に立ち寄ったのだった。
そして、二度目の今日。今回急に連絡をもらったもののまだ詳しくは知らされていない彼女の容態も心配だったが、それ以上に、如月はこの中にいるという自分の過去を知る人物に興味と警戒心を持ってドアを開けた。
ドアが開くと同時に、窓際の椅子に掛けて外を見ていた人物が、ぱっとこちらを振り返った。彼の顔を確認して、如月は息を呑んだ。
「な……和海? どうして」
それは、日本を出る最後の日、自分の正体を知って裏切りにショックを受け、とうに自分のことなど愛想を尽かしたと思っていた如月の大事な友人、深町和海だった。
和海は、窓を背にして夕日で逆光になっている自分の顔をよく見ようと目を細める如月の顔をじっと見つめた。
何度も見直し、和海の顔を嫌というほど確認した後、如月は高遠を振り返り、鋭い目で睨みつけた。
「社長さん。まさか、俺を探すために彼を巻き込んだんじゃないだろうな」
あくまで友人を案じる如月に高遠は思わず苦笑し、代わって和海が答えた。
「違うよ、凌。俺の方が高遠さんに頼み込んだんだよ。お前を探すために力を貸してくれって」
昏々と眠る少女のベッドを囲んでここに至るまでの事情を話し始めた三人だったが、看護士のライアンに、病人のそばで非常識だと叱られ、部屋の隅の簡易応接コーナーに移動することになった。
「……そうか。アシュレイ捜査官がそこまで掴んでいたのか。だからあの施設にたどり着くことができたんだな。で、和海と社長さんはあの教会にも行ってみたのか」
話を聞き終えて、ため息を漏らしながら如月がたずねた。
「ああ。まあ、問題の絵はお前が既に盗み出した後だったけれどな」
そう答える高遠の横で、和海が懐から一枚の写真を取り出した。
「もうあのときの絵はなかったんだが、いろいろ聞いているうちに世間話のついでに、シスターが出してきてくれたんだ。あの絵をお前の親父さんから譲り受けた先代の神父さんが、ずっと以前、教会の改装前に撮った写真だって」
慎ましくではあったが芸術を愛し、絵画の収集家でもあったその神父は、生前古い教会の礼拝堂を改装する前に、自分が収集した絵が飾られた壁面の写真を残していた。そこに飾られていた絵は値段がつくような代物ではなかったので、改装後は、全てそのまま和海たちが訪れた時に通された礼拝堂横の小部屋に移されていた。
だが、一つだけ今はもうない絵が写真に写っていた。一番手前の絵だ。サインは、S-Kisaragi。如月凌の父親のものだ。如月が持ち出した地中海の島の絵ではなく、ある女性を描いた人物画であった。
この写真を解析にかけて、その絵だけを拡大したのが、これ。と、和海はもう一枚写真を取り出してその横に並べた。
「親父が人物画を描くことはめったになかったんだが……」
青い湖のほとりの深い緑の木々に囲まれた森の中で、すらりとした女性が古風な青いドレスを着て立っており、ぽっかりと明いた陽だまりがまるでスポットライトのように彼女を照らしている神秘的な構図だ。その光の中で首をかしげて天を仰いでいるため表情は見えないが、大きく開いた豊満な胸元からも、彼女のスタイルのよさが見て取れた。
じっと絵を見つめる如月は、女性の胸元の青い模様に目を留めた。ペンダント? いや、違う。これは……刺青か。
(この、青い蝶の図柄は、島で侵入者の監視をしていた男たちの手の甲にあったものと似ている)
如月は目を上げ、高遠を見た。
「社長さん。すまないが、この図柄の刺青を持つヨーロッパ系のマフィアを調べてくれないか」
高遠は、如月が押しやった写真をまた押し戻した。
「いや。調べるまでもない。有名な組織だ。青い揚羽蝶の刺青をもつファミリーは・・・」
高遠の話では、このファミリーはもともとはイタリアの古い港町を仕切っていた小さな組織だったのだという。その後一家はイタリアの都市部にも進出し、規模を拡大していったが、先代のボスの頃から彼らが手を染めるのは闇酒や武器の密売、ギャンブル犯罪であり、マフィアにつき物の麻薬ビジネスには手を出していなかった。
と、この辺までは裏社会の情報通なら誰でも知っていることだ。それ以上のことについては、なんだかんだ言いながらも高遠は写真の解析をした時点で、自分の判断によって組織の詳細を調べてきていた。目の前に資料を広げながら高遠は続けた。
「彼らの身内の中にも大麻で廃人同然になったものもいたようだし、麻薬ってのは闇酒やギャンブルと違って大衆からの非難も強く、当局の取り締まりも厳しいからな。それに、このファミリーのボスは商才があって麻薬に手を伸ばさなくても闇のビジネスで財を築いていったそうだ。」
ところが、近年になってボスが代替わりした前後で彼ら一家が麻薬ビジネスに手を出すのではないかという情報が裏社会に流れたという。けれど、結局麻薬取引の実現までは至っていない。その頃内部でのいざこざがあり、一気に組織の財力が落ちこんだため、ほかの組織に吸収される危機に直面し、新しい麻薬事業に手を出すどころではなくなったのだ。
「だが、今では持ち直して、やはりヨーロッパ屈指の組織として君臨しているようだ」
高遠の説明を聞きながら、和海が隣を窺うと、如月の目は写真の絵の女性の豊満な胸元を凝視していた。
(おいおい。まあ、健全な男子なら分からなくはないけどさあ)
苦笑する和海の耳に、如月の驚くべき呟きが聞こえた。
「俺さ……この女性の胸を知っている気がする」
「は? なんだって」
「この胸に抱かれたことがあるような……」
「おい、如月? 本当か」
高遠も目をむいた。日本語の分からないライアンと、眠る少女を除いて、病室に微妙な空気が漂う。
奥手で純情な田舎育ちの深町和海少年は、友人の意外な女性経験に思わず赤面し、それなりに女性経験はあるものの、基本的には純情な高遠も思わず耳を赤くしている。
「この女性と……所謂、関係を持ったことがあるってのか?」
高遠が恐る恐るたずねた。如月は二人の様子に気づかず答えた。
「はっきりとした記憶はないけど、たぶん」
「それって、初体験だよな? いつだ?」
同じ年齢の男としてなぜか悔しい気持ちになる和海が思わず聞いた。
「ええと……たぶん、産まれて一、二ヶ月ってところだと思うけど」
生後半年以降の記憶は鮮明にある如月であるが、それ以前になると、眠っていることの方が多く、さすがに記憶も曖昧である。
だが、半分眠る自分に乳を飲ませる女性を見上げたとき目の前にこの模様が見えていた気がするのだ。青い蝶を見ながら乳を飲み、眠りについた、そんな光景がおぼろげに脳裏に浮かぶ。
如月の返事に、二人は一気に脱力した。自分たちの早とちりを棚に上げて、紛らわしい言い方をするなよな、などと理不尽なことを呟いている。
「赤ん坊の頃ってことか。なら、その女性って、ひょっとして凌のお母さんなんじゃないか?」
和海の言葉に、如月は思わず固まった。