51.謝罪
如月に電話をかけてきたのは、イギリスの片田舎にある病院に勤める青年だった。
ライアン・ウィンターソンというその青年は、四年前からある寝たきりの少女専属の看護師としてその病院の特別病室で働いていた。
如月は彼の手を借り、少女の治療費として定期的にまとまった金額を送金している。それ以外に、何か変わったこと、例えば、容態の急変で緊急手術などの費用が必要になったときなどには、ライアン青年の方から、彼女の保護者である如月へと連絡を入れることになっていた。
「ライアン? どうした。彼女に何かあったのか」
急な連絡に不安を覚えつつ如月がたずねた。いつもの完璧な英語の発音がわずかに乱れる。
電話の向こうのライアン青年は、自分が看護をしている少女の表向きの保護者であり、病院とは別に自分を秘密裏に雇っている主の、いつになく慌てた声に不思議そうな声で答えた。
『あ、いえ。定期連絡にはちょっと早いですが、彼女のことで朗報があったのでお知らせしたいと思いまして』
「朗報? いったい……あ、いや、待て。今ここでの通話はまずい。明日には、そっちに行くよ。久しぶりに彼女の顔も見たいし。話は、直接聞かせてくれ」
特に緊急性の高いことではなかったようだったので、この場での会話は避けることにした。何しろ周りには自分がのした何人もの男たちの体が転がり、つい先ほどまで正体不明の、マフィアのボスと思しき人物と通信機でやり取りをしていた場所だ。用心に越したことはないだろう。
如月は、森の奥で気を失っている男たちを苦労して焚き火のそばまで引きずってきて、一箇所にまとめ、間違っても殺し合いなどという事態にならないように、全ての武器と通信機器を取り上げて隠したあと、島を離れたのだった。
陸路、空路を乗り継ぎ、意図的に回り道を繰り返しながら、翌日の夕方、如月はイギリス西部の田舎町にたどり着いた。
その町で唯一の病院の狭いロビーで、旧知の看護士ライアン・ウィンターソンに迎えられた如月は、彼の案内でひとまず病院の喫茶室に落ち着いた。午後のお茶にはすでに遅く、夕食にはまだ早いという微妙な時間のため、広くもないその部屋は閑散としていた。
セルフサービスの飲み物を取りに行ったライアンを待つ間、如月は西日の当たる窓際の席で腕を組み、目を閉じていた。考えを整理したいことはたくさんあるのだが、昨日からの疲労と眠気でどうにも頭がうまく働かなかった。
ライアン・ウィンターソンは、二十四歳。看護士としての経験は長くはないが、親身になって患者に向かい合うことができる人物だ。医学的知識も豊富で、人柄もよく、信頼に足る人物である彼を、ずっと年下である如月は、病室で眠る少女の保護者として私的に雇っている。
表向きには、彼女の保護者の代理人として通している如月は、彼女の容態をライアンから確認するために時々病院を訪れている。彼女の容態に異変があれば如月の携帯に連絡を入れるように指示してもいる。
今までのところ、ライアンは如月の要求に一片の不足もなく答えてくれていた。また、訪問する度にまったく目覚める気配がない彼女の様子に、つい不安を抱いてしまう如月にとって、いつでもほっとするような笑顔を浮かべ、穏やかに迎えてくれるライアン青年に会うことは精神的な安定剤にもなっていた。
そのライアンがしばらくして戻ってきたとき、彼はコーヒーの紙コップとともに、思わぬ人物を伴っていた。
よく知る気配を感じ、まどろんでいた如月は一瞬で意識を覚醒させた。
「高遠社長?」
驚いて、思わず立ち上がる。
「よう、如月。久しぶりだな。……この、薄情者め!」
怒気を含んだ声とともに、高遠の平手が目の前に迫ってくる。
はっと身を引きかけた如月だったが、思いなおして、動きを止めた。
姿も見せずに日本を発った自分を、この心配性の社長はきっと死ぬほど心配したことだろう。一発くらい殴られても仕方がないかもしれない。
パシン
頬に軽い衝撃があり、如月の視線がわずかにぶれる。しかし同時に与えられるはずの痛みは予想した半分もなかった。
「どうだ。思い知ったか」
目の前で頭一つ分上から如月を見下ろす高遠の口調は、もう全く普通のものだった。しかし如月には、高遠の表情から今までかけた心配の大きさが見て取れる気がした。
現在日本有数とはいえ、新興企業であり、安定というにはまだ若すぎる大企業のトップである高遠は、会社にとってはなくてはならない人物であり、長く会社を空けることはできない立場にあった。高遠自身も自分が築いた会社に愛情を注いでおり、如月との仕事で得た収入や情報も会社のためにつぎ込んでいた。
高遠がフランスから帰国後、欠勤していた間の雑務処理に追われて忙しくしていたことを知っている如月は、その彼がさらに会社を放って自分を追ってきたことに、それだけ自身がかけた心配の程度を痛感せざるを得なかった。
日本語が分からないながらも二人の様子から邪魔をしてはならないと察したライアンは、持ってきたコーヒーを二つテーブルに置くと、自分の分の飲み物を持って離れた場所に座った。
日が傾き、窓から差し込む西日がさらに深くなってきて、辺りは薄闇の気配が漂ってきた。光と影が入り混じる小さな病院の喫茶室で、如月は二週間ぶりに会った高遠と静かに向き合っていた。
ごめん心配かけて、と素直に謝罪を口にした如月は、そのとき、はたと気づいた。
「……で、社長さん、どうしてここに?」
「それは、どうやってここを知ったのかということか? それとも、何のためにここに来たのかということか?」
「両方だよ」
今まで、高遠に施設の少女のことやこの病院のことを話したことはなかったはずだ。仕事をする目的も、父親の絵を探すためということしか伝えていなかった。どうやってここのことを知り、やってきたのか。自分の事情をどの程度知っているのか。
高遠は困惑する如月を見て妙に嬉しそうな顔をした。これまで、仕事関係で、如月のふざけた能天気な言動に翻弄されるのはずっと彼の方だったのだから。
「まず一つ目の答えだが、この病院のことは児童施設の職員が教えてくれた。お前と彼女が以前いたという施設のな。で、その施設のことやお前の事情は、ある人が教えてくれたんだ」
「……それは誰だ、いったい?」
硬い声で如月が問う。そこまで自分のことに詳しいとなると、厄介な人物である。いったい誰が、何の目的で高遠に接触して情報を与えたのだろうか。
「知りたいか。こっちだ。会わせてやる」
そう言って、高遠は歩き出した。それに合わせてライアンも席を立つ。
結局ライアンが持ってきたコーヒーは手をつけられないままその場に残し、如月は彼らの後について部屋をあとにした。