49.島で
如月がボートを着けた場所は、二十メートルもあろうかという、岩肌が露出したほぼ垂直の急な崖の下。落石の跡か、強大な岩がごろごろしている岩場の奥である。丁度岩の隙間から生えた草が茂り、ボートの船体を隠すのに都合がよかった。その分、船底を岩に擦らないように神経を使う必要はあったが。
島に上陸した如月は、デイパック一つの身軽な姿で崖を登り始めた。簡単な装備はしてあったものの、命綱のない状態で上まで登りきるのは難しく、十メートルほど登ったところで、岩肌に開いた横穴に、身を滑り込ませた。
真っ暗な洞窟を、ポケットライトの明かりを頼りに進みながら、如月は今後の動きを考えていた。
この島を訪れるのが初めてであるから、当然、地図にも載っていないここの詳しい地形など知るはずがない。ただ、以前父親が話のついでに聞かせてくれた、思い出の女性と知り合ったという場所のことを彼は記憶していた。
森の中ほどにある湖。ひとまずそこへ行ってみようと、当初彼は思っていた。外周十キロメートルに満たない小さな島である。目指す湖は島の中心付近まで分け入らねばならないようだが、簡単に日帰りで往復できるつもりでいた。
だが、ほかに何者かが入り込んでいるとなれば話は別である。父親が訪れているのであれば全く問題はなく、むしろ歓迎すべき状況であるが、もしもそうでなければ、その人物が何の目的で来ているのか調べる必要がある。何にしても、とりあえず、この島にいる何者かの動向を探ることが優先事項だ。そう決めると、如月はさっそく行動に移った。
(ただの物好きな旅行者、というわけでもなさそうだが……この程度の距離まで近づいても気配に気づかないようじゃプロではないようだな)
侵入者のことを調べているうちに日は落ちて、辺りは薄暗くなってきた。人工的なものが一切入っていない手付かずのこの島は、うっそうとした森が多く、それが余計に早いうちから辺りを暗くさせている。
そんな中、暗闇に身を紛れ込ませた如月は、ほんの数十歩ほど離れた場所で焚き火に当たっている男たちの様子を見守っていた。
如月が調べたところ、島への侵入者には二通りあるようだった。
一つは、今、すぐそばまで如月の接近を許し、如月の存在に気づいてもいない非プロ集団。
彼らは三人グループで、真っ当な集団ではなさそうなのに危機感が薄く、この島を我が物顔で歩いていた。自分たちしかこの島にいないと思っているのか、暗くなれば、居場所を周囲に知らせるも同然であるのに堂々と火を使っている。
だが、彼らが普通のキャンプに来た一般人でない証拠に、三人とも銃を持っていた。ナイフの類を身につけている者もいる。恐らく如月が昼間上陸間際に耳にした銃声も彼らによるものだったのだろう。そのときこの島にはもう一組素人に近い集団がいたようだが、その後先行していた彼ら三人に発砲を受けて、ボートで島を後にしていったようだった。
彼らの目的が何であるかはっきりとは分からないが、余暇に訪れたとはとても見えない。どうやら、この島で何かを探している様子であった。
そして、二つ目の集団。こちらは恐らくこういった探索、尾行活動のプロだ。彼らは、一つ目のグループと違って自分たちの痕跡をほとんど残さず、ひっそりと行動している。服装も暗い森の中で目立たない迷彩柄である。
彼らの姿を捉えることは、如月にもなかなかできなかった。恐らく四人いるであろうことだけ漸くわかったが、こちらの存在を悟られないようにそれ以上のことを調べるのは限界だった。一度試しに接近してみたときに気配を読まれかけて不審がられたので、うまくその場をやり過ごした後は、この集団からは一定の距離を置くことを余儀なくされていた。
この第二のグループは、この島で派手に歩き回っている第一のグループを監視してでもいるかのように、彼らにつかず離れず様子を窺っている。すでにこの島を離れたグループの周囲にももともと二人ほどついていたようだが、彼らが立ち去った後は、第一のグループの三人に張り付き、今は彼らが囲む焚き火が見える暗がりで身を潜めている。
(いったい、やつらは何者だ? 何が目的なんだ)
いくら考えても分かるはずもなく、業を煮やした如月は実力行使に出ることにした。
約一時間後。警戒心もなく焚き火を囲む三人のうちの一人が小用で席を立った。彼らを見張っている一団もすかさず動く。
二、三のやり取りをした後、仲間のもとを離れ、標的の後を音もなくついていく迷彩服の男の後ろ姿を確認した如月は、さっとその場を離れた。
まず如月が狙ったのは、尾行者の方だ。用を足す場所を探して茂みに分け入る男の後をついていくその男の背を音もなく如月が追う。
タイミングを見計らって目標の人物の足元に木の枝を放ると、尾行者は一瞬、そちらに気を取られた。その隙にすばやく男に接近した如月は、流れるような動作で相手の口元を押さえると同時にスプレー式の即効性睡眠剤を吹き付ける。そのまま男は音もなく崩れ落ちた。
音を立てないように男を木の陰に隠した如月は、手早くその懐を探った。
(連絡用の通信機に、サバイバルナイフ。あとは……やはり武器の類も持ってるな。小型の改造銃か。最近ヨーロッパの闇市に出回ってるやつだな)
とりあえず銃の弾を抜いてから男の持ち物を離れたところに隠した如月は、ふと男の左手に目を留めた。
(なんだ? この刺青は)
男の手の甲に、青い蝶のような模様が刻まれていたのだ。
暗くてはっきりとは見えないが、如月はその模様をどこかで見たことがある気がした。
だが、どこで見たのか、はっきりと思い出せない。物心ついてからの如月の記憶力は完璧だ。彼はその記憶処理能力の高さゆえに、一度見たものを忘れようとしても忘れることができない。それにもかかわらず、その模様の記憶は曖昧だった。
考え込む如月の近くを、用を足し終えた男が、彼に気づかずに通り過ぎ仲間の方へ戻っていった。
その音に我に返った如月は、ひとまず思考を中断し、次の行動に移ることにした。