48.上陸
如月凌は、再びヨーロッパに渡っていた。
偽造パスポートをつかい、身分を詐称して日本を出た彼は、足取りをくらますために各国を転々とした後、現在は地中海に浮かぶとある島に向かっているところである。
無数の名もなき島の中から目的の島を探しだすのに時間がかかり、少々疲れを覚えながら、如月は偽名で借りたボートを操縦していた。
如月が日本を離れる日、画廊にいたのはちょっとした感傷のためであった。あの画廊での出来事がなくても、教会で父親の絵を見つけたときからすでに出発を決めていた。
ただ、その前にちょっと考えごとをしたくて父の絵がある画廊に立ち寄った。それは、如月にとって珍しい失策だった。手がかりを得てすぐに出発せず、未練がましく絵を眺めていたとき、彼を追う深町とアシュレイが彼の画廊へ無遠慮に乱入してきたのだ。
その結果、和海にまで自分が犯罪者であることがばれ、もう二度と親友の元に戻れなくなってしまった。
如月にとって、大事に守ってきた友との関係が、取り返しがつかないほど壊されてしまったことは大きな打撃だった。いっそ、どこか急所を打ち抜かれ身体的な苦痛を受けた方がまだましだったと思えるほどの。
しかし、どんなに後悔しても、なかったことにはできない以上、そこにとどまるわけには行かない。まだやらねばならないことがある如月は、苦渋の思いでその場を去り、当初の予定通り身分を偽って日本を発ったのだった。
ボートのスピードを少し落とした如月は、進路と目的の島の位置をもう一度確認した。
この島を、失踪後父親が訪れたであろうということは確信があった。あの、和海に連れられて行った教会で見つけた絵に描かれた景色は、その構図も含めて、ずっと昔見た父親の絵とだぶって見えた。
その絵が描かれたとき、まだ如月は六歳だった。
父親はギリシャの南の地域の、ある小高い丘に建てられた古い燈台守の小屋に泊り込み、海の彼方に小さく浮かぶ大小さまざまな島の絵を描いていた。そのうちの一つの島を、散々時間をかけたわりにあっさりとした構図で描いた父親は、仕上げに淡い彩色を施しながらその島のことを語ってくれたものだった。
その島は、父親の、ある女性との思い出の場所なのだそうだ。島の所有者はその女性であるが、普段は全くの無人島であるということだった。
幼いながらも興味を持った如月がその女性の事を聞くと、父親はただ笑って、もう会うことはない人だよと静かに言った。そして、この島のことを俺が描くのはこれで最後だから、よく見て覚えておけよ、と冗談半分のような口調で言ったことも、如月はその天才的な記憶力で覚えていた。
もう二度と描かない、と彼自身が言ったはずのこの島の絵を、失踪前に父親が残していった。教会で見つけた絵は、絵の具の状態から見て、十年以上前の、子どもの頃に見たものと同じ絵ではない。間違いなく、五年前の日本で父親が消息を絶ったあの時期に、新たに描かれたものだった。それに、何か意味があるに違いない。
ボートが低いエンジン音を響かせながら近づいていく島は、周りに散らばる無数の島と何の変わりもなかった。
例の父親の絵にしても、そこから目指す島の特徴を探り当てるのは難しいだろう。描かれた島を特定できたのは、如月自身、父親が始めにその島を描いた場に居合わせて、絵を制作していた小屋の前から見た方角や海域の特徴などを記憶していたからである。
そういうわけで、息子の自分以外にこの島をわざわざ訪れる人物はいないだろうと如月は考えていた。いるとすれば、意味深に絵を残した如月創一本人か、そうでなければ、昔父親が出会ったというこの島の所有者の女性だけであろう。
島が目前に迫り、如月は気持ちを集中させるように両手を擦り合わせると、ボートが座礁しないように用心深く岸に近づけようと、舵を握った。
そのとき。島の奥で空気を震わせるような音がした。
(銃声?)
はっと耳を澄ます如月の目に、ほとんどが崖と山からなっている島の中心部の森の方から微かに立ち上っている細い煙が見えた。
(誰か、この島にいる……)
無人島のはずのこの島に、何者かが侵入しているようだ。それはいったい誰なのか。彼が捜し求めていた父親なのか。それとも……。
如月は、一瞬で気を引き締めると、安全に岸に着けることができそうな海岸を避け、慎重にボートを操って切り立った崖の方に向かい、人目につかない場所に隠れるように上陸を果たしたのだった。