43.顔合わせ
「ただいま」
すっかり暗くなった頃、漸く帰宅した和海を出迎えたのは、兄の和洋と、一昨日からこのマンションにホームステイをしている、兄の友人である外国人の青年だった。
「遅かったな、和海」
ジェイクが夕食を作ってくれてるぞ、とソファーで寛いでいた和洋が手元の新聞から目を上げて言った。
おっけー、分かった着替えてくるよ、と言ってリビングを通り過ぎ、短い廊下を歩いて自室に向かいながら、ちらりと台所を見ると、いつも和海が作業している調理台から器用に皿を片手に三枚持ち、もう片方の手で扉を開ける金髪の男の姿が目に入った。初めてこの家を訪れたときに彼が身に着けていたダークブラウンのサングラスは、室内では外されており、日本人と比べて色素の薄い水色の瞳が和海の方を向きかけた。
それを見て慌てて彼から目を逸らし、和海はそそくさと部屋に入った。一昨日、兄に紹介されたときから、和海はなぜかこの青年が苦手だった。
彼の名はジェイク・アシュレイ。兄の和洋が警視庁勤務になる前、海外研修に出た先で知り合った友人だと簡単に紹介されている。日本には休暇でやってきたそうだが、彼は滞在中、毎日一人で出かけているものの、あちこち観光を楽しんでいる様子ではなかった。
毎晩、兄と二人遅くまで話しているようで、その内容は、なぜか自分も関係しているようだった。昨日も、何やら眉間にたてじわが寄っている兄に軽い気持ちで言葉をかけると、じっと顔を見つめられた後、重いため息を吐かれた。突然外国からやってきた金髪の男が、何か面倒なことに兄を巻き込もうとしているのではないかと和海は密かに心配していた。
和海が自室に入るのを確かめて、ジェイク・アシュレイは古くからの友人であり、ホームステイ先の家主でもある、深町和洋がいるリビングに向かった。突然の強引な滞在の見返りとして余儀なくされている手製の料理が並ぶ夕食の皿を、和洋が座るソファの前のテーブルに並べながら、小声で今後の展開についての確認を取った。
「カズヒロ。食事の後、さっき話したとおりに、弟に聞いてくれよ」
「……分かってるさ」
何やら浮かぬ顔で頷く和洋は、ここ数日弟がいない間を見計らってアシュレイと情報交換してきた会話の内容を思い出していた。
『……あの、国際窃盗犯一味に繋がる人物を追っている、だって?』
驚く和洋の言葉に、アシュレイは大きく頷いた。
『ああ。独自の捜査だが、実は名前まで押さえてある』
俺の知っている限り、犯行の際姿を見せるのは彼一人だが、彼からきっと一味の全体像を暴くことができるだろう、とアシュレイは自信ありげに笑った。
アシュレイが掴んでいるその窃盗犯一味の一人は、リョウ・キサラギという、未成年の日系人であるという。その少年の名前は偽名である可能性もあるが、画家である彼の父親の名は確実に裏を取っている。
『彼の父親、ソウイチ・キサラギの絵が、あるオークションに出品されているという情報を得てな。その会場に来ていた彼の仲間の動向から、彼らが日本に潜伏していると踏んで、来日したというわけだ』
あの日アシュレイは、自分の一言により混乱した会場の中で、上品な身なりの日本人青年が、如月、と叫ぶ声を聞いた。初めて目にする、如月少年の関係者だったが、調べるまでもなくすぐにその正体を掴むことができた。
日本はもちろん各国の企業の中では知られている高遠朗というその男が事件後慌てて日本への帰国便の手配を始めたという情報を掴み、彼らを追って日本に渡り、独自の捜査を進めることを決めたアシュレイだった。
『高遠朗か……』
先日の事件の後、自分が怪しいと睨んだ人物の名前をさらりと出され、和洋はなんだか悔しいような気持ちになった。
だが、今の話の中でそれよりも気になったのは、如月凌の父親であるというその画家の名前である。和洋はついこの間それを耳にした覚えがあった。
(確か、この前の週末、和海が友達に呼び出されて『如月創一』という画家の個展に行って来たと言っていたな)
そのことを和洋が告げると、アシュレイの目が鋭い光を帯びた。
『俺の知る範囲では、ソウイチ・キサラギは旅の画家で、彼の作品はあちこちに散らばっている。今までに個展をしたという情報も入っていない。……面白い。その個展会場、ぜひ調べてみたい。カズヒロ頼む、カズミに詳しい場所を聞いてくれ』
承知したものの、和洋は、弟の友人の名前が如月凌であること知っていながらなぜか、アシュレイに告げることができなかった。
***
翌日。和洋は休みを取り、アシュレイを連れて、TAKATOカンパニーが経営するある画廊に向かっていた。昨晩弟に、不審げな顔を向けられながらも、如月創一の個展をやっていたという画廊の場所を聞き出した和洋は、胸にすっきりしない思いを抱えていた。
その画廊は一般公開をしていなかったので、二人は隣接するTAKATOカンパニーの本社ビルを訪れた。和洋が受付に名前を告げるとすぐに、以前訪ねたときに会った恐ろしく美人でありながら恐ろしく冷たそうだった水城という秘書が応対に出た。
「社長は所用で出ております。お待ちいただくのも申し訳ございませんので、ご伝言がありましたら承らせていただきますわ」
馬鹿丁寧な口調の裏で、言外にとっとと帰れと告げられた気がした。
しかし、それでもなお、画廊を見せて欲しい旨を告げて食い下がると、水城はいらいらしたように息を吐き、結局社長室から画廊のマスターキーを取ってきて渡してくれた。引き換えに身分証明書を預ける羽目になったが、アシュレイがそれでもいいから見たいというので、結局それに習った和洋だった。
扉を開けると、決して多くはない数の絵が、狭い空間を生かし、一つ一つ効果的に展示されていた。
だが、その洗練された画廊の雰囲気を味わう暇もなく、部屋の奥でこちらに背を向けて立つ人影に気づいた和洋は、はっと体を硬くした。
小柄で細身の、未成年のシルエット。和洋たちが扉を開けたときに舞い込んだ風のせいで、一瞬ふわりと舞った黒髪から東洋人だと知れる。それ以外の服装も、ズボンも上着もマフラーに至るまで、彼の装いは黒だった。
和洋の隣で、アシュレイが息を飲む音がした。
「お……お前は」
搾り出すようなアシュレイの声に、ゆっくりと少年は振り向いた。彼の顔を目にした和洋は、当たって欲しくない時に限って予想は当たるものだということを実感した。
彼は、和洋が以前繁華街で補導しかけ、その後弟につれられて家の前で再び会った、あの少年だった。そう。自分のことでもないのに彼が不良呼ばわりされただけですごい剣幕で怒るほど、弟が大事に思っている友人である。
「アシュレイ捜査官。日本まで追っかけてくるなんて、ご苦労様」
笑いを含んだ声は、刑事とICPO捜査官に追い詰められた犯罪者のものとは思えないくらい明るかった。