42.教会の絵
如月が日本に着いたのは、金曜日の昼過ぎだった。
普段なら学校がある日で、今頃は午後の授業が始まる時間帯だが、今週はテスト週間だとかで帰りが早い。今から向かっても、もう生徒たちが下校する時刻である。
今日も含め、二週続けて学校を欠席してしまった如月だったが、そのこと自体はなんとも思っていなかった。彼が気にしているのは、友人の深町和海に、サボりだと思われていないかという、その一点だけだった。
空港の到着ロビーを出てすぐ、如月は携帯電話を取り出した。
恐る恐る十個のボタンを押して、通話ボタンを……押しかけて、結局そのまま、またポケットに仕舞った。それを何度か繰り返し、漸く意を決したように通話ボタンを押した。
プルルルル、プルルルル……プルル、ガチャ
『ハロー。ディスイズ、フカマチ……』
「間違えました。すみません!」ピ
外人特有のたどたどしい日本語に驚き、慌てて通話を切ってしまった如月だった。
(なんだよ、おい。なんか、外人が出たぞ)
間違えたかな、と番号を確認しようとしたとき、如月の携帯電話が震え始めた。
着信相手を確認すると、公衆電話からだった。
「……はい?」
不審に思いつつ電話を取った如月の耳に、懐かしい声が飛び込んできた。
『あ、凌? 俺、和海だけど』
「和海? 何で公衆電話から?」
驚く如月に、和海は苦笑交じりに答えた。
『ああ、ちょっとな。今、うち客が来てるから、なんか居づらくて。で、お前がもう具合大丈夫なら、例の親父さんの絵、見に行こうかと思ってさ』
今から行かないか、と誘う和海に慌てて承諾の返事を返す。彼が使っている公衆電話の場所を聞いた如月は、出国の際、空港に置きっぱなしにしておいたバイクを取りに駆け出した。
和海が思い出した絵の在り処は、彼が育った町、如月と初めて出会ったあの海辺の町だった。
短い滞在期間中、如月自身は訪れたことがなかったが、彼の父親の絵は、町の小さな港を臨む高台の上にひっそりと建つ教会に飾られているということだった。
電車で行く、とかなり渋った和海を宥めてバイクの後ろに乗せた如月は、一般道路を高速道路並みにとばし、一時間ほどで目的地に到着した。静かな教会の佇まいに遠慮して丘の中ほどでバイクのエンジンを停めた如月は、澄んだ鐘の音を聞きながら、大きな車体を押して坂を上った。
「ここ、ここ」
慣れた様子で和海が教会の中に入っていく。知り合いなのだろうか、年取ったシスターに近づいて二言三言交わした後、如月の方に戻ってきた。
この町の高校に合格したとき、子どもの頃からこの教会に時々遊びに来ていた和海は、お世話になったシスターのもとに合格を知らせに来たのだそうだ。その際、ここで如月の父親の作品を見たはずなのだが、そのときはあまり気に留めていなかった。当時の神父の趣味で、いくつかの絵を常に飾っていたため、きれいな色使いながら、シンプルなその絵のことを、和海はすぐに忘れてしまっていた。
だが、先週如月に誘われたギャラリーで彼の父親の絵を見たときに、ふと、以前に見た絵が記憶に引っかかったのだ。
「こっち。勝手に見ていいってさ」
礼拝堂の横の、待合室のようなその部屋の戸を開けると、目的の絵はすぐに目に飛び込んできた。
「な、これ、お前の親父さんの絵だろ? 隅のほうに日付やサインも入ってるし」
和海が絵に近づき、右下の方を指差した。カバーも何もなく、ただ粗末な木の枠におさまっているその絵を、如月は無言で見つめた。
和海の指の先には、S-Kisaragiの擦れかけたサイン見える。そのすぐ下に記された日付は、如月が和海と出会ったあの年、父親を残して一足先に彼が日本を発った一週間後だった。
「この日付って、お前と別れてすぐくらいだよな。親父さん、最後にこの絵を売って次の国に出発したんだな。あ、お前もひょっとしてそのときここに来た?」
如月は瞬きもせずに絵を見つめている。
「ガキだったから俺、そのときは絵のよさなんてわかんなかったけどさ。改めて見ると、お前の親父さんの絵、なんか、雰囲気あるよな。この前ギャラリーで見せてもらった絵もよかったし……」
話し続ける和海の横をすり抜け、ゆっくりと如月が絵に近づいた。
父親が描いた絵の前で立ち止まってそっと手を伸ばし、何かを確かめるように絵に触れる。本来、芸術作品に素手で触ることはタブーなのだろうが、如月の張り詰めたような雰囲気に、和海は声をかけることができなかった。
どれくらい時間が経っただろうか。かたり、と戸口で音がした。さっきのシスターが飲み物を持って部屋に入ってきた。和海が礼を言おうとしたとき、ゆっくり振り向いた如月が、この部屋に入って初めて声を発した。
「この絵を、お売りいただけないでしょうか」
「凌? おい、何だよ突然」
和海の声が聞こえていない様子で、シスターだけをじっと見る如月の顔からは、表情というものが抜け落ちているかのようだった。シスターはため息を吐くかのようにひっそりと言った。
「この絵は、ある方からお預かりしたものだと聞いております。ですから、申し訳ありませんが、お売りするわけには参りません」
でも、いつでもいらっしゃって、ゆっくりご覧になっていって下さい、と微笑むシスターに、そうですか、と如月は無表情のまま頭を下げて、また絵に向き直った。
俺はもう少し絵を見ていたいから、悪いけど先に帰ってくれないか、と如月に言われ、和海は後ろ髪を引かれながら彼を残して教会を後にした。そろそろ日が傾き始めている。
子どもの頃からよく訪れていたため、この辺りのことをよく知っている和海は、様子がおかしかった友人を心配しつつ、近道をつかって最寄の駅まで急いだのだった。
それから数日後。小さな港町の古い教会で起こった、窃盗事件が地方版の新聞の隅に小さく載った。
もともとただで譲り受けた絵だったらしく、他のものは手つかずで、教会に損害はなかったということだった。