34.計画
「そのオークションが開催されるまでに、やっておきたいことがある。今回の仕事は下準備が重要だからね」
高遠から数々の資料を見せてもらい、頭に叩き込みながら、如月は弾んだ声で言った。
仕事にかけては天才的な彼の頭の中では高遠には思いも寄らない計画が綿密に組み立てられているのだろう。そういうときの如月はいつもに増して生き生きしている。口元には嬉しそうな笑みが浮かぶ。
資料を見るのが一段落した如月は、台所に立った。
台所の棚の前で、少しの間思案する。いつものお気に入りか、魅力ある新入りか……。両手にいつものコーヒー豆の袋と、高遠の土産である茉莉花茶の缶を持って見比べた後、結局コーヒーを淹れ始める。
お湯が落ちるのを待つ間も資料を手にしてぱらぱらめくる如月の様子を見て、資料提供以外今はすることがない高遠は、俺が淹れてやればよかったな、と思った。
そんな高遠の思いをよそに、しばらくして如月がふわふわと湯気のたつマグカップを両手に持って戻ってきた。そのうちの一つを高遠の前に置きながら、ふと改まった顔になる。
「どうした?」
さっきまでの浮かれた表情とは打って変わって真面目な顔つきの如月に、高遠は訝しげな表情になる。
浮かない如月の顔など珍しく、なんだか落ち着かない気分にさせられる。相手が何を言い出すのか内心びくびくし、意味もなく、壁にかかった絵などを見てしまう高遠だった。
「実は、高遠社長に頼みがあるんだ」
「な、なんだ?」
「もしかすると社長さんに迷惑がかかることになるかもしれない、俺の勝手なお願いなんだけど……」
「だから、なんだ? 言ってみろ」
珍しく歯切れが悪い相手に、不安が募る。ひょっとして、今の協力関係を解消したいとか、この国から姿を消すとか言うのではないか……。
だが、如月の口から出たお願いというのは、高遠が予想もしないものだった。
「俺に、TAKATOカンパニーの画廊を貸して欲しい。集めた親父の絵を、如月創一の名前で飾っておきたいんだ」
今回の贋作騒ぎで、見た目には表れなくても、彼もいくらかショックを受けていたのだろう。高遠は、如月の気持ちがわかる気がした。
趣味でも仕事関係でもいくつもの画廊を持ち、経営している高遠にとって、それは難しい頼みではなかった。
だが、一つだけ心配することは。
「わかった。引き受ける。で、……一般公開もするのか?」
高遠が経営する画廊に如月創一の絵。それは、如月と高遠のつながりを示すものになる。明るみになればどちらにとっても命取りだ。
「いや。もちろん一般には存在しない画廊でいいんだ。親父の名前で展示しておきたいっていう、俺のわがまま……自己満足みたいなものだから」
高遠に迷惑をかけるつもりはないから、自分だけが見られれば満足だと思いながら、ふと、和海には見てもらいたいな、という思いが如月の胸中に過ぎった。
それから数分後。
高遠が用意した資料に一通り目を通した如月は、すっかり冷めたコーヒーを飲みほした後、また台所に向かった。軽く腕まくりをして今度は茉莉花茶を淹れ始める。普段は口にしない分、この部屋でたまに目にする嗜好品の誘惑に勝てないのである。
「たまにはお茶もいいなあ」
カップのお茶に息を吹きかけて香りを楽しみながら上機嫌で如月は言う。
まだ今回の計画の詳細を知らされていない高遠は、当然のようにご相伴に預かったカップの中身はそっちのけで如月に尋ねた。
「なあ。まだ計画段階だということはわかるが、今考えていることだけでも教えてくれ」
勢い込んで訊いてくる高遠をよそに、如月は五感のほとんどを、目の前の茉莉花茶を楽しむことに集中させている。
だが、聞いていないわけではなかったらしい。高遠が痺れを切らす前に口を開いた。
「ああ。詳しいことは詰めてるところだけど、今言えるのは、今回の相手は違法オークションだから、いつものようにどこかで資金を調達しておいて、正攻法で絵を買い付ける必要はないってこと。直接潜入して、無料でいただいちゃおうと思ってる」
そして部屋には、ずずず、とお茶をすする音だけがしばらく響いた。
やがて、十分お茶を堪能した如月は、準備を念入りにしたいから、しばらく日本を離れるということや、高遠に調べておいて欲しいことなどを、漸く話し始めた。
「そうそう。あと、絶対今回は警察を介入させたくない、警察の動向にも気を配って、動きを牽制しておかなくちゃな」
そう告げる如月に、高遠は大きく頷いた。この前のような騒ぎはごめんである。
すっかり夜が更けた頃、帰り際に如月が高遠にぽつんと言った。
「……今回の仕事で、一つだけどうしてもまだ悩んでいることがあるんだ。じっくり考える時間が欲しいから、一日時間をくれ。それまでにいい考えが浮かばなかったら、社長さん、相談に乗ってくれよ」
今回の仕事の計画を練り始めてから、初めて如月が見せる不安そうな表情だった。
だがそう言われても、如月が悩むほどの難問の相談に乗る自信はない高遠だった。
そして翌日。
いつものマンションにやってきた如月は、情けない顔で高遠に助けを求めた。
「やっぱり俺には考え付かない。社長さん助けてくれ!」
「い、いったい、なにをそんなに悩んでるっていうんだ、如月?」
「聞いてくれる? ありがと。……えっと、今回の仕事を完璧に成功させるには、いろいろと準備が必要で、しかも日本を離れなくちゃならない」
「ああ。昨日もそう言っていたな」
「そうなんだ。で、そのためには、来週からしばらく学校を休まなくちゃいけなくなる」
「……ああ」
「学校を休むってことは、だ。今までの素行から言ってサボりと思われる可能性が高い」
「…………そうだな」
だんだん仕事と関係がない方向に如月の悩みが逸れていくのを感じながら、それがどうした、と聞いてみた。すると如月は泣き出さんばかりの勢いで高遠に縋りついた。
「頼む。和海にサボりと思われたくないんだ。何かうまいいいわけ考えてくれよ!」
結局、呆れ顔の高遠が、保護者の振りをして病欠の連絡を入れことを承諾し、話は落ち着いた。
問題はその病名だ。中途半端な風邪とかだと、長引くうちに見舞いに来ようと吉村あたりが言い出しかねない。でもあまり重い病だと心配されてしまう。
如月があまりにも延々と悩んでいるので、見かねた高遠が、美咲に適当な病名を相談しておくから、と言ってやる。それを聞いて、如月は漸く安心した様子で、仕事の準備に取り掛かるために隠れ家を後にしたのだった。