32.情報
ブルルルル……
耳に小さな振動音を捉え、如月は目を開けた。
自室のベッドから素早く起き上がり、少し離れた机の上に置いた携帯電話をすぐに取り上げた。
ディスプレイを見て着信相手をチェックすると、高遠社長を示す偽名が表示されている。
ついでに今の時刻の表示に目をやると、ハンバーガーショップ前で吉村と別れ、帰宅してから一時間ほど経っていた。部屋の中はもう夕闇に包まれている。普段と違う時間にまとまった睡眠をとったため、寝起きに軽い眠気が付きまとう。
高遠は、如月の負傷を理由に強引に彼の代理を引き受け、密売組織から手に入れた金で例の絵を買い付けるため、昨日ヨーロッパに向かったばかりだ。片道に軽く一日はかかるだろうから、今頃漸く現地に着いたところであるはずだ。
海外からわざわざ連絡を入れてくるとは。何かあったのか?
頭を軽く振って眠気を払拭し、如月は通話ボタンを押した。
「はい」
『ああ、俺だけど。今夜、いつものところに来られるか?』
なにやら興奮した様子の声が聞こえた。
「いったいどうしたの。今、ヨーロッパじゃないのか?」
『あ? いや、今ちゃんと日本にいる。で、今夜、大丈夫だな?』
「……わかった」
事前の打ち合わせと違い、今現在、ヨーロッパではなく日本にいる、と高遠は言った。ということは、想定外の事態だということだが、相手の声からはそれほど緊迫感は感じられない。とりあえず、今夜会って事情を聴くことにしよう、と如月は思った。
通話を終了させようとした途端、相手から待ったがかかった。
『おい、待て。今って、バイト中じゃないのか? やけに早く電話を取ったな、お前』
「ああ。今日はいろいろあってバイト休んだんだ」
『珍しいな、お前が。ひょっとしてお前、一昨日の……』
「こらこら。何言うんだよ」
今度は如月が慌てて話を遮る。
おいおい、仕事での怪我のことなんか言うなよ。傍受防止にそれなりの細工をしてはいるが、携帯電話での通話中なのだ。めったなことを言わないで欲しい。
「全くこっちは問題なし。そっちの話を聞きたいから、今夜ね」
相手が何か言いかける前にさっさと如月は電話を切った。
***
そして、夜十時。
電話の後再び二度寝に突入した如月は、約束の時間から大幅に遅れて隠れ家のマンションに着いた。
いつものように全く防犯カメラに映ることなく、玄関先のオートロックも証拠を残さず不正開錠し、高遠がいらいらして待っているであろう一室に踏み込んだ。
「遅い!」
顔を見て、開口一番、不機嫌な声がかけられた。
怒っているのかと思った高遠は、ひとしきり文句を言った後、意外にも上機嫌のようだ。そんな仲間の様子を不思議に思いつつ、如月は台所に向かった。
「お、新しいお茶が入ってるじゃん。茉莉花茶か。中国茶なんて珍しいな」
いつものようにコーヒーを淹れようとした如月が、目ざとく嗜好品の並ぶ棚に新入りの存在を見つけ、弾んだ声を出す。
「ああ。それは土産だ。飲んでいいぞ」
やはり機嫌がよさそうな声でお茶を勧められた如月は、手を止めて高遠の方を振り向いた。
「……今、土産って言った?」
「ああ。言ったな」
「ってことは、社長さん。今回の行き先は、ヨーロッパではなくて中国だったってこと?」
「ああ。言ってなかったっけか。実は、お前が仕事の後ここで寝こけている間に例の絵の仲介業者を調べたら、ちょっとした知り合いでな」
寝こけている、という言葉に嫌そうな顔をした如月だったが、高遠は無視した。
こっちは彼が撃たれて重症のため気絶していると思い込んでいたのだ。まさか寝不足がたたって熟睡しているだけとは思わず、要らぬ心配をして無駄に胃壁を荒らしもした。これくらいの嫌味は許されるだろう。
「……で、その業者の男に連絡を取ったら、偶然こっち方面に来る予定があるということだったのでな、中国あたりで落ち合おうということにしたんだ」
そう如月に説明した高遠だが、その話は、都合よく微妙に修正されていた。
実は違法ぎりぎりの商売をしているその業者に、高遠は、顔の広さを生かして以前いくつかの貸しを作ってやっていた。そこをつついて、今回、無理に出張の予定をねじ込ませ、極力こちらが楽できるようにしたのだ。
「おいおい、ほんとにそんな予定があったのか? 脅して無理やり来させたんじゃねえの?」
と、鋭い突込みを入れる如月をとりあえず軽く流して、高遠は笑みを浮かべて言った。
「どうやら、美咲に元気付けてもらったようだな」
「……なに?」
高遠の言葉に如月が固まった。
美咲と今朝話をしたことをなぜこいつが知っている?
如月の疑問を読み取ったように高遠が言った。
「昨日の出発前に俺が頼んでいたんだ。お前が大事な友人の兄弟のことで悩むんじゃないかって思ってな。美咲に、優しく元気付けてやってくれって」
優しく? 確かに話を聞いてもらって珍しく落ち込んでた気持ちは晴れたけど、優しく、ではなかったような気がする。帰ってから自宅の鏡で見ると案の定背中にくっきりと手形が残っていた。
(ゆりさんに背中を思いっきり叩かれて、じめじめした頭の悪い男呼ばわりされて。……そうか。あれはこいつのせいか)
親切が空回りしたことに気づかない高遠だった。
「……で? まさかそんなこと言う為に呼び出したわけじゃないよな」
妙に冷たい口調の如月に内心首を傾げつつ、高遠は、いや、もちろんちがう、今のはほんの前置きだ、と断ったあとで、もともとの用件を伝えるために口を開いた。
「実は、偶然なんだが、その仲介業者から、新しく如月創一の絵の情報が入ったんだ」
はっと、如月の表情が改まる。こんなに立て続けに情報が集まるなんて、今までにないことだ。
「それ、本当か?」
「ああ。だが、今回は、真っ当な話ではないぞ。お前の父親の絵が、違法オークションに出品される予定なんだそうだ」