31.自業自得
朝のショートホームを久しぶりにさぼってしまった如月が授業開始ぎりぎりに教室に入ると、怒るかと思った和海が、逆に心配そうな顔で話しかけてきた。
「おい、凌。大丈夫か? おまえ、昨日どこか怪我してたんじゃないのか?」
……来たな。予想通りの質問に、如月は驚いた顔を作って言った。
「は? 怪我? 全然そんなものしてないぜ」
「だって、昨日ゴールでへばったお前を保健室に連れて行くとき、血が俺の服に付いてたんだぜ」
和海が疑わしそうな顔を向ける。その表情には八割くらい心配が含まれてることを見て取り、嘘をつくことにちらりと罪悪感がよぎった如月だったが、平然と続けた。
「血ぃ? あ、あのときのかな?」
「やっぱり、怪我したのか?」
「ああ、そうそう。まいったよ。昨日駅伝で頑張りすぎて、坂道のところですっころんでさあ」
「……それで?」
ちゃんと手当てしたのか、と心配そうに身を乗り出す和海に、笑顔全開で言ってやる。
「それで、そのときに猫の死体の横に倒れちまって。そのときだな。その猫の血が学ランに付いちゃったみたい」
「は……? 猫?」
がくり、と体勢を崩す和海に、心の中でひたすら謝る如月だった。
***
美咲にこっぴどく叱られ、今日こそ絶対安静を言い渡された。彼女のあまりの剣幕に恐れをなした如月は、その日、おとなしく授業は寝て過ごし、珍しくバイトも休んで、放課後すぐに教室を出ようとした。
だが、そうはいかなかった。
教室の扉の前で、道を塞ぐように吉村が待ちかまえていた。何人か、クラスメイトも一緒である。
「何?」
そこに立たれると、通れない。
訝しげな如月の腕を取って、吉村がにかっと笑った。
「何って、決まってるじゃん♪」
そして、何がなんだかわからないままに、吉村たち数人のクラスメイトに連れられて、気がつくと、如月は駅前のハンバーガーショップの二階のボックス席に座っていた。
彼らいわく。
『昨日の打ち上げのとき、如月居なかったじゃん』
『そうそう。せっかくの喜びをまだ分かち合ってないよな』
『だから、今日は有志で如月と打ち上げをやろうぜってことになったんだ』
『なんたって、今回のクラスマッチ、如月が一番活躍したんだし』
(いや、一番頑張ってたのは吉村だろうが)
如月が口を挟む間もなく、吉村本人が如月を褒め称え、勝手にハンバーガーや飲み物を注文する。
「あ。そうそう。今日はバイト何時からなんだ?」
賑やかなおしゃべりの合間にふと、吉村が如月に顔を向けた。
「いや、今日は休み……」
ぱっと吉村の顔が輝く。
しまった。
これからバイトなんだ、悪いね、と抜け出す絶好の機会を今自ら棒に振ってしまったことを悟り、顔を顰める。
(でも……まあ、いいか)
あきらめ顔でハンバーガーを頬張る如月だった。
それから数十分。延々と続く話に気のない相槌を打っていた如月はふと、険しい視線を感じた。
露骨に首を動かさないようにして視線だけで様子を探る。
(あの奥の席のやつか。でも、全くの素人だな)
自分の身に危険が及ぶような事態ではなさそうだ。だが、あまりいい気持ちがしない粘りつくような視線だった。
「あ、俺、ちょっとトイレ」
隣の席の吉村が席を立った。コーラの飲みすぎじゃねえのー、とからかわれつつ、店の奥に向かう。
吉村が居なくなった途端、楽しく喋っていたクラスメイトの様子が微妙に変化した。それまでと違い、如月に遠慮するような空気が漂う。
(あー、まあ、そうだよな。不良って言われてるやつに平気でぽんぽん物言ったり馴れ馴れしくしたりするやつなんて、吉村か、……和海くらいだよな)
それでも、あまり気にした様子もない様子の如月に、だんだん安心したかのように周りでは少しずつ話が再開されていった。以前のような、あからさまにおどおどした様子はないので、如月としても居心地は悪くない。
(なんか、ちょっとこいつら変わったのかな。だとしたら、和海のおかげだな)
以前に、如月を無理やりクラスマッチのバスケに押した理由を聞いたとき、彼はこう言っていた。
『お前がクラスで浮いているのが嫌なんだよ。クラスマッチで活躍したらクラスのやつにも認められて、みんなの目も変わるんじゃないかって思ってさ』
こんなの大きなお世話だよな、と和海は恐縮していたが、そんなことはなかった。
そのときも、彼が自分のことを一生懸命考えてくれたことに如月は飛び上がるほど嬉しく思ったし、今だって、これまでクラスで浮いていても全く気にならなった如月だったが、こういう雰囲気も悪くないと思い始めていた。
(それにしても、吉村のやつ、遅いな)
気が付くと、さっきの視線も消えている。なんだかいやな予感がして、如月はトイレだと断り、席を立った。
***
トイレに、吉村の姿はなかった。トイレの横に裏口へ続く扉があり、如月は迷わず開けようとした。
鍵がかかっている。
周りに誰も居ないことを確認し、袖の裏から、ピンを取り出して鍵穴に突っ込む。間髪いれずにかちゃりと鍵が外れる音がした。
裏口から外に出ると、ゴミ袋が積まれた細い裏通りの先に、数人の男たちの姿が見えた。
体格のいい男たちに囲まれているのは、如月と同じ学ランを着たひょろりと背の高い、熱血バスケ少年だった。
「おい、吉村。クラスマッチのときはよくも俺らに恥かかしてくれたな」
声を発したのはさっきの嫌な視線の人物のようだった。私服だが、恐らく吉村の部活の先輩なのだろう。肥口先輩、と呻くような吉村の声が聞こえた。
周りを取り囲む大柄な男たちには見覚えがあった。如月が入学してきたときにやけに絡んできた三年生……にくっついていた当時の二年生だ。一年経ってますますでかくなり、如月と比べて体格の差は歴然だったが、それでも、実戦になれば全く相手にもならないだろう。ごついのは体格だけだ。
しばらく見守っていたが、彼らの包囲網がぐっと狭まったのを見て如月は音もたてず駆け出した。
「吉村ぁ! お前、たいしてバスケが上手でもないのに、えらそうなんだよ」
ついこの間、大学のスポーツ推薦が決まり、部活でヒーロー扱いされて照れて笑っていた先輩の罵声に、吉村は腹立たしいよりも、悲しくなった。
それでも、ぐっと相手を睨みつける。すると横から声が飛んだ。
「なんだ、先輩に向かってその目はよぉ!」
肥口が助っ人として連れてきたのだろう、柄が悪いと有名な三年生が吉村を突き飛ばした。
わずかによろめいたものの何とか踏みとどまった吉村を見て、ちっと舌打ちが聞こえる。
(こいつら、クラスマッチの日にも同じことして、俺を捻挫させやがったな)
見覚えのある顔に吉村はかっとなった。だが、続く肥口の言葉を聞いた途端、背筋が凍った。
「全く、生意気なやつなんだよ。そいつの、足でも手でも折ってやってくれよ。俺の卒業まで、バスケなんてできないようにさ」
吉村は、初めて相手に恐怖を覚えた。
バスケができなくなる? そんなのは嫌だ。やめてくれ!
そんな吉村の思いをよそに、ぐっと周りを囲む男たちの輪が狭まった。そのとき。
「おまえら。こんなところで何してんの」
ありえないほど近くから声がかかった。
ざっとその場の全員が振り向く。そこには全く今まで気配がなかった第三者の姿があった。
「如月?」
よく知る人物の姿に状況も忘れて驚く吉村だったが、その姿を見て驚いたのは彼だけではなかった。
「お前は……如月!?」
「おい、何でやつがここに?」
「まさか、こいつの知り合いか?」
周りを囲む三年生の輪が崩れ、ざわついた。
「な、なんだ? こいつ」
三年間、一応バスケ一筋に打ち込んできた肥口だけが、不良と噂の如月の顔を知らなかった。
「お、おい。肥口、こいつ知らねえの。二年の如月だよ」
「去年の三年生もこいつが一年のときぼこぼこにやられたんだ」
「肥口、お前、このガキが如月と知りあいなんて一言も言わなかったじゃねえか」
早くも逃げ出す体勢の連中を見て、如月が呆れたように言った。
「おいおい。もう逃げちゃうの。こっちは一人。そっちは……一、二、三、四……。一対五だぜ。断然そっちの方が有利なんじゃない?」
それを聞いて、柄の悪い連中の顔が青くなった。
「何言ってるんだ。お前去年七人相手に全員病院送りにしたじゃねえか!」
「ああ、そうだっけ。まあ、あいつら弱かったからねえ。というか、俺にやられてる仲間を見てほとんど逃げちゃったから病院行ったのは四人か五人くらいだぜ」
「ばかやろっ。後から残りも全員通院したんだよ!」
「あっそ。まあどうでもいいけどね。……で、俺のダチの吉村君をまだぼこぼこにする気あるの?」
細くて小柄で色白で、どう見ても強そうに見えない如月にじろっと睨まれて、強面で大柄な男たちが震え上がっている。だが、誰もそれを笑うやつはいなかった。
助けに来てもらった吉村でさえ、如月の迫力に飲まれて動けない。
自分の問いに必死でぷるぷるぷる、と首を振る男たちの様子がおかしいのか、くくっと笑いを漏らしつつ、如月が吉村の腕を掴んだ。ちらりと視線を向ける。
「俺は行くけど。お前、残る?」
「まさか」
慌ててついていく吉村の肩越しに、わかってると思うけど、今後こいつに手、出すなよ、と告げる如月の低い声が聞こえた。
裏通りから表通りまで抜け、もといたハンバーガーショップの正面入り口まで来たとき、如月は吉村の腕を放した。
「じゃ、俺悪いけどもう行くから。あ、俺のバーガー代くらい、今のお礼に奢ってくれるよな?」
こくこく。無言で頷く吉村に、如月は苦笑を浮かべる。
(吉村でも、こうなるか。でも、こりゃ俺の自業自得だよな)
数時間前の、有無を言わさず自分を店に引っぱってきたときの様子から一変した吉村の態度に如月は苦笑を漏らす。
今までの自分の言動を考えれば、仕方ないかと思いつつ少しの寂しさを覚える如月だった。