30.除湿
「ゆりさん、昨日はありがとう」
朝早く登校し、保健室を訪れた如月は、開口一番、美咲ゆりに礼を言った。
昨日、クラスマッチの駅伝に飛び入り参加し、前日に負っていた傷を悪化させてしまった如月は、怪我をクラスメイトに知られるわけにもいかず、誤魔化そうにも貧血でふらふらの状態だったため、後のフォローを一切美咲に任せきりだった。
美咲は、睡眠不足による軽い貧血よと言って、駆けつけたクラスメイトを安心させて追い返し、如月をゆっくり休ませてくれた。――如月が半分眠りかけながら、彼に付き添ってきた深町和海の体操服に血が付いてしまったことを告げるまでは。
「例の取引現場に血の付いた銃弾を残してきたまま脱出しちまったから、近いうちに警察に忍び込んで証拠品を取り返してこなきゃとは思ってたんだよ。でも、まさかこんなに早く正体がばれかけるとはね」
保健室の窓にもたれて外を見ながら如月は、彼には珍しくため息を吐いた。
今日の如月は、どんな厄介な事態も、それはそれで面白い、と常に目の前の事を楽しんでいる普段の彼からは考えられない暗い雰囲気をまとっている。
深町和海にはなぜか警戒心をすっ飛ばして接している如月は、彼の体操服に自分の血が付いてしまったときも、しみになったら弁償しなくっちゃ、くらいにしか思っていなかった。
しかし、彼と同居している兄が如月と高遠を追う刑事で、今回の現場にも来ていたと知らされれば話は別だ。
現場で回収された銃弾。そして、たまたま弟のクラスメイトが負っていた怪我。普通ならありえないことだが、万に一つでも両方を手にし、鑑識に持ち込まれて血液鑑定をされては一環の終わりである。
昨日、美咲に和海の兄の事を聞いた如月は、はっとベッドから身を起こした。戻りかけた血の気が再び一気に引いた顔で慌てて銃弾の回収に向かおうとし、数歩も行かないうちに再びへたり込むことになった。
もともと自分が動くつもりだった美咲は、如月をベッドに強制的に叩き込み、警視庁鑑識課の古株である恩師を利用し、フォローに回ったのだ。彼女のおかげで、如月が事件に関わったという証拠は闇に消えた。
「本当にありがとう。ゆりさん。感謝してるよ。でも……そろそろ潮時かな」
窓から目を離し、いつになく真面目な顔で美咲を見つめる如月に、美咲も真面目な顔でたずねる。
「それは、深町君に、自分がやってることを知られたくないからかしら?」
「……いや、ちがうよ」
もともと、如月はこんなに長く日本にとどまるつもりはなかった。
だが、高遠という協力者を得てから、格段に仕事がしやすくなり、父親の絵も自分一人のときよりもスムーズに集まるようになった。高遠が有能でしかも用心深いおかげで、警察や裏の組織の手が如月に伸びることもなかった。
数ヶ月この国で仕事をし、少しでも疑いを持たれたらすぐに国外へ拠点を移そうと決めていた如月には予想外のことだった。
この二年間。如月は、産まれて初めて学校に通い、普通の生活を味わうことができた。
そして、五年前に、普通の少年として数週間を一緒に過ごした和海との再会。再会してから、クラスメイトとして彼と過ごした時間は、少年時代に感じた以上に、如月にとって普通で特別な日々だった。
だから、ちょっと……いや、かなり警戒心を緩めすぎた。少しでも危なくなったらすぐに姿を消す。一人になってから、ずっとそうやって来たというのに。
「和海は関係ないよ。誰であろうと、ばれて追い詰められる前に姿を消さなきゃ」
如月は静かに呟く。顔を上げてはいるが、視線は定まっていなかった。対峙する美咲の方を見ているようで、ずっと遠くを見ているような瞳。
如月には、捕まるわけにはいかない事情があった。
一つは、自分が捕まれば、協力者である高遠や美咲の身にも危険が及ぶということ。
二人とも、すでに警察関係者と接触しており、自分が捕まればその関係もそう遠くないうちに明るみに出るであろうことは間違いなかった。
如月自身はもともと放浪者だ。今の場所に何のしがらみもない。自慢の腕で、足取りをつかませず完璧にこの国から消え失せる自信があった。だが二人には、今までの生活、築いてきた立場というものがある。
高遠は特にそうだ。国内でもトップクラスの企業の経営者が居なくなれば経済的に大きな打撃を与えるのは明らかだ。先日幹部連がいっせいに捕まったWALコーポレーションの、企業としての崩れ方は記憶に新しい。いったい何千という元社員の家庭が路頭に迷っているのか。
美咲にしても、彼女の逮捕によって影響を受ける人は高遠の比ではないだろうが、この学校だけでもショックを受ける人は大勢いる。
だが、捕まる前に自分が姿を消せば二人を巻き込むことはまずないだろう。
二つ目の理由は、如月の個人的な理由だ。失踪中の父親の捜索のために絵を集めることである。
そして、高遠にさえ言っていないが、もう一つ、どんなに金を使っても、例えそのため犯罪行為に手を染めたとしても、自分が一生責任を負うと決めたことがあった。これを放り出して捕まるわけにはいかない。
(本当は、もう少し和海と普通の学校生活を送っていたかったけどな)
諦めにも似た表情の如月に、美咲はつかつかと近づいた。そして、大きく腕を振り上げ……次の瞬間、シュ、と風が空を切る。
ばっし―ん
容赦ない平手が如月の背中を襲った。
恐らくくっきりはっきり手形が残っているであろう衝撃に、如月が声もなくその場に蹲り、悶絶する。
「……何すんだよ。ゆりさん」
不意打ちでかなりのダメージを受け、立ち上がれない如月は恨めしそうに美咲を見上げる。 だが、美咲の顔に浮かぶ冷たい怒りの表情を見て、一瞬にしてこっちが悪かったような錯覚に陥り、慌てて目を伏せた。
明らかに、彼女は怒っている。……怖い。
「あなた、本当に如月凌? あなたともあろう人がえらく情けないことを言うわね」
美咲の背後には青い怒りのオーラが立ち上っている……ような気がする。怖くて確認できず、目を伏せたまま、如月はたらたらと冷や汗を流す。
「追い詰められる前に逃げる? どうせ、協力者の私たちを巻き込まないようになんて思っているんでしょうが、とんだ臆病者ね。仲間を守ってやる力もないなんて。お得意の天才的な仕事の腕はどうしたのよ?」
「……」
「まだ警察に証拠を捕まれたわけでもないのに消えるなんて負け犬の思考じゃない。どうしていつものように、『面白いじゃん。警察なんかに意地でも証拠をつかませるもんかよ♪』ってノリノリで動こうとしないのよ?」
如月はひたすら無言である。言い返す言葉もない。
「それに……深町君は関係ないなんてうそでしょ。以前はどうか知らないけど、今のあなたはここでの高校生活に未練があるんじゃないの」
見抜かれている、と如月は瞠目した。
(さすが、ゆりさん)
「とにかく、私はじめじめした男が嫌いなの。うじうじ悩む頭の悪い男なんて最低ね。高遠を困らせるくらい楽天家で、自信たっぷりの方が、あなたらしいじゃない。……ここまで言わせたんだから、いい加減立ち直ってくれない?」
これ以上部屋の湿度を上げるとそこの乾燥機に放り込むわよ、と続けられた口調は始めとすっかり変わり、ごく優しい調子だった。
目を上げると、怒りではなく、呆れた表情の美咲が如月を覗き込んでいた。
「……さんきゅ。ゆりさん。目が覚めたよ」
おかげで除湿完了、と、如月はいつもの顔でにやっと笑った。