3.心配性
高遠朗は怒っていた。
日本を代表する新興巨大企業において異例の若さで代表取り締まり役という地位にある彼は、今のように待たされるということに慣れてはいなかった。
夜明け前から、仕事用に使っている住宅街の一角にある分譲マンションの一室で備え付けのソファーに座り、寝不足の胃に先ほどから四杯目のコーヒーを流し込んでいる。さっきからひっきりなしに小刻みに机を指で叩き、本人は自覚がないままに十二回もいらいらと脚を組み替えた。
そして漸く、コンコンコン、とリズミカルなノックの音がした。
玄関の施錠されていたはずのドアはどうやら不正開錠されたらしく、この部屋のドアからそれは聞こえてきたが、そんなことに構わず、高遠は開いたドアの向こうの人物を睨み付ける。
「おまたせしました〜」
「おそいっ」
目の前の少年は冷たく睨む高遠を全く気にした様子もなく勝手に向かいのソファーに身を沈めた。
「うわ、ふかふか。やっぱり高級家具はいいな」
無邪気な声に、少し怒りが冷める。高遠の目の前に座る男はただの高校生にしか見えない。全くの子どもである。
登校前に寄ったのだろう、彼が通う高校の制服を着ている。整った顔立ちだが、楽しそうにくるくると動く目が、その言動と相まって彼の印象を子どもっぽくさせている。
高遠は、はあっとひとつ大きなため息を吐き、それで金の方は、と、ソファーの感触に目を細めている如月を促した。
「ああ、もちろんいつものように、仕事用の口座に入れておいたよ。……それと、はいこれ。今回社長さんにお願いされてた獲物」
如月は思い出したように制服のポケットから封筒を取り出した。ライバル企業にわたってしまい、危うく流出しかかっていた高遠の会社の重要情報が入った書類とディスクである。
これが流れ出す前に抑えられたことは正直助かった。昨夜不測の事態が起こったとき、高遠は実行犯である如月の身を案じ、出直すという慎重策をとろうとしたが、彼は従わず、どのような手段を使ったものか、見事予定時間内に犯行を成功させたのだった。
そのおかげで、高遠の会社は危機を乗り越えたといえる。
ちょっと待ってろ、と言い置いて、すぐにディスクの中身を確かめるため、備え付けのパソコンを起動させた。
五分ほどで高遠が確認を終え、ふと気がつくと、ソファーの如月は腕を組んだまま俯いて眠っていた。朝の光がカーテン越しに、目を閉じた彼の横顔を照らし、先ほどまでとうって変わった大人びた顔に見えた。
しばらく音信普通だった如月はその間に外国で一仕事したと言っていた。帰ってきて早々に今回の仕事だ。いくら腕利きの彼でも相当疲れがたまっているはずである。
起こすのも忍びなくて、ついでに自社のパソコンに回線を接続し、メールボックスを確認する。すると、裏世界の情報を配信するサイトの一つから、専用のアドレスにメールニュースが届いていた。ぽんぽんとダブルクリック。
「…………なんだと?」
高遠は、流れるニュースに目を疑った。
それは、高遠もよく知る、裏世界で一、二を争う勢力を持つ闇の組織の資金が国際銀行の口座から消えたという、驚くべきニュースだった。
それだけではなく、組織が手を染めた犯罪証拠の一部が資金源の一つである企業から警視庁へリークされたということも、詳細不明の情報として記されていた。これが本当ならば、今日明日中に警察による組織の一斉検挙もありうると記事は締め括られていた。
あまりにも危険度の高い情報のため、届いたメールは開いて一分後にパソコンから自動削除された。
「へえ。もうニュースになってんだ。どこから情報が漏れるんだか。俺も気をつけないと」
能天気な声が背後からした。いつの間に起きたのか、如月が欠伸をしながら高遠のパソコンを覗き込んでいた。
「おい、まさか、昨日、通信が途切れたとき・・・」
高遠のライバル企業がこの巨大な裏組織に資金を提供していることは知っていたが、さすがの彼も今まで手を出せなかったのだ。そのライバル企業から自社のマル秘情報の持ち出しを如月に頼んだのは昨日。そして組織の犯罪がリークされたのも昨日。
「ああ。あの会社の社長室のメインコンピューターから情報をリークしたのさ。これが今回俺にとってメインの目的だったしね」
飄々と如月が言う。
「冬休みに外国に行くと言っていたが、まさか……」
冬休み中、旅行に行ってきます、というメールを残して忽然と姿を消した如月は、一週間全くの音信不通だった。
漸く携帯が繋がったと思ったら、海外で一仕事したから普通に出国できなくなった、国外脱出の手引きをして欲しいと、内容の割りに明るい口調で頼まれたのだ。代わりに何でも仕事を引き受けてやると言うので、今回の仕事を依頼し、大急ぎであらゆる伝を使って当時フランスにいた如月を、足がつかないように出国させてやったのだった。
外国でどんな仕事をしたのかなど、今の今まで聞く暇がなかった。
「ああ、日本でかなり幅を利かせている組織の闇資金を見つけたからね。金も入用だったし、いただいちゃった」
一人で仕事しちゃって悪いね、でも俺って何でもオールマイティーにできるからさあ、とか、国際銀行って言ってもちょろいもんだったよ、などとにこにこと告げる如月に高遠社長のこめかみが波打った。
「だ、か、ら。そんな危険な仕事をサポートもなしにやるんじゃないっ! 少しでも足がつけば裏組織の連中に髪の毛一本残らないくらい叩き潰されるんだぞ!」
わかってるのか、と怒りのあまり過呼吸気味の荒い息づかいで始まった説教は、如月が口を挟む暇もなく、延々と続いた。
……始業式だってのに、遅刻決定? いやそれより、今日中に登校できるのか、とふと思った如月だった。