29.疑惑
クラスマッチで二日とも優勝した和海のクラスは、担任からご褒美としてハンバーガーとシェイクを奢ってもらい、教室で軽く乾杯をした。
如月はなぜか保健室から帰ってこなかったけれど、クラスの全員がいまや如月のことを認めていた。和海の狙い通りになったわけである。
「ただいま」
帰宅した和海が上機嫌で、クラスマッチの汗を流そうと風呂場に向かうと、脱衣所もかねた洗面所では、兄の和洋が疲れた顔で髭を剃っていた。
「あ、兄貴、でかけるのか。今日も遅くなるの?」
「ああ。いつも夜一人にして悪いな。……あ、今朝の飯もうまかったぞ」
「そんなお世辞はいいよ。それより、無理すんなよ」
心配そうな弟の声に癒されつつ、髭剃りを終えて弟に洗面所を明け渡そうとした和洋は弟の姿を見て、はっと腕を掴んだ。
「おい、和海、怪我してるのか?」
え、と鏡を見た和海は、自分の服の右側面が茶色っぽく汚れているのに気づいた。
「いや。怪我なんてぜんぜん……。なに。これって、血のあとなのか?」
困惑気味の和海に、和洋は鋭い目つきになる。
「ああ。血液ってのは時間がたつとそんな色になるんだ。さっきは上からジャージ着てたからわからなかったけど、下の体操服に結構べっとりついてるな」
本当に怪我してないんだな、と尋ねる兄に、ああ、俺は怪我していないよ、と答えながら、和海はふと思い当たった。
「この位置は、凌を支えたときかな」
如月がゴールと同時に倒れこんだとき、抱えて運ぼうと彼の左側から抱えあげた。そのとき確か和海はジャージを上に着ていなかった。それから後は寒くなって帰りまでずっとジャージを着たままだった。たしか、そんな気がする。
考え込む弟の言葉に、怪我をしていたのが和海ではないことにほっとした様子の和洋だった。
だが、その位置が気にかかる。刑事としての勘に、非常に引っかかってしょうがない。
「お前の右側に血がついてるってことは、そいつが怪我してたのは左側ってことだよな。左の脇腹か……」
たしか、昨日磯崎を庇ってたぶん撃たれたであろうやつも、被弾位置は左の脇腹だった。だが、それが高校生の弟のクラスメートであるわけがない。
(考えすぎだ)
と思いつつ、念のため。
「ちょっと、この体操服貸してくれよな。あ、ちゃんと俺が洗濯して返してやるから」
「え? ちょっと兄貴?」
自分の汗まみれの体操服を持って慌てて仕事に出て行く兄の姿を呆然と見送る和海だった。
***
それから数時間後。
鑑識課のドアの前で深町和洋は立ち止まった。
ノックをするために手を上げようとしたとき、中から扉が開き、出てきた人物にぶつかりそうになる。すばらしい反射神経でさっとよけた和洋は、相手が目的の人物であったことに気づき、慌てて呼び止めた。
「松さん、待ってください」
「ああ、深町か。わし、急いどるんじゃが……」
何しろ、わしが大学で講師をしていたときの教え子たちが誕生日パーティーを開いてくれるというんじゃから、と相好を崩す鑑識課で一番の古株であり、腕利きでもある松前のしわだらけの顔を和洋はじっと見た。
「結構ですよ。夕方に頼んでおいた結果を教えてもらえればすぐに退散します」
こうなれば用事を済ますまでてこでも動かない相手のことをよく知っている松前は、ため息をついて、部屋に逆戻りした。
「ええと、確か、昨日押収した弾丸に付着した血液と、今日お前さんが持ち込んだこの汗臭い体操服についている血液が同じかどうか、じゃったな」
「……はい」
和洋は知らず息を詰め松前の言葉を待った。
「まず、この体操服にしみこんだ汗の人物と、付着した血液の人物は違う。誰か怪我をした人間をこうやって支えたときについたんじゃろうな」
「……ええ。そうですね」
「で、この弾丸に付着した血液と、こっちの体操服の血液じゃが……どうも同一人物のもののようじゃの」
こんなの、一分もあれば調べられるわい、と得意そうに言いながら、再び慌てて部屋を出る顔なじみの鑑識官を、今度は和洋も止めようとはしなかった。
昨日、麻薬密売組織の逮捕劇の後、現場検証を進める中で、取引用に準備された組織の金が、スーツケースの札束の一番上に置かれたカモフラージュ用を除いて、みな消えていることがわかった。だが、麻薬売買用の金が盗まれたとは言えない組織の幹部連中はそんな金知らないの一点張りだ。
と言うことは、また、被害届が出されない窃盗事件が起きているのだ。例の窃盗犯の仕業である可能性は高い。
だが、今回いつもと違う点は、謎の窃盗犯の一味の一人が正体につながる証拠品を残していったことだった。
その人物の血液が付着した銃弾。それが、偶然手に入れた弟のクラスメイトの血液と一致した。度重なる偶然の産物で、ついに犯人を追い詰める証拠を掴んだというわけだ。
(これで、謎の窃盗犯の一人を確実に逮捕できる)
しかも、まだ自分しか気づいていないのである。思わず和洋の口の端に笑みが浮かぶ。
待て待て、とはやる気持ちを抑えながら、ふと、クラスメイトが窃盗グループの一味だとして逮捕されたら、弟はショックだろうな、という思いが頭をよぎった。
だが、そんな気持ちは無理やり押し込めた。捜査に私情は禁物である。
とりあえず、逮捕状を取るための書類を作成しようと、和洋はいったん鑑識課を後にした。
(それが、まずかったか……)
なんと、彼がその後徹夜で書類を作成し終わり朝になって再び鑑識課を訪れると、事態は急変していた。
「ああ、深町さん。松さんなら、昨日飲み過ぎたとかで今日はまだ来ていませんよ」
でも、昨日の結果はもうまとめてあるみたいですよ、とベテラン松前の下で働く若い鑑識官が資料を手渡してくれた。そこには。
(弾丸に付着した血液と、体操服に付着した血液はまったく別のものであることを証明する……? これは、どういうことだ?)
昨日とは一転した結果が載せられていたのである。
しかも、もう一度若い鑑識官にも検査してもらったが結果は同じ。しかも、あれは人間のものではない、とまで断言された。
『付いているのは猫の血液みたいですね。運動した帰りに怪我した野良猫でも抱いたんじゃないんですか、この人』
これが、事件に何か関係が? と、逆に聞き返されて和洋は返事に窮した。
昼前に漸く姿を見せた松前に昨日のことを問いただしても、
「うーん。昨日、何か検査したかのう。え、そこに結果が出てる? じゃあ、そこに書かれている通りの結果じゃろう。……え、昨日と言っていることが違う? そうかのう。どうも昨日は飲みすぎたみたいで記憶が定かじゃないんじゃが。わしが本当にそう言ったのかね。……ああ、頼むから耳元で叫ばないでくれ、頭に響く……」
いったいどうしたというのか。昨日判明したはずの謎の窃盗犯の正体につながる証拠はいったいどこへ消えてしまったのか。
狐よりももっと悪いものにつままれた気分の深町和洋刑事だった。
その日の朝。
尊敬する恩師を酔い潰してまで如月の証拠物件をすり替え、腕利き刑事の彼への疑惑を払拭した美人養護教諭、美咲ゆりが、出勤前の自宅で優雅にモーニングコーヒーを啜っていたことは誰も知らない。