28.クラスマッチ二日目〜レースの行方〜
如月が十区の中継所に着いたとき、その場はちょっとした騒ぎになっていた。
見知ったクラスメイト、河野はるかの姿を見つけ、状況を聞いてみることにする。
「えっと、河野さんだっけ。何かあったの?」
振り向いたはるかは、如月を見てなぜだかぱっと顔を赤くし、いつもよりおとなしい声で教えてくれた。
「なんか、うちのクラスの十区の早坂君がまだ来てないらしいのよ」
「え? だって、和海、もうすぐ来るぜ」
驚いた如月の耳に、実行委員の焦った声が聞こえた。
「二年C組、もう来ますよ! 十区のランナーは棄権ですか?」
はるかが泣きそうな顔になる。
如月はさっと動いた。実行委員のそばに行って尋ねる。
「同じクラスだったら、登録選手じゃなくてもいいですか?」
実行委員も切羽詰っていたのだろう。規則をろくに読みもしないで頷いた。いいですよ、早く早く、ライン上に立ってください、と逆に急かされる。
「如月君が走るの?」
目を丸くするはるかに、如月は笑いかけた。
「和海がせっかく走ったんだ。無駄にはできないだろ」
(如月君、かっこいい!)
感動するはるかの胸中を知ってか知らずか、如月は思った。
(走るの好きじゃないんだけどなあ。まあ、何とかなるか)
和海は夢中で走っていた。
陸上をやっているわけでもない和海にとって久しぶりの長距離である。しかもクラスの優勝がかかっているため、序盤で前に追いつこうとペースがかなり上がっていた。
始めの一キロメートルで三人抜いたが、後半で息切れし、二人に抜き返された。その後はペースを保って走ってきた。
ゴール間近で現在五位。今の和海の足はがくがくで、もう限界だった。
和海の目の前に、九区のゴール地点が見えた。十区のランナー、早坂の姿を探すが……いない。その代わり目に入った姿は。
(凌? なんで)
「おおーい。和海。あと少しだ。がんばれ!」
「早坂君が出場できなくなったから、如月君が交代したのよ! がんばって!」
如月とはるかの声を聞きながら、和海は中継所にとびこんだ。
如月にたすきを渡した途端膝をがくっと崩した和海は、走り出そうとした如月の腕に支えられた。
「おいおい、大丈夫?」
心配そうに覗き込む如月の横を、和海がせっかく追い抜いたクラスのランナーが駆け抜けていく。
「ばか、凌! 早く走れって」
倒れこまないようせっかく手を貸してやった和海にバンッと背中を叩かれ、腹の傷まで響く痛みに泣きそうになりながら、如月は漸く走り出した。
***
「如月が走ってる?」
ぜいぜいと息を切らせながら和海たちの元に到着した吉村が、事情を聞いてほっとしたような表情を浮かべた。
「まあ、如月なら大丈夫だろ」
明確な根拠はないけど、身体能力が驚くほど高い彼は、走るのも得意そうだ。優勝を確信する表情の吉村に、和海が心配そうに口を開いた。
「でも、凌のやつ、長距離は苦手だって言ってたのに。それに、なんか今日はいつもにまして寝不足みたいだし、大丈夫かなあ」
どちらにしても、如月がやってくるゴール地点となる学校の正門前で待ち受ける以外に、彼らにできることはなかった。
如月は走っていた。
長距離は苦手だといっても、運動神経抜群で身軽な彼にとって、普段なら八キロくらいの距離はどうってことない。
しかし、今の如月は全く万全の状態ではなかった。
(痛え……)
五キロを過ぎるまでに前を行くランナー三人を抜き去った。だが、そのとき無理しすぎたのか、それ以降地面に足がつく度に昨日負傷した脇腹を痛みが走りぬけている。
残り一キロ地点で一人を抜かしたが、もう限界だった。
信じられないほど息が上がり、足がもつれた。目の前が暗くなる。
どうやら傷口が開いて出血してきているらしい。昨日の失血に加えての新たな出血に、如月は軽い貧血状態に陥っていた。
見学だけのつもりだったのでジャージなど持って来ていなかった如月は、学ランを着たまま走っている。黒い学ランのおかげで染み出した血が目立たず、道行く人が流血にぎょっとするような見た目になっていないことがせめてもの救いと言えた。
(学ランにたすき……間抜けな格好なんだろうな)
自分の姿を想像すると、思わず笑いがこみ上げてくる。
笑ったことでなんだか気分が浮上してきた如月の目に、前を行くランナーの姿が映った。もう何人抜かしたかはっきり覚えていないが、最後に、あいつだけ抜いてやる……。
ふらふらになりながらも如月は必死で前を行く背中を見据えた。
「あ、きた! 如月君、すごい。今、トップのランナーを抜かしたわ。一位よ!」
はるかの声に、和海も道の向こうに目を凝らせた。学ランを着た小柄なランナーが見えた。
「学ランにたすきか。やるなあ、如月」
おかしそうに吉村が言い、『がんばれ二のC』と描かれた手製の旗を振り回した。
「……待てよ。なんか、凌の様子が変だ」
ふらふらした足取りの如月を見て、和海は慌てて立ち上がった。
校門前に出て、気づかずにゴール前を通り過ぎようとした如月の腕を掴み、中に引っ張り込む。
「ゴ―――ル! 今年のクラスマッチ、駅伝の部第一位は大番狂わせ! 大穴の、二年C組です!」
実況中継をしていたらしい実行委員の興奮した声を聞きながら、和海は、自分に腕をとられたままその場に崩れ落ちた如月を見て、顔色を変えた。
いつもよりも白い顔は、一目でわかるほど血の気が引いている。呼吸も苦しそうで、指先も走ってきたばかりにしてはやけに冷たい。
「吉村、そっち支えて」
如月の左腕を肩に回して支えながら、和海が声をかけると、旗を放り出して吉村も駆け寄ってきた。
そのとき、漸く如月が目を開けた。
(い……痛たた。和海、そこは傷の上だ)
眉を顰めつつ、そっと和海の手を外す。
「いいよ、大丈夫だって。あーあ。情けねえよなあ。いくら久しぶりに走ったからって、これくらいの距離で貧血になるなんて。でも、もう平気だから」
俺が長距離苦手だって見事証明されちゃったなあ、と情けない表情を作る如月に、ようやく和海も安堵した。
よし、何とかごまかせた、と喜ぶ如月だったが、その後保健室に連れて行かれ、絶対安静と言い渡しておいたにも拘らず無理して走り、昨日の傷が開いたことを知った美咲に、自業自得よと凍りつくような冷たい目で睨まれ震え上がることになるのだった。