24.不測の事態
「侵入完了」
如月が呟くと、襟元に取り付けたワイヤレスマイクが即座にその音を拾い、通信機の向こうの高遠に伝えた。
***
今日は高遠と如月が予てから準備をしていた仕事の決行日。
麻薬密売組織が裏取引用に用意した資金をいただくのが今回の狙いだった。取引相手は海外の密売人であるため、金を手に入れるとすぐに安全圏へ撤退できるよう準備を万全にして取引に臨むに違いない。つまり、取引が行われてからでは仕事がやりにくくなる。そのため、今回は取引前に仕事を決行する必要があった。
本当は昨日侵入し仕事を済ませるはずだった。しかし、実行犯であり主犯でもある如月から、不健全な彼らの仕事には似合わない健全な理由で延期の申し入れがあったため、翌日に決行することとなった。
だが、決行を一日伸ばしたために、事態は思わぬ展開を見せた。取引が早まり、本日行われることになったのだ。
当日になって情報を掴んだ高遠が慌てて如月に緊急連絡を入れたが、クラスマッチで活躍中だった彼は携帯電話を携帯しておらず、漸く連絡がついたのは夕方になってから。それは決行のわずか数時間前のことだった。
その夜。
如月から取引場所である港近くの寂れたビルに侵入を果たしたと報告を受け、いらいらと待っていた高遠は、ほっと安堵のため息を漏らした。
狙った組織の取引が今夜行われるという情報を掴み、慌てて警備情報を仕入れたが、見落としがないか確認する余裕はなかった。
不安要素が多い今回の仕事は実行犯の如月にとってあまりに危険であると高遠は止めたのだが、何とかなるって、と当の本人に押し切られてしまった。――実際、彼は今までどんな不測の事態にもすばらしい機転で対応し、しくじったことはない。
そして、今回も警戒が強まる取引現場に驚くほどの短時間で侵入を果たしている。
だが、高遠は今日の決行に、常にない嫌な胸騒ぎを感じていた。
コンコン。軽いノックの音が静かな社長室に響いた。
扉の向こうの名乗りを聞くと、それは、退社時間を過ぎても珍しく残業をしており、先ほど挨拶をして帰って行ったはずの秘書の水城の声だった。
今回、時間がないためいつもの仕事用のマンションではなく、自社の社長室で如月のサポートをしていた高遠は、慌ててパソコンや通信機器の画面を通常モードに切り替えてから、秘書を招き入れた。
「どうしたんだ、水城君」
いつもは冷静な秘書が心なしか慌てた顔をしている。
「実は、さっき退社しようとして、社員用エレベーターに乗っていたのですが……」
TAKATOカンパニー本社ビルの社員用エレベーターはなぜかガラス張りで、外の様子を見下ろしながら昇降できるようになっている。
エレベーターから、水城は何か気になるものを見たのだろうか。いったん退社しかけておいて社長室に報告に戻るくらいの。
「何か、見えたのかね?」
「ええ。入り口のあたりの物陰に黒いスーツの男がいたんですの」
(なんだと)
高遠は一気に血の気が引いた。
今日、この日に自分の会社を見張るとは。麻薬組織の一味が自分たちの動きを突き止めたということか。だとすれば、こちらを始末するつもりなのだろう。
そうだとすれば、非常にまずい。だが、とりあえず、今は無関係の秘書をうまく帰さなければならない。
「それは怖い思いをしたね、水城君。すぐに警察に連絡を取るから、君は、今日のところは正面玄関から帰りたまえ」
「いえ、社長。それには及びません」
「……どういうことだね?」
「私、不審に思いましたのでその男に問いただしてみたんです。そしたら……なんと、相手は警視庁の刑事さんだったのですわ」
秘書の声に、暗殺による口封じという最悪の事態ではないことがわかったが、それはそれで、高遠は血の気が引く思いだった。
「警察だと? この前来た刑事か」
「いいえ。この前おいでた方ではありません。……社長、刑事がわが社を張り込むなんて、マスコミに知られたらわが社のイメージダウンですわ。早いうちに、いつものように上に圧力をかけてやめさせたほうがよろしいのではないでしょうか」
憤慨したように言った水城は、自社のトップがこわばった顔をしているのに気づき、慌てた。
「すみません。出すぎたことを申しました。では、失礼いたします」
そそくさ。如月も顔負けの素早さで、且つ、優雅さを損なうことなく、彼女は社長室からあっという間に退出した。
(如月。まずいぞ。警察が俺たちの動きをマークしている。ひょっとして、今回の取引への関わりを疑っているのかもしれん)
冷や汗をかきつつ、高遠は現場で孤立している仲間のもとへ緊急連絡を入れるため通信機器を操った。
***
その頃。如月はすでに高遠社長の緊急連絡は必要がない状況にいた。
(警察が張ってる……。やつらもこの取引を追っていたようだな)
物陰から、自分と同じように隠れて様子を窺っている数人のスーツの集団を見て、如月は事態を察した。
(ということは、このまま俺が金を持ち逃げしちまったら取引自体がなくなる。今の時間だと取引相手もまだ到着していないから、取引現場を警察が押さえることができなくなるな……)
考え込む如月は、実はすでに目的のものをいただいた後だった。
高遠の情報をうまく使いつつ、自分の機転をフルに活かし、取引に使う金が入ったスーツケースを手に入れるのはあっけないほど簡単だった。金を警護していた男たちには、姿を見られないような角度から一発お見舞いし、強制的に夢の国へ旅立っていただいている。
金の入ったスーツケースを前にしばし考えた如月は、ぽんと手を打った。
「仕方ない。今回は警察の皆さんがたに協力することにしましょうか」
小声で呟き、如月はすぐに作業を開始した。