15.ピンチ
その頃。高遠朗は、国内で一、二を争う近代的で洗練されたデザインの自社ビルの中の、社員用トイレの個室で汗を浮かべていた。
(如月……なぜ、出ない?)
手にはさっきから何度もリダイヤルを繰り返しているプライベート用の携帯電話が握られていた。
もう一度。
祈るように押されたリダイヤルボタン。だが、耳に飛び込んできた音声は、
『お客様のおかけになった電話は、現在電波の届かないところにあるか、電源が入っていないため……』
「くそっ!」
ついに電源を切られてしまったようである。
役立たずになった電話を握り締め、高遠は、突然訪れたピンチに青褪め、座り込んだ高級便座から立ち上がることもできなかった。
事の発端は1時間ほど前――
「社長、お客様です」
社長室で今日の会議の資料に目を通していた高遠は、ノックとともに入ってきた秘書の声に目を上げた。
髪をきっちりとまとめ、隙なく高級スーツを着こなした有能な彼女は、余計なことを一切言わない。国内有数の大企業を取り仕切り、莫大な資金を元に海外企業との取引をいくつも成功している若手起業家高遠にとって、表の仕事で一番信頼しているのはこの美人秘書だ。
「取引先の方か?」
「いいえ」
「では、最近懐柔を始めたA社の重役連中の誰かか?」
「いいえ。お仕事関係の方ではありませんわ」
余計なことで仕事を中断させるのは好きではない。高遠はいらいらと脚を組みかえた。
「今日の予定には入っていなかったね。アポもない客を取り次ぐなんて君らしくないな」
やや不機嫌になりながら高遠は再び資料に目を戻しながら言う。取引上の重要な人物ならともかく、忙しい身の彼にとって、事前にスケジュールに入っていない来客と会うのは時間の無駄でしかなかった。
そういった客はアポをとってから出直してきてもらうか、外出中だと言って追い返すのがいつもの対応だ。有能なこの美人秘書がそれくらいのことわかっていないはずもないのに。
彼女は珍しく、ちょっと困ったような表情を浮かべた。『水城』と書かれたネームプレートが胸の上で揺れた。
「もちろん、いつものように対応したのですが。それなら帰るまで待つとおっしゃって、もう一時間も前からお待ちなのですわ。しかも十分おきに社長はまだお帰りではないかとお聞きになるものですから、受付の方でも対応に困っておりますの」
その口調からは心底困っている様子が窺える。高遠はため息を吐いた。彼女がこう言うからにはよっぽどのことなのだろう。
「いったい待っているのはどこのどいつだ?」
「それが、警視庁の深町とおっしゃる刑事さんですわ」
(……なんだと)
警察という言葉に内心焦りつつ、高遠は平静を装って聞いた。
「何でまた。刑事なんかがわが社に何の用があるんだい」
「それが、先日一斉検挙されたWALコーポレーションとの関係をお聞きになりたいとおっしゃってます」
先日高遠の依頼により如月が潜入したライバル企業の名前だった。
高遠の心臓が跳ねた。
「……なぜ、それを」
部屋の照明のおかげで、社長の青褪めた表情が秘書に気づかれることはなかった。
「WAL社は、A社買収の件でうちと争っていた企業ですけれども、今回の一斉検挙にうちは関係ありませんでしょう。なのにわざわざ聞きにみえるなんて、警察も暇としか言いようがありませんわ」
「ははは……。じつに、その通りだ」
口元を引きつらせながら高遠は言った。
彼女にとっては、たとえ刑事が来られても後ろ暗いことはないのだから、暇ですねの一言ですむのだろうが、高遠は違う。彼の依頼で仲間がWAL社の本社ビルに不法侵入し、漏れかけた自社情報を盗み出してきたのだ。しかもそのときやつはあろうことか、社長室の専用パソコンからあの一斉検挙に繋がる裏組織の犯罪情報を警察に流している。今回の件に、関係ありまくりである。
しかも、そのことがばれると同時に今までしてきた裏世界での犯罪行為が露見する恐れがあった。
高遠たちが手を染めているのは被害届が出されない類の窃盗だが、今までのことを考えると警察はともかく裏世界の住人が黙っていないだろう。自分たちが資金を頂戴したおかげで取引が失敗して自滅したり、隠れた犯罪が明るみに出て警察に一網打尽にされた組織がいくつもあるのだ。冗談でなく、骨も残らないくらいに抹殺されてしまうことは目に見えていた。
「ええと、水城君。いつものようにわたしは留守だといって、追い返し……いや、お帰り願ってくれないか」
高遠の、目には見えない必死の懇願にもかかわらず、水城秘書はため息を吐いた。
「ですから、先ほども申し上げましたとおり、帰るまで待つの一点張りですの。このままでは一般の待合のお客様にも不審に思われますわ。何しろ、ご職業が……」
「あ、ああ。そうだな」
「社長この際はっきりと、事件とうちとは何の関係もないと申し上げて、お帰りいただいてくださいませんか」
「……わかった。あ、いや、ちょっと待ってくれ。すぐ戻るから、あと少しだけ待たせておいてくれ」
いつもは冷静沈着、時には冷たいとまで評される自社のトップがいつになく慌てる様に内心驚きつつ、携帯を握って社長室を出る姿を見送った水城秘書だった。
――で、今に至る。
頼みの綱の如月がなぜか電源を切っている今、もう自分で何とかするしかない。
痛み出した胃をさすりながら、高遠は漸く便座から立ち上がった。
出てきた社長の顔は、長く使用中だった開かずの個室を不審に思っていた掃除のおばちゃんが、あの人は悪いものでも食べたのかねえ、と心配するほど青褪めていたという。