14.珍しい光景
ショートホーム前の、生徒たちの話し声でざわめく教室に入った和海の目が、さっと窓際の一番後ろの席に動く。視界に飛び込んできたのはまたしても無人の机。
(あいつ、また遅刻か)
今日こそは彼といろいろ話をしようと思っていたのに、と、拍子抜けした気分で席に向かう和海の周りで、急に生徒たちの談笑が途切れた。
その代わりに入り口の方から、ひそひそと囁き合う声で別のざわめきが起こった。
「おい、見ろよ。あいつがもう登校してるぜ」
「何で? 何かあったの」
「あ、そう言えば前も珍しく早く来たことがあったよな」
「ああ、新学期早々三年生のグループから呼び出されたときね。じゃ、彼、またけんかするんじゃない?」
「そういや、一年のときも三年生をぼこぼこにして病院送りにしたって噂だったよな。うわーこえー」
「とにかく、関わり合いになりたくないよな」
「やべ、こっち来る」
「目を合わすなよ」
ざわめきの中、こっちに歩いてくる人物を和海は眺めていた。
今日も遅刻かと思ったが、そうではなかったようだ。
そして、どうやらクラスメイトにとってそれはとても珍しいことであるらしかった。さすがの如月凌も周りのあまりの言いように苦笑いを浮かべている。
そんな彼を見ながら、五年前にはかなわなかった如月との学校生活が今日から始まるのだ、と和海はわくわくした気持ちでいた。
昨日はまだ如月があの少年だと気づいていなかったので、改めて今日からよろしく、という気持ちでいたのだが……如月は和海の方を見ようともせずに黙って席に着いた。
(無視かよ、おい!)
腹を立てる和海の横で、如月はちらりと回りを見てから和海に肩をすくめて見せた。
親しげに声をかけて、和海まで悪く思われないようにと、敢えて無視するような態度をとっているのか。漸くそう理解した和海は、昨日のようにいすに深く腰をかけ、腕を組んで寝る体勢に入ろうとする如月の肩を掴んだ。
「……おいっ。凌、お前、明日から絶対もう遅刻すんなよ!」
そもそも如月の普段の生活態度が悪いのがいけないのだ。それさえ改めれば、ほかのやつの認識も変わってくるに違いない。そうなれば如月がわざわざこんな、俺のために周りに遠慮した態度なんてとらなくていいんだ。そう思った和海は相当頭に血が上っていた。
目の前で、如月がぽかんとした顔をしている。
それよりももっとぽかんとしているのは周りのクラスメイトだ。
それはそうだろう。つい先日転校してきたばかりのごく普通の少年が、クラスでも敬遠されている問題児にいきなり親しげ……というよりはけんか腰で怒鳴りつけたのだから。お得意の陰口を始めることも忘れて口を半開きにして和海と如月を見ている。
あ、なんかすごく見られてる。
さすがに視線が気になった和海がちらりと周りを見たとき、如月が噴出した。
「ははは。和海。さすがだなお前」
「……笑うな」
和海が顔を顰めた。
「ごめんごめん。……あ、謝る前に言っとかなきゃな」
「なんだよ」
「和海、これからよろしくな」
「……ああ」
教室では初めて見せる如月の笑顔に、珍しいものを見て仰天してしまったクラスメイトが漸くわれに返ったのは、担任教師が入ってきて、教室に漂う異様な雰囲気にびくびくしながら、ショートホームの始まりを告げたときだった。
「で、いったい何を怒ってるんだ」
休み時間。窓辺の席で欠伸をしながら、如月は隣の友人に聞いてみた。
結局、授業中はいつものように睡眠をとっていたが、時々それを横目で見ている和海の気配には気づいていた。でも仕方がない。眠いものは眠いのだ。
だが、隣でだんだん和海が不機嫌になっていくのを感じ、さすがに気になってきて、授業終了のチャイムとともに無理に眠気を追い払った如月は、和海の方に向き直った。
「俺、何かまずいことしたっけ?」
やっぱり朝のことか? クラスメイトの手前、親しげに口きいちゃったことがまずかったかな。でも、あれはどっちかって言うと彼の方から接触を持ってきた気がするのだが。
周りのクラスメイトは二人の席を遠巻きにしている。いつものように思い思いに休み時間を過ごしているようでいて、実はこっそりと、あるいは堂々と様子を窺っている。
「なあ、凌。朝お前が来たときのクラスのやつらがなんて言っていたか、聞こえただろ」
不機嫌な顔のまま和海が如月の方をじっと見る。
「ああ。まあ……大体は聞こえたけど。でも、いつものことだぜ? 俺はぜんぜん気にもならない」
いったい和海は何に怒っているのか。何も和海が噂話の槍玉に上がっていたわけではないのに。
「……俺がいやなんだよ。お前がそんな風に言われるの」
顔を顰めて言う和海の言葉に、如月は首を傾げた。
「は? 何で」
「何でって……、わかんないのか」
「だって、和海が言われたわけでもないのに」
むしろ、如月に関わる方が和海にとってはマイナスだろう。
「だからさ、普通、友達が悪く言われていたら怒るだろ」
「…………そうか」
(うわ。どうしよう。マジで嬉しい)
俺のこと、友達だって。
思わず頬が緩みかけた如月だったが、そこではたと気づく。
「でも、朝は俺に怒ってたよな。たしか」
すごい剣幕でもう遅刻するな、とか何とか言われたような。
「ああ。だって、クラスのやつがあんな反応をするのは凌がいつも遅刻してくるからだろ。つまり、自業自得だ」
「まあ、そうだけどさ」
バイトがほぼ毎日深夜まであるし、仲間との打ち合わせで遅くなることもあるから朝起きるのは正直きつい。……というのはもちろん言い訳にならないだろう。と言うか、こんなこと話せないし。
「だから、お前のこと悪く言われるのは俺がいやだから、もう絶対遅刻なんかするなよ」
無茶苦茶な理屈だなと思いつつ、もし遅刻したら?とは、如月は聞けなかった。『もちろん絶交だ』とか言われちゃったらどうしよう、と思うと怖くなったのだ。
だから、気をつけるよ、と笑ってごまかした。
そのとき。
ブルルルル・・・
如月の携帯が震えだした。
着信元を確認すると、高遠社長を示す偽名が表示されていた。
昨日の話に関して、獲物の目星がついたのかもしれない。いや、それにしてはずいぶんと急だから、別の情報か? それとも何かのトラブル?
携帯を持ったまま教室を出ようとした如月の学ランの袖を、隣から伸ばされた手ががしっと掴んだ。がくっと引き戻されかけた如月は振り向いて抗議した。
「何すんだよ、和海」
「……どこに行くつもりだ、凌」
低く地を這うような声に、如月は思わずひるんだ。
「ええと、電話がかかって来たから……」
「切れ。ここは学校だ。勝手に早退するんじゃない」
授業が始まるぞと言われて、なぜか和海には逆らえず、如月は大人しく席についた。
(悪い。社長さん)
心で仲間に手を合わせつつ、和海に心配してもらっていることに悪い気はしていない如月だった。
そして彼らの周りでは、声にならない会話が飛び交っていた。
『おい、如月が携帯を無視して授業受けてるぞ』
『いつものようにサボらないのか』
『なんか、転校生の言いなりのように見えるんだけど、気のせいか?』
『いや、俺もそう見える』
『あたしも』
『……いったい、あの転校生って、何者?』
いくら考えてもわかるはずがない。
このクラスになってから初めて見る世にも珍しい光景に気をとられ、その日の授業内容を頭にきちんと収めたものは、誰一人としていなかった。