13.決意の朝
朝六時半。両親と暮らしていたときは、もうとっくに朝食の準備を整えた母親が和海を起こしに部屋に上がってくる時間だ。ほら、今にもノックの音が聞こえ……
ジリリリリ――
けたたましい音に驚いて和海は跳び起きた。
見ると枕もとの目覚ましが鳴っている。止めても、アラームの解除をするまでは五分おきに鳴る仕組みになっているその目覚まし時計はすでに三回目の時を告げていた。
兄の部屋で同居を始めてから、忙しい兄に代わって食事の支度を引き受けた和海だったが、今日はついつい寝過ごしてしまったようだ。昨日はいろいろあったのでなかなか寝付けなかったせいだ。
昨夜の偶然の再会で如月があのときの少年だということがわかった。そして、昨日一日でやはり彼はいいやつだったと再認識した和海だったが、ほかの人にはそうは思われていないということに頭を悩ませていた。クラスメイトはもちろん、兄の和洋さえも、如月は不良だから近づくなと言うのだ。
(誤解だ。みんな本当の凌のことを知らないだけだ)
なんだか悔しさが込み上げてきて、着替える手つきが乱暴になる。学ランに腕を通しながら台所に入り、朝食を手早く作った。
和海の母親はきちんと家事をする人だったし、朝ごはんは家族そろって食べるような家だったので和海の生活はきちんとしている。けれど、今日はいつもよりずっと手抜きのメニューだった。パンは焼いただけ、コーヒーもインスタントだ。
(兄貴、ごめんな)
いつも喜んで和海の用意したものを食べてくれる、弟に甘い兄へ心の中で謝りながら、パンをかじり大急ぎで家を出た。
急ぎ足で歩きながら、和海は心に決めた。
(凌への誤解をなんとしても解いてやる。彼がいいやつだって知ってもらうんだ)
まあ、遅刻やさぼりなど、どう見ても問題行動が多いが、それは如月自身が気をつければいいことだ。それ以外に、如月の凄さを知らせるには、どうすればいいだろう。
考え込む和海は、今日こそは鍵を持って出たものの、昨日せっかく買った教科書を机の上に置きっぱなしにしてきたことには気づいていなかった。
「おはよう、深町君」
昇降口で、声をかけられた。朝にぴったりの爽やかな声だ。
「おはよう。河野さん」
和海も笑顔で返した。和海が優しい都会人と勝手に認定しているクラスメイト、河野はるかは和海の横に並んで教室に向かいながら、きまり悪げな笑みを浮かべた。
「昨日のことだけど……」
「昨日?」
昨日はいろいろなことがありすぎて、なかなか思い出せない。彼女と何か話したっけ?
「ええと、如月君のこと」
「……ああ」
思い出した。それと同時に、如月がこのはるかにさえ、不良だと思われているのだということにも思い当たり、一気にどーんと暗くなった。
(彼女にさえいい印象を持たれていないなら、クラスのやつに凌のこと認めさせるのは至難の技だぞ、たぶん)
いきなり哀愁を漂わせ始めた和海に驚いて、はるかは背伸びをして相手の顔を覗きこんだ。
「あの、深町君? 大丈夫」
はるかの顔が近づいたとき、ふわりといい香りがして、和海は慌てた。心配そうなはるかの顔がとてもかわいく見える。
(やばいこれくらいのことで俺、顔が赤くなってるよ!)
妙に胸がどきどきする。中学のとき隣のクラスのかおりちゃんに恋したとき以来の胸のときめき。
「ああ! 大丈夫だって」
「そう? じゃあ、あの、昨日のことだけど……」
「うんうん」
「あの、いきなり変なこと言っちゃってごめんね」
「変なこと?」
彼女は確か、クラスの問題児である如月が和海にはやけに親切にしてくれることに驚いてて、それは珍しいことなんだと言っていた。それは別に、変なことではないと思うが。
その後、彼女は何と言っていただろうか。確か……
あの時、あまりにもひどい問題児扱いの如月が気の毒になった和海が思わずフォローをすると、はるかは顔を伏せ、渡り廊下の床のコンクリートを眺めながら言ったのだ。
「そうなんだ。深町君、如月君のことよく見てるのね。よかった。わたし、ずっと彼のことが気になってたんだ」
だから深町君、彼といい友達になってあげてね! ぱっと顔を上げながら言ったはるかの耳は、ほんのり赤くなっていたっけ。
(彼のことがずっと気になってるって? まさか、河野さん、凌のこと……)
和海の新しい高校生活で、早速感じた恋の予感めいたものは、季節はずれの打ち上げ花火のように一瞬ではかなく散ってしまった。
なんだか更に肩が下がった和海の様子に、はるかは心配そうな表情を浮かべた。それを見て、俺の勝手な浮き沈みで女の子にこんな顔をさせちゃいけないよな、と、和海は無理やり気を取り直した。
自分にとっては朝の決心を実行に移すことの方が大事だ。
そう思い込んでしまおう。
それにはるかなら、如月の脱不良計画に協力してくれるかもしれない。
漸く和海は笑顔を向けた。
「変なことなんかじゃないよ、河野さん」
何だか様子が変わった和海に戸惑いつつ、はるかは恥ずかしそうな顔になる。
「でも、転校生してきたばかりの深町君に、如月君のこと相談するなんて」
「いや、俺に言ってくれて正解だよ。俺は、凌の友達なんだから」
和海は自信を持って言った。
きっと、如月も自分のことを友達だと思ってくれているだろう。自分は少なくともそう思っている。
和海が、クラスでも浮いている問題児のことを、『凌』とおそらく学校内の誰も呼ばないであろう呼び方で呼んだことに気づいたはるかは目を丸くした。
それを見て、驚いた顔もかわいいなあ河野さん、と、懲りもせずに思ってしまう和海だった。