あなたの元へ
2011年頃に書いて一次落ちしたもの
1
暗い、暗い空だった。紫色の雲が隙間なく広がり、その世界は常に薄暗かった。地上は果てしなく続く草原と遠くに見える岩山。小川が一本流れ、その先には湖があった。畔には小さな家が一軒。
風が辺り一帯を駆け抜けた。湖の水面が波打つ。
家から一人の少女が出てきた。白いワンピースを着ていた。四肢は細く、指先まで滑らかだった。
素足でゆっくりと草を踏みしめる彼女は、悲しみの表情を浮かべていた。
「今日は楽しいことがあるかな」
呟いた彼女は家の脇に置いたバケツを持ち、湖へと向かう。
彼女はバケツ一杯に水をくみ、それを覗き込んだ。光が昇り、空へ届く一本の柱となった。
「まだ早かったか」
少女はため息をつき、寝転がった。
「暇だなー」
呟き、目をつむった少女はそのまま眠りへと落ちていった。
2
目を覚ますと、俺は目覚まし時計を抱きしめていた。カーテンは閉め切られ、隙間から光が漏れている。
時刻は朝十時を数分過ぎたところ。曜日は日曜。六月の初めの週。梅雨の時期はまだなようで、外は雲一つない快晴だった。
「明日は月曜日ですか」
俺は天気とは裏腹に、五月病を引きずり目覚めた瞬間から憂鬱だった。
ベッドから起き上がり、遅い朝食を食べに向かう。
散らかったリビングは誰も居なく、ごみ袋が幾つか転がっているだけだった。
両親は仕事に行ってしまったのだろう。テーブルにはしばらく帰らないとの書置きがあった。
冷蔵庫から適当な食材を選びだし、テレビに電源を入れながら食べ始める。笑い声が虚しく響き、近頃よく見かける芸人がややオーバーなリアクションで何かを食べている。ラーメンだった。
さて、これから何をしようか。
高校二年の俺は中だるみの中間学年であり、もれなくだらけていた。部活にも入っておらず、目標もなく、このままだと目に生気のない面白味のない石ころのような人間になるのだろう。
鏡で顔を見ると十分に目が死んでいた。髪は跳ね、肌は乾燥でがさがさだった。
五月病を引きずっていることも相まって、より一層暗さが引き立つ。
このままではいけない。しかし、何をしたら良いのか分からない。まあ、その内思いつくだろう。
考え始めて、すぐ面倒になりまた眠ることにした。
夢とは己の願望を写すものなのだろうか。俺は小さい頃から度々見る夢があった。
暗い世界で、女の子が一人で暮らしている夢だ。寂しそうに一人佇んでいる。俺の成長と共にその子も成長するようだった。
要するに何かと言えば、俺はその子を夢で見る度に一日中気になっているのだ。だから、貴重な休みを睡眠で過ごしている。
我ながら、夢の中の人間に思いを馳せるとはどうかと思う。しかし、その夢を見た日は良い気分になるのだから止められない。
一度で良いから、話したかった。夢では一言も話せない。
「では、話してみないか?」
頭の横で声がした。
「まだ寝ているのか?」
太く、低い声だった。
「起きろ。君の願いを叶えてやる」
肩を乱暴にゆすられた。
まだ寝ぼけているのか。
眠り始めて十分。俺は寝つけていなかった。
目を開けると、背の高い黒のスーツを着た男が立っていた。乱れた髪が顔にかかり、その奥に隠れた瞳は鈍い輝きを放っている。頬はやつれ、しかし、体は筋肉質で服の下からでもその屈強さがうかがえた。
「あの、どちらさんですか?」
俺は部屋にいきなり現れた男に意外と驚きはしなかった。五月病による体のだるさと、持ち前の怠惰な性格が理由なのだろう。
「私は……、そうだな、何が良いと思う?」
「俺に聞かれても」
「確かにそうだ」
男は顎を押さえ、考え込み始めた。
「いや、こういうことを始めたのは最近だからな。自己紹介を考えていなかったのだ。ああ、まあそうだな、名は、千石武人。仕事は空想妄想を叶える人……か?」
「そうですか」
怪しい事この上ない。いきなり現れ、妄想を叶える? 不審な点が多い。いや、むしろここまで堂々としていれば、ついつい信じてしまいそうになる。
「君、願っていただろう。夢の中に行きたいと」
当たらずとも遠からずといったところか。俺は夢に出てくる女の子に会いたいとは思うが、別に夢の中に行きたいわけではない。
「いいえ」
俺はそう答えた。
「なんだと、違うのか。困った。……お邪魔したね」
男は背を向け、部屋から出ていこうとした。
俺はこの時、異様な好奇心に駆られた。もしかして、本当に夢に行けるのではないか。別に行くことが目的ではない。しかし、女の子と話せればどうだっていいのだ。あの男がたとえペテン師だったとしても、騙されてみるのも一興だろう。どうせ暇なのだ。どうせ五月病なのだ。だるいのだ。このまま寝ていても、同じような明日が来てしまうだけなのだ。古本屋から漫画を買ってくるつもりで、気軽に声をかけてみよう。
「ちょっと待って下さい」
広い背中に呼びかける。
「何かな? あ、そうだったね。いや、すまなかった。勝手に上がってしまって。これからは気を付けるよ」
「そうじゃなくて、少し話を聞かせてくれませんか」
「おお! そうか」
途端、笑みをこぼす男。奇妙な感覚だった。
「では、聞かせて上げよう。その前に、名前を教えてくれないか?」
不審な人物に、たとえそれが少し調べれば分かる名前でも教えたくなかった。
……いいや、教えよう。
「浅間直樹」
「そうか。浅間君は何を聞きたい?」
「うーん、まず、最初に言っていた願いを叶えるって?」
「私は君の願いを叶えることが出来る。夢の中へ行かせてあげられる」
「あー、いや俺は別に夢に行きたいわけじゃなくて、その……会ってみたい人がいるっていうか……」
言い淀んでしまう。いざ言葉にすると恥ずかしい。
「大丈夫。最後まで言わなくても、私には分かった」
心でも読めるのだろうか。だとしたら、俺のくだらない妄想ばかり垂れ流しているのか。それこそ、恥ずかしい。
「やはり、どちらにしろ、夢の中に興味があるという事なのだね」
「うーん、まあ、いいよ。興味がある」
説明が面倒になってきたので、興味があることにしておこう。間違ってはいない。
「でも、どうやって?」
「私には出来るのだよ」
「魔法とか、超能力とか?」
俺はオカルト的なことは否定的な意見は持っていない。しかし、積極的に肯定しているわけでもない。あれば、あるのだろう。ただ、身の回りにないだけだ。そういった考え方。いわば、消極的な肯定。
「そんなところだ。信じてもらえるかい?」
「あまり」
「実際に見てもらった方が良いだろう。さあ、私の家に案内しよう」
そう言って、千石さんは俺の手を引いて歩き出した。
行き着いた場所はトイレの前。
「千石さんの家はトイレ?」
「ここから行けるのだよ」
これが嘘ではないことを願う。
「どうやって?」
「私は空間を曲げられる」
ああ、もしこの人が空想に浸りすぎておかしくなってしまったならば、俺はまず、家から追い出すべきか。そもそも、消極的な肯定はしているが、身の回りに起こるとは思っていないのだ。
「……そうですか」
「驚かないのかね?」
「突拍子のない話なので、現実味がないですね」
「見れば信じてくれるさ」
千石さんはトイレの戸に両手を乗せ、何かを念じるように目を瞑った。
俺は呪文か何かを唱えるのかと思ったが、そんなことは無くじっとして動かない。
「来るよ」
千石さんがそう言った。
何が? と問う前に俺は知った。
揺れている。地震のように激しく揺れている。
家が壊れてしまうのではないか、自分の中の奥深くの恐怖が現れ始め、立っていられなくなった。下から突き上げられているようだ。
揺れは四、五回深呼吸している間に止まった。
「さあ、いいよ」
千石さんは手を放した。
俺はしばらく呆けたままだった。次第に意識を取り戻し、最初に浮かんだのは物が落ちていないかという事だった。家はガラス物が多い。皿やコップは大丈夫だろうか。その他、俺の部屋には積み重なった小説や漫画がある。足の踏み場は残っていればいいが。
「立てるかね?」
俺は飛び上がるように立ち上がり、食器棚や自室を確かめに行った。思いのほか棚は何事もなく、俺の部屋も相変わらず本の塔はそびえ立っていた。
「ああ、揺れのことだね。安心してくれ。揺れているのは私の周りだけだ」
千石さんは言った。トイレの戸を開けるよう促される。
「私の家に招待しよう。と言っても、招待するほどの家でもないけれど」
千石さんは微笑んだ。疲れた顔が引きつっているようだ。
俺は恐る恐るトイレに近づき、ドアノブを握った。冷たかった。
「あの、何があるんですか?」
「見てみれば分かる」
少しの間、戸惑った。何しろトイレだ。もしも、開けて何事もない白いウオッシュレット付き洋式便座があったらどう反応しよう。
苦笑いで閉め直そう。
すると同時に、この千石と言う人はただの怪しい人に成り下がる。
「どうした」
「緊張してしまって」
「気を抜いてくれ」
俺は意を決してドアを開けた。
一歩踏み込むと、俺は目を開けられなくなった。突き刺すような光は、部屋全体の白色が原因らしい。
部屋は馬鹿みたいに広く、体育館のように長方形だった。ただ、何もない。窓も他の扉も、机も椅子も寝具もない。どうやって生活をしているのだろう。
「何というか凄いですね」
当たり障りのない感想を言ってしまった。
「ありがとう。家具は無いが場所だけはあるのが自慢でね。まあ、ゆっくりお茶でも飲みながら詳しい話をしよう」
どこからお茶を出すのか気になるところだ。
「そこら辺に座っていてくれ」
俺は扉を閉め、壁に寄り掛かりながら座った。家との繋がりである扉が閉められると、いよいよだだっ広い、白い空間になってしまった。そこにぽつりとドアノブが突き出ている。シュールな光景だ。
千石さんは両膝を付き、落とし物を探すように床をさすっていた。
「あの、何しているんですか?」
「テーブルと椅子をね、準備しようと思って」
「床にあるんですか?」
「ここは少し特別な部屋で、簡単な物なら作れるのだ」
すると、床からバレーボールほどの球体が浮き上がり、少しずつ潰れていき楕円を形作る。溶かした金属のようだった。よく見ると、その形の中で流動しているようだ。
「面白いだろう?」
千石さんは片手をかざし、粘土をこねるように小刻みに指を動かしていた。
白球は一本の棒が下に伸び、すっかり綺麗な円卓となった。
「次は椅子か」
同じような作業工程で椅子が出来上がり、俺は腰かけた。背もたれがあり、四本足の簡素な椅子だった。
「さて、話の続きをしよう。飲み物は何が良い? 言ってくれれば出すから」
「では、コーラを」
俺は半ば炭酸中毒気味で飲まないと落ち着かない。部屋には缶やペットボトルが転がっているはずだ。その内捨てなければならない。
「私は緑茶にしよう」
千石さんは同じように手をかざした。飲み物が入ったコップは出てくるというより、生えてくるというのが正しそうだ。
ガラスコップに入ったコーラは数個の氷が浮かび、表面で炭酸が弾けていた。千石さんの緑茶は湯気が上がっている。
「これも、千石さんの能力ですか」
「どうだい? 信じられるかい?」
「こんなのを見せられれば、信じる信じないの話ではないですよ。もしかしたら、夢かと思ったりしますけど……」
「確かにそれを証明する方法は、私も持っていないな。私が何をやったとしても、夢ならば全部無意味なのだからね。そこは、どうしようもない。今は、現実として受けて止めてくれると助かるよ」
「はい。俺も考え始めると終わりが無さそうなので、止めておきます」
千石さんはお茶をすすった。俺もコーラに口を付けた。歯に氷が当たって飲みにくかった。
「浅間君」
「何でしょう」
「これを飲み終わったら、さっそく初めてもいいかい?」
「はい。あ、何で分かったのですか? 俺の考えていること」
「ああ、私は人の夢を覗けるのでね。実はこの空間の入り口が別にあって、君の家の近くにあるのだが、そこから外に出て街を歩いているのだ。昨晩暇つぶしに夢を覗いていて、たまたま見つけたのだよ。君の夢は特別現実味があって、興味深い。しっかりと、一貫した世界があったのだ。たまにいるのだ、別世界に干渉する人が。その人は対外、別世界に強く惹かれている」
千石さんは覗きが趣味らしい。俺は、千石さんは本当に普通の人とは違うのだなと思いかけていたが、ベクトルは変態に近いのか。
「趣味なんですか?」
「いかにも、私の趣味だ」
「ちなみに、どのような夢がお好きで?」
「そうだな……暗闇の中で誰かに追いかけられている夢があったのだが、あれは見ごたえがあったよ」
「はあ……」
これ以上は追及しないでおこう。
「他に聞きたいことは無いかね?」
「料金というのは……」
本に費やした俺は、財布に千円弱しか残っていない。
「ボランティアの様なものだから、お金はいらないよ。……強いて言えば、浅間君の夢で私を楽しませてくれないか?」
俺は固まってしまった。灰色な青春を送っている俺の夢など、くだらない妄想ばかりで痛々しいに違いない。
俺の気持ちを悟ってくれたのか、千石さんは微笑みこう言った。
「そんなに気を張らなくても良いよ。まあ、楽に行こうじゃないか」
千石さんは立ち上がり、白い空間の中央へと移動した。そして、スーツの内ポケットを探り、黒のマジックペンを取り出した。床に何を書くのかと思ったが、ただの円だった。二、三人は入れそうだ。
「千石さんは魔法陣とか、呪文とか唱えないんですね」
「私の場合、君が空気を吸ったりすることと同じような感覚なのだ。だから、特別儀式のようなものは要らないのだよ」
千石さんはペンをしまった。
「へー、そうなんですか。ちなみに魔法使いとかに会ったことは?」
「たまに会うよ」
千石さんは、いつの間にかトーストを取り出しブルーベリージャムを塗って食べていた。
「すまない。空腹でね。君も食べるかい?」
「遠慮しておきます。それより、ここにいれば困ることはありませんね」
「万能と言うわけじゃないよ。出せるものは、私の記憶に強く残っている物だけなんだ。食べたことや、使ったことの無い物は出せない」
千石さんは、手に着いたパンくずを払うと円の手前に手をついた。
「さあ、浅間君。円の中に立って思い浮かべるのだ、君の行きたい夢を」
俺は半信半疑ながらも、円の中に立ち目を瞑った。
暗くて寂しい場所。湖の畔に建つ小屋のような家。そこに住む一人の少女。悲しみを浮かべた表情。白いワンピースは時折吹く風でなびく。
「揺れるよ」
俺の足元が揺れ始め、光が辺りを包み込んだ。
そういえば、あの子が水をくむと光の柱が立ったことを思い出した。
3
少女は目を覚まし、見ていた夢を思い返した。
「変なおじさんと何しているんだろ」
少女の夢には幾度も同じ少年が出てきた。
「ん? あれは何かな」
光の球体が浮かんでいた。優しい光で目を傷めることは無かった。
虫が光に惹かれていくように、少女もゆっくりと光に寄っていった。
「おお!」
少女は興奮していた。
代わり映えのしないこの世界では、少しの変化でも興味深かった。
「痛いのかな」
少女は恐る恐る球体に触れた。
「何だか柔らかい」
手を差し込んだ。
すると、少女は急に光の中へと引きこまれた。
「お、おおっ?」
少女の視界は光に包まれ、暖かい感覚が体を満たしていった。
4
「浅間君、少しまずいことになった」
千石さんはさっきまでの落ち着き払った態度が崩れ、焦っているようだった。
「どうしたんですか?」
「私が作った道を通って、何かがやってくる。危険だ。一旦、中止しよう。円から出て」
俺はおとなしく従った。
光の動きはあばれているようだった。次第に激しさを増していき、風も吹き始めた。
「すまない。少し揺れるよ」
激しく揺れだし、コンクリートが崩れるような音がした。立っていられないどころじゃない。座っていることさえ困難だ。這いつくばり、ようやく体勢を保てる。その中で、千石さんは変わらず手を付き、祈るように目を瞑っていた。
「大丈夫なんですか!」
「逃げたほうがよさそうだ」
千石さんは苦笑いをしている。
「歩けるかな?」
「無理です!」
「だろうね。今、そっちに行く」
暴風が吹き荒れる。息をする度、空気が逆流して苦しかった。
「こんなことは、初めてだな。いやー、まいったよ」
千石さんは楽しげだった。俺は反対に体験したことの無い状況で、パニックに陥るばかりだった。
「呑気ですね!」
「私も自分自身に驚いているよ。最近、退屈していたからかな。久しぶりに胸が躍るよ」
「俺は死にそ……」
そう言いかけた時だ。円から発せられた光が拡散し、爆発した。
俺は壁に叩きつけられた。一瞬、息が詰まる。
光が空間を埋め、風が体を打つ。指一本動かせず、辛うじて開けた瞼から埃が入り痛んだ。
爆発はすぐに収まった。テーブルにもたれ掛った千石さんが、手を振るのが見えた。
「おーい、大丈夫かね?」
「何とか」
俺は震える足でなんとか立ち上がり、目をこすった。涙と共に、細かいごみがとれた。
「私は腰を打ったようだ。ちょっと、手を貸してくれないか」
俺は千石さんの元に、おぼつかない足取りで向かった。
爆発の元となった円は、黒い煙が立ち上っていた。
「すまないね。飛ばされた場所にテーブルがあったものだから」
「歩けますか?」
俺は手を差し出した。千石さんは立ち上がると、俺の肩に寄り掛かってきた。思っていた以上に重く、危なく転びそうになった。
「あそこまで連れて行ってくれるか」
指さした先は煙が上がっている円だった。
「危険じゃないですか」
「そうだが、放置するわけにもいくまい。塞いでみるよ」
何とか千石さんを支えつつ、円の場所まで行くと黒煙がきらめいていた。その光景は夜空に輝く星の様だった。
「爆発だけでしたね」
「ああ、そのようだ。私は重い物を持てそうにない。塞ぐ物を出すから、浅間君がそれでやってくれなか?」
「ええ、俺が出来るなら」
「問題ない」
千石さんは床に手を置き、穴を埋めるぐらいの球体が浮かび上がった。
「それを、置いてくれ」
球体は氷のように冷たく、ボーリングの球を持っているようだった。
「結構重いんですね」
膝が笑っていた。
「落ちるー!」
かん高い声がした。
「ん? 千石さん、何か言いました?」
「いや、私は何も」
空耳だろうか。
「きゃあー!」
女の子が叫んでいるような。
「浅間君かい?」
「裏声でもあんなに高くは出ないですよ」
俺はそっと煙を吐く穴を覗いた。
「ここから聞こえます」
「何が出てくるか分からない。早く埋めたほうが良いよ」
「はい」
球体を落とそうとした時だった。
「うあああー!」
女の子が黒い煙をまとい、穴から飛び出した。
球体を思わず落としてしまい転がっていた。
一旦、飛び上がった彼女は身軽に俺の目の前に着地した。
俺は息を飲み、硬直する、
「あーびっくりした」
俺は出てきた女の子を、まじまじと見つめた。
彼女の長い黒髪は、この白い空間によく栄えていた。反対に白いノースリーブのワンピースは純白で、輪郭がぼやけてしまっている。乳白色の素肌は、触れることをためらうほど滑らかで、何をも弾いてしまいそうだ。乱れた髪が顔に降りかかっている。瞳は千石さんのそれとは違う輝きを放っており、好奇心や戸惑いを含んでいた。小さな唇は微かに開き、ほんのりとした紅色だった。
「ここは?」
彼女はきょろきょろとし、呟いた。
「君は……」
自然に言葉がこぼれた。
「あれ? あなたは……」
夢に幾度も現れた少女だった。憧れ、会いたいと願った少女だった。
立ち上がり、正面から彼女を見つめた。頭一つ分、背が低かった。
「夢に出てきた男の子ですか?」
臆せず、彼女はそう言った。
「どうかな。でも、俺は君が夢に出てきたよ」
声が震えた。しかし、会話をすることが出来た。初対面ならば、俺は言葉に詰まってしまっただろう。
「そう……なんですか」
沈黙が流れた。
少女はうつむいた。手を後ろに回し、迷うように頭を傾けたりしていた。
「どうしたの?」
「その……ずっと言いたいことがあって」
少女は顔を上げた。上目使いで、頬を染めている彼女に俺の胸は高鳴った。
「な、なに?」
口が渇いていた。唾を飲み込むと喉が鳴った。
「私……あなたのこと」
手は汗で濡れていた。
「……ずっと」
痛みではなく、緊張で膝が笑っていた。
少女の視線は落ち着かず、横を見たり下を見たりした。
「暗い人だと思っていました!」
この瞬間、俺の中の時間が止まった。
「あれ? 聞いてますかー」
「ああ、ごめん。ぼーっとしてた。もう一度、いいかな」
「はい。あなたのこと、ずっと暗い人だと思っていました。学校と言うんですか? あの人が一杯いてあなたがいつも行く場所。……そうですか。で、ほとんど話さないで一人で本ばかり読んでいて……。暗いですよ。あたしみたいに、誰も居ない場所に住んでいるんじゃないのだから、もっと上を見て過ごさないと腐っちゃうよ。あなたとあたしは同じように成長しているみたいなのね。で、小さいことから知ってるの。あなた基本的に苦手なんだね、人付き合い。だめだよ、苦手なことから逃げていては。……あ、ごめんなさい。一人で喋ってしまって。でも、どうしても言いたかったんだ。だって、幼馴染ということだよね、あたし達。だから……。あれ、大丈夫? すみません、そこの方助けてくれませんか」
少女は千石さんに助けを求めた。
俺はといえば、ショックで崩れ落ちた。正直、告白でもされるのかと勝手な妄想を膨らませていた。自己の中で作った理想で固めた少女は、俺の痛い所を突いてくる子じゃなかったはずだ。
「私は腰を痛めていてね。すまない」
千石さんも苦笑いをしている。
「ああ、大丈夫だから」
「よかった。どうしたの?」
「少しめまいがしてね」
「寝不足?」
「うん。よく寝られなかったんだ」
「外に出ないで部屋にこもっているからだよ。もっと、動かないと」
少女は細い腕で拳を突き出した。
「そうだね」
目が潤んだ。きっと乾燥したのだ。
「さっきから聞いてなかったけれど、ここはどこ?」
「私が説明しよう。立ち話もなんだから座ろうか」
千石さんはもう一つ椅子を追加し、テーブルに三人が集まった。
「浅間君はコーラでいい?」
「はい」
「飲みすぎだよ。お茶にしなさい」
「すみません。緑茶を」
千石さんは乾いた笑いをし、緑茶をくれた。
いきなり出てくる飲み物を見ると急に少女は立ち上がった。
「おお! どうしたんですか」
少女は目を輝かせた。
「それも含めて、これから説明するよ。好きな飲み物を言ってくれ」
「じゃあ、コーラで」
「え? 人に言っておいて」
「あたしはいいのよ。あなたみたいに、がばがば飲まないもの」
少女はそっぽを向いてしまった。
千石さんはコーラを出した後に、説明を始めた。この白い空間のこと。自分の能力のこと。それで俺が夢の中に行こうとしたこと。しかし、失敗し爆発して女の子が飛び出したこと。
千石さんは丁寧な口調でゆっくりと話し、その間少女は熱心に聞き入りコーラを飲み忘れ、中の氷が解けてしまっていた。
「へー。面白いですね」
「私も人が飛び出してくることは初めてだよ、こんなこと」
「千石さん、最近始めたって言ってませんでしたか?」
俺は口をはさんだ。お茶も飲み終わり、暇だったのだ。
「他人の世界に介入するのは、だよ。私一人では何度もやっている。だが、道が開く前に、別世界の住人が飛び出してくることは経験したことがない」
「そうですか」
俺は少女の横顔を見つめた。
小さな鼻が可愛らしかった。
「なんですか?」
見ていることがばれ、怪訝な顔をされた。
ふと疑問が湧く。少女がこちらに来たのはいいが、帰れるのだろうか。少女が来た穴を見ると、相変わらず黒煙が渦を巻いていた。
「いや、特に何も」
俺は立ち上がり、千石さんを引きずるようにして少女から離した。
「何かな、浅間君」
「その……これからどうしましょう」
「どうしましょうとは?」
「彼女です。帰れるのですかね」
「どうしたんだい? 手厳しい言葉で嫌になってしまったのかい?」
「そうではなくて、あの穴から帰るんですよね」
「だろうね」
「通って安全なのか、ということです」
「ああ、そういうことかい。安全ではないね。だから、私が修復する。いつまでかかるか分からないがね。その間、彼女にはここに住んでもらうとするよ」
「……分かりました」
後ろを振り返ると、少女がこちらを不審な瞳で見つめていた。
「大体のことは聞こえていました」
少女はそう言い、コーラを一気に飲み干した。
「では、決まりだね。寝室を作っておくから、その間これを読んでいると良い」
千石さんは小冊子を床から取り出し少女に渡した。
「友達マニュアル。……あたしより、もっと最適な人がいるんですが」
少女は俺の方を向いた。
「一緒に読めばいいさ。それより、しばらく退出してもらえないか。ここを改築するから危ないんだ。出口はあそこ。浅間君の家へ繋がっている入口は、さっきの爆風で途切れてしまったのだ。だから、元々作ってあった玄関があるから、そこから出てくれ」
千石さんはそう言い、指さした。すぐ近くの壁にドアノブが現れる。
「あー、はい。千石さん、腰はどうですか?」
「だいぶ回復したよ」
俺は少女を連れ、ここから出た。
扉を開けると、川辺が広がっていた。
「懐かしいわね。この川はよく泳いだ場所……一人で」
後ろを振り返れば草むらが広がっているだけだった。入口がなくなっている。
終わったら、千石さんは知らせてくれるのだろうか。でも、無くても問題ないか。
この川は俺の家から、さほど遠くなく自転車で十分くらい。歩いても二十分かからないだろう。ここは小学校の頃、よく泳ぎに来た場所だった。川幅が広い割に、浅いので泳ぐのに丁度良いのだ。
天気は快晴で、雲一つなかった。通り抜ける風が気持ちいい。川独特の澄んだ匂いがさらに懐かしさを増幅させた。
「来たことあるの?」
「夢で見た。あなたを小さい頃から知っていると言ったでしょ。あたしは毎晩のごとく、あなたが夢に現れるの。だから、毎日疲れた顔をされるとこっちまで疲れる。理解した?」
「ごめん」
俺はため息を付き、小石を蹴った。あまり転がらなかった。
「いいよ。それより、これ読もう」
少女は転がっている丸い石に腰かけた。俺も緊張しながら隣に座る。
あれ? この子はどこまでこっちのことを知っているのだろう。
「あの、聞いていい?」
「字は読めるよ」
不機嫌な声で答えられた。
「……そう」
先読みをされた。
「さ! いくよ」
タイトル。友達マニュアル。
目次。一、お互いを知ろう。二、親しくなろう。三、もっと親しくなろう
「これ、いい加減ね」
「うん。そもそも、何でこれを渡したんだろう」
「たぶん、あなたの私生活が透けて見えたんじゃない?」
「でも、これは君に渡したんじゃ」
「じゃあ、あたしの私生活も透けて見えたのかしら。あたし、直接人に会ったの初めてだし」
「誰も居なかったの?」
「ええ。だーれも。あたしはあなたの夢と、テレビしか見るものないし」
「テレビはあったんだ」
「バケツに水を汲んで、そこから出る光の中に映るの。ここじゃ、出来ないの?」
「うん」
「へー。やっぱりそうなんだ。あなたが見ていた、箱みたいな物とはずいぶん違うと思っていたけれど。……まあいいわ。先を読むわよ」
まずは最初の一歩。笑顔で挨拶をしてみましょう。
「だって」
「やるの?」
二人でこれをやれというのか。千石さんは何を考えていたのだ。最初の、俺に対する少女の言葉をあの人なりに気遣ったのだろうか。
「あたしの夢見が良くなるようにね。えーと、何時?」
「さあ。たぶん昼かな」
「こんにちは」
少女は微笑み、そう言った。その笑顔は俺の笑顔を百乗したところで、到底たどり着けない境地だった。まぶしく、直視できない。俺は思わず目をそらした。
「なんで目をそらすのよ」
「目を合わせるのが苦手なんだよ」
「だめでしょ、それじゃ。ほら、目を見て」
俺はしぶしぶ正面を向く。
「はい、どうぞ。こんにちは」
「こん……にちは」
「笑っていない」
「男の笑い顔を見て、誰が喜ぶんだよ!」
「いいから」
「こんにちは」
ぎこちなく口角を上げ、笑顔をしようとするが上手くはいかない。
「はぁ。全然だめ」
「こんにちは」
半ばやけくそに笑った。
「今後の成長に期待ね」
「どうもありがとうございます」
どっと疲れた。
顔の筋肉など、しばらく使っていないのでつりそうだった。
次は自己紹介。お互いの名前を知りましょう。そして互いを呼び合ってみましょう。
「俺は浅間直樹。呼び捨てで良いから」
「あたしは……」
少女は悲しそうに遠くを見つめた。
「どうしたの?」
「あたし、名前無いみたい。当たり前だよね。一人だったんだもん。名前を呼んでくれる人なんか居なかった。……ねぇ、直樹。名前を付けてよ」
女の子に呼び捨てにされたことが無い俺は、なぜか耳が痒くなる。というか、普通に呼べるのか。俺が異性を呼び捨てにするには、仲良くなってしばらくかかりそうだ。
「俺が?」
「うん」
良いのだろうか。実は考えていないわけではなかった。夢に見る度、彼女合う名は何なのか予想をしていた。幾つかの候補のうち、俺は一つに決めていた。
気持ち悪いな、俺は。
「本当に良いの?」
「良いって言ってるでしょ。早く」
俺は深呼吸をした。
馬鹿にされたらどうすれば良いか。笑顔で鋭い言葉を浴びせる場面が浮かんできた。
「あ、変な名前は嫌だからね」
胃が痛くなってくる。
「やっぱり、止めようよ」
俺は怖気づいた。
「何も浮かばないの?」
あからさまに不機嫌さを露わにする。笑顔もいいが、しかめた顔にも惹かれるものがある。
「いや、一つはある」
「じゃあ、言いなさいよ」
「自信がなくて……」
「あーあ、直樹にはがっかりだよ。やっぱり漫画を読んで、にやにやしているだけはあるね。光を浴びないからカビが生えるんだよ、心に。生えすぎて毛むくじゃらの小動物みたいになっているんじゃない? もうだめなのかな。かわいそう……」
憐れみを瞳に浮かべ、俺は見つめられた。
泣きたくなってきた。
「分かったよ。言うから」
「遅いのね。口も錆びついているの?」
ため息を一つ。
「沙耶」
俺は小さく呟いた。
「聞こえないよ」
「沙耶。さ、や。さー、やー」
しっかりと、聞こえるように耳元で言う。
「さや?」
「そうだよ」
「さや。さや。さやかぁ」
何度もつぶやき、嬉しそうに笑顔をほころばせている。こちらまで、明るくなれるようだった。
「意味は?」
「意味はたしか……暗いものとか、はっきりしないものを照らすとかはっきりさせる、という意味だったはずだよ。さ、にはさらさらとした砂って意味もあったはず。漢字は後で書いて見せるから」
変わらない速度で流れる川を見た。底には川砂が沈んでいるのだろう。細かく、輝くような砂が。
「ふーん。まともだね。やっぱり、こもっていた分、色々な本を読んだおかげかしら」
「はい、はい。そうだよ」
「じゃ、自己紹介するね。あたしは沙耶。特別に呼び捨てで良いよ」
「ありがとう、沙耶」
俺と沙耶は見つめ合った。自然と鼓動が高まった。水流の音だけが、辺りを埋めて行く。
「ははは。どことなく、くすぐったいね」
朱色に染まった沙耶の頬は思わず触れたくなった。柔らかそうであり、暖かそうでもある。実際、そうなのだろう。だが、もろそうでもある。俺が触れたら、たちまち泡となって消えてしまいそうだ。
「おーい、そろそろ良いよ」
千石さんが草むらから顔を出していた。頭だけが浮いているようで不気味だった。
「今行きます。ほら立って」
沙耶はすっと立ち上がり、俺に手を差し出した。迷った末、俺はその手を握った。包み込まれるようで、全身の力が抜けてしまいそうだった。
白い空間はあまり変化をしていなかった。中央に二メートルほどの立方体が一つ。奥に、扉の付いた中央にある立方体より一回り大きいものが一つ。計二つの立方体が空間に設置されていた。
「奥にある扉が彼女の部屋だよ」
千石さんはスーツのジャケットを脱ぎ、ワイシャツの袖を巻くってお茶を飲んでいた。
「そうだ、浅間君。夕食を一緒にしないか?」
「いいんですか? それだと助かります。家の親はしばらく帰ってこないので、自分で用意しなければならないのです。」
「ははは、なら良かった。ご両親の仕事は?」
「どちらも同じ研究職らしいですが、何をしているかは分かりません」
沙耶はいなくなっていた。
「なーおーきー。来て―」
沙耶はすでに部屋の中に入っていた。
「すみません。沙耶が呼んでいるので」
「お? 彼女の名前は沙耶というのかね?」
「さっき、決まりました。名前が無かったらしいので」
「ほー、どうしてかね?」
「他に人がいなく、そもそも必要無かったらしいです」
「なるほど」
千石さんはお茶を飲み干した。
「早くして。関節も錆びちゃったの?」
「私は食事の準備をしているから、行って良いよ」
「ありがとうございます」
俺は扉に向かった。
沙耶は白いベッドに腰掛けていた。
部屋はベッドと机。それのみであった。
「ここさ、もっと家具を増やしてもらえるのかな。あたし、テレビ見たい」
「好きな番組があるの?」
「うん。……あ!」
沙耶は千石さんの元に駆け寄った。
「あの、テレビを見たいんですが」
「ああ、良いよ」
千石さんが床に手を当てると薄型テレビが生えてきた。沙耶の背丈ほどあり、倒れてきたら潰されそうだ。
「少し大きいかな」
「いいえ! これはどうやって見ればいいんですか?」
沙耶は目を輝かせ、そわそわと落ち着かなかった。
「スイッチはここだよ」
千石さんが脇にある電源ボタンを押すと、ゆっくりと、俺の顔と比べ数倍大きな顔のニュースキャスターが映った。かなりの大音量で、沙耶は何センチか飛び上がった。千石さんが慌ててリモコンを出し、適当な音量とした。
「びっくりしたー」
千石さんはリモコンの使い方を沙耶に教え、食事の準備に戻った。千石さんは出来上がったものではなく、自分で作っているようだった。いつの間にか立派なキッチンが出現していた。
「これが見たかったのか」
沙耶が見ていたのはアニメ番組だった。小学生の男の子が主人公で、友人らと不思議な現象に巻き込まれるという内容だった。
横でしばらく見ていると、幾つか見覚えのあるシーンがあった。
思い出した。このアニメは再放送だ。俺がまだ小学校に入る前に放送していた覚えがある。
「面白いか?」
「懐かしくてね。つい見ちゃう。直樹、よく見ていたよね。あたしも、見ていたんだよ」
「そうだよな。夢の中で俺を見ていたんだから。小さい頃がテレビばっか見ていたな」
「そうそう」
俺は小さい頃、親の職場連れて行かれた。恐らく休憩場だろう所で、特にすることが無くテレビを眺めていたのだ。年齢が上がるにつれて、一人で家にいられるようになるとその様なことは無くなり、ゲームをしたりパソコンをいじったり本を読んだりしていた。
「この子、あたしに似ていない?」
アニメには主人公グループの中に、一人の女の子がいた。髪が長く、沙耶のようなワンピースを着ていなかったが、ロングスカートをはいていた。
「そうかな?」
沙耶は食い入るように見つめていた。
「おいしいですね」
千石さんの作ったものはカルボナーラパスタと、レタスとトマトのサラダだった。
コンビニの弁当が多かった俺は、まともな食事をするのは久しぶりだった。
「本当……」
沙耶は熱心にフォークを動かし、嬉しそうに口へ運んでいる。
傍らにはコーラがあって、俺はアイスレモンティーだった。またも飲ませてもらえなく、俺は落ち着かなかった。煙草を吸う人はこんな気持ちなのだろうか。
「沙耶君は食事、どうしていたのかね?」
「直樹が食べていたものと同じのが入っている棚があるので、そこから取り出して食べていました」
「取り出していた? 不思議だね」
「そうですか? あたしはそれが普通だったんで。それより、直樹の食生活は悲惨だったんで、たまにはテレビで見るこういった料理が食べたかったんですよ」
「ごめん」
沙耶の言うことが事実ならすまないことをした。これからは、なるべく整った食事を心がけよう。
「沙耶君と浅間君の世界は繋がっているようだね。それもかなり特殊な繋がりをしているようだ」
千石さんはパスタを噛みながら、一人納得したように頷いていた。
「あ、千石さん。これはどういったつもりで渡したんですか? このマニュアル」
沙耶はマニュアルを取り出した。
「沙耶君が浅間君と仲良くなれるようにと思ったんだが、気に入らなかったかい? あいにく、私はそれ以外深く記憶に残っていなかったんだ」
「友達マニュアルですか」
「いつ読んだのか忘れたがね、内容はしっかり残っているんだ」
「じゃあ、千石さんもやりましょう。笑顔で自己紹介」
沙耶はにやにやとしている。
「いいよ。私は千石武人」
千石さんは自然に笑った。その笑顔は気品があった。
「直樹とは違うね。引きつっていない。すごく自然」
「悪かったよ」
俺はほとんど食べ終わり、レモンティーを飲み干した。ほろ苦かった。
「そういえば一の最後やってなかったね」
沙耶はマニュアルを見ながら言った。
出身はどこか、どこに住んでいるか、趣味や各種好きなもの、などを話してみましょう。そこから仲が進展するでしょう。
「じゃあ、まず直樹から」
「何で俺なんだよ」
「いいから、文句を言わない」
一歩も引く気は無いらしかった。
「えーと、出身は××県××市。市の住宅街に住んでいます。かなり隅っこです。川と山が近くにあります。趣味は小説や漫画を読むこと。好きなもの? 好きな教科は国語。好きな飲み物はコーラ。好きな場所は自室……」
俺はさらに考えた。幾つか浮かんだところで沙耶が割って入った。
「もういいや」
ああ、何なのだろう。この理不尽な言動は。俺は自分を抑えるのに苦労した。
「では、千石さん」
「私もか」
「ええ。よろしくお願いします」
「私の出身は特にない。小さい頃から転々としていたから。この私が作った便利な空間に住んでいる。入口は浅間君の家に近い場所にある。趣味は人の夢を見ること。あと、料理もだね。好きなものは……緑茶が好きだ。ようかんも良い。こんなところか」
「ありがとうございました」
果たして仲は進展しているのだろうか? 疑問を感じ得ない。
「最後はあたしね。出身は……名前は知りません。湖の畔に住んでいます。趣味はテレビを見ること。コーラが好きです。けれど、直樹みたく馬鹿みたいに飲みません。好きなものは……好きな教科は数学です」
「え、勉強していたの?」
「直樹の受けている授業であたしも少しはやっているの。テレビでもたまにそういう番組あるし」
俺より勉強が出来るのではないだろうか。
「ねえ、これで仲良くなったの?」
「俺に聞かれても……」
食事の後、沙耶は千石さんに頼んで部屋に置く小型テレビを出してもらった。アニメが終わったらしいので、沙耶はニュース番組を見ていた。
「この社長、何か悪いことしたの?」
沙耶はベッドに座り、足をぶらつかせていた。
「知らない」
画面は剥げた中年男性が頭を下げている映像が流れていた。
「もっと社会に目を向けなさいよ」
ばさりとベッドに寝転び、長い髪が散らばる。扇を広げたようだ。
「明日からやってみる」
「そう言ってやった覚えある?」
「……ない」
俺は千石さんの様子を見に行った。
千石さんは通り道である穴を塞いだ立方体の前で座り込んでいた。
「千石さん」
「ん? 何かね」
「直りそうですか?」
「大丈夫じゃないかな」
「俺、思うんですけれど沙耶は帰る必要があるんでしょうか」
「あるね。別の世界の人物が長居をすると、少なからずこちらに影響を及ぼす。だから、早く修復して沙耶君を返してあげないと」
千石さんは作業に戻った。腕を組み、悩んでいるようだった。
「俺、そろそろ帰りますね」
「おお、そうか。申し訳ないのだが、君の家への入り口がまだ直っていない」
「大丈夫です。ご馳走様でした」
「また、一緒に食事をしようね」
千石さんは目を瞑りながら笑った。
俺は沙耶の部屋に行くと、沙耶は床に眠っていた。
「おーい、沙耶。ちゃんと布団の中で寝ろ」
肩を揺すると不機嫌そうに唸った。
「さっきはベッドの上にいたのに」
沙耶の寝顔は穏やかだった。浅く上下する胸に合わせ、口から息がゆっくりと流れ出ている。閉じられたまぶたは、まつ毛が妙に俺の気を引きしばらく眺めていた。
俺はどうしよか迷った後、沙耶をそっと持ち上げベッドに寝せた。沙耶は軽かった。腕に収まりそうなほど小さく、柔らかい。吐息がかかり、俺は顔がほてるのを感じた。
「じゃあ、俺は帰るから」
沙耶は一貫して起きることは無かった。
川辺に出ると空気が湿っていた。空は曇り、星は見えなかった。明日は雨でも降るのだろうか。時期的には降ってもおかしくないはずだ。
5
「なおきー。学校に行かないのー」
沙耶の声がした。
しばらく嗅いだことが無いみそ汁の匂いがしていた。
俺は布団の中で考えてみた。なぜ、ここで沙耶の声がするのだろう。
昨日、俺はすぐに眠りについた。疲れていたのか、一切の夢を見ることは無かった。
「ほら、早く起きて」
部屋の扉があいた。
乱雑に積まれた本が倒れた音がした。
「うわ、汚い」
頭を布団から出すと、沙耶が本を積み直していた。
カーテンを閉めずに眠ったようで、朝日の中で埃がきらめいていた。雲が若干多いようだった。
「本棚、買った方が良いね」
「金が無いんだよ」
「本ばっかり買うからだよ。ほら、起きて。千石さんが朝ごはんを作ってくれているから、早く食べようよ。あと、学校でしょ」
やかましく話す沙耶は俺の布団をめくり、腕をつかみ引きずろうとした。しかし、沙耶の力では無理なようで、余計に埃が舞っていた。
「あーもう! 重い、重い、重い。立ちなさいよ」
沙耶は俺に蹴りを浴びせベッドがきしみ、枕元に置いた漫画数冊がなだれ落ちた。
しぶしぶ体を起こすと五月病がまだ完治していないからか、異様にだるく朝日が眩しかった。
「直樹。その顔、お墓が似合う。むしろ、行くべきだよ」
「……参考にさせてもらうよ」
次第に沙耶のきつい口調に慣れてくる自分がいた。
リビングに行くと、千石さんが笑顔で出迎えてくれた。
「おはよう、浅間君。台所を勝手に使わせてもらったよ。断りもせずに申し訳なかった」
「いいえ、気にしないでください。家は基本的に台所を使わないので。親もあまり帰ってきませんし」
テーブルには卵焼きやみそ汁、ご飯などが並べられていた。作ったばかりのようで、香りが濃く湯気が立っていた。
「どうせだから、君と一緒に食べたいと沙耶君が言ったのでね」
とっさに沙耶は千石さんの口をふさごうとした。
「ちょっと、待って下さい。別にあたしは直樹と食べたかったわけではないんですよ! ただ、いつもまともに食べていないから、かわいそうになっただけです。憐れみですよ、憐れみ」
腕を組み、顔を背けた沙耶は千石さんになだめられながら席に座り、俺を睨みつつみそ汁をすすった。
「やっぱり、おいしいですね」
俺もいくつかおかずに箸をのばした。
「そう言ってくれると、うれしいよ」
千石さんは緑茶を飲んでいた。この人は何かと緑茶が欲しくなるらしい。俺が炭酸飲料を好きなのと同じなのだろう。
「浅間君は学校なのかな?」
「……はい」
俺は千石さんの手料理で忘れていたが、俺は学校に行かねばならなかった。
「直樹、ちゃんと行かなきゃだめだよ。先週も一日休んだんだから」
「そんなことまで知っているのかよ」
「色々知っているよー」
箸をくるくる回し得意げに沙耶は胸をはった。
「そうだ、千石さん。料理を教えてくれませんか?」
「いきなりどうしたんだい? まあ、私が教えられる範囲なら教えるが」
「一度やりたかったんです。料理番組を見て、ずっと憧れていて」
俺はふと思った。沙耶は千石さんが沙耶の世界へ戻る道を直してしまえば、元の場所に帰ってしまうのだ。また一人で過ごすのだろう。俺は返してしまうのは気の毒に思った。
「だけれど、沙耶君への世界に続く道を直すから、その片手間になるけれど良いかい?」
「はい!」
その場を一瞬で和ませるような笑顔を振りまき、沙耶は頷いた。
俺は体を引きずるようにして登校した。途中、何度か心が折れそうになった。
「じゃあ、行ってらっしゃい」
それを阻止したのは沙耶だった。
俺が逃げないように見張り、後ろをついてきた。登校中の制服を着ている生徒の中にぽつりと沙耶がいると、白い花が咲いたようだった。男子生徒が脇を通る度に振り返り、そしてそばにいる俺を見て悲しい表情をするのだった。
「ああ、うん。それより服、それしか持っていないだろ」
沙耶は昨日と同じ白いワンピースを着ていた。
「一応、千石さんに同じのを出してもらったんだよ」
「風呂は?」
「出してくれた」
「万能だな」
「あ、でもお金はあまり出したくないんだって」
「こだわりがあるのか」
学校の予鈴が鳴った。
「それじゃあ、行くよ」
俺は沙耶と別れ、校舎の中に入った。
教室から、沙耶と別れた校門前を見ると、沙耶はまだ立ち尽くしていた。沙耶はこちらの教室を分かっているのか、一瞬目があった。沙耶は手を振り、走って帰った。
俺は学校というものが好きではなかった。好きなのは少数だろうが。
ぼっさとしながら授業を受けてノートを取る。ある一人の教師が、授業中熱心に教科書の解説をしているうちに興奮し、現代の諸問題に言及し始め、怒りの矛先は生徒達に向いた。
「だから、君達はしっかりと勉強しこの世の中を生きていかねばならないのだ。にもかかわらず……」
などのことが時間いっぱい繰り返された。先週も同じことを言っていた気がする。語ることが好きな人はいくら同じことを言ってもあきないのだろう。
おかげで俺は暇に任せて小さい頃の回想をしてしまった。一人で遊んでいた記憶だった。アニメを見ながら、自分がこの中にいたらどうだろうと空想し、楽しんでいたことも思い出した。きっと、俺が引きこもりがちなのは幼少期の体験が影響しているのだ。
授業は正味十分で終わった。
「直樹君、さっきの授業長かったね」
「……うん」
話しかけられた。
「顔色悪いけれど大丈夫?」
「朝は苦手なんだ」
「もう昼だよ」
佐藤は俺に何かと話しかけてきた。俺なんかと話して面白いのか、さっぱり理解できなかった。
「……そっか」
「お昼、一緒に食べよう」
このところ、佐藤の行動を観察してみたが実は特に仲が良い友達がいないらしい。だから、同じ一人でいる俺に寄ってくるのだろう。
「何も持ってきていない」
「お金は? 購買でパンとか」
「持ってない」
「じゃあ僕の弁当少し食べる?」
佐藤はひどく中性的な顔立ちで、将来ビジュアル系のバンドにでも入ったら良いのだと思っていた。
「いいよ。俺は寝るから」
「ごめんね。僕は食べるよ」
「どうぞ」
俺は寝ようとした。しかし、佐藤には聞こえていなかったのか、かまわずに話し続けた。
「やっぱり、あの先生は授業より話すことが好きなんだと思うよ」
「そう……」
「先週も同じようなことを話していたし」
「俺もそんな気がしたよ」
「あ、直樹君。気にしない方が良いよ」
「何を?」
律儀にかまってくれる佐藤を無下にも出来ず、適当な相槌だが相手をしてしまっていた。
「コミュニケーション能力の低下とか、ニートになる人達の話をしているとき、あの先生ずっと直樹君のことを見ていたから」
中々に観察眼がある人だと俺は感心した。
「気にしてないよ」
「ほら、やっぱり人はそれぞれだと思うし」
「だから気にしてないよ」
「ん? そう。なら良いけれど。先週はどうしたの?」
「体が拒否していたんだ」
「具合が悪かったの?」
当然のように俺を疑わない佐藤に俺は正直に白状した。
「さぼったんだよ」
「やっぱり朝が苦手なんだね。起こしに行ってあげようか?」
俺は出来れば女の子に来てほしい。……そういえば、蹴られながらも女の子に来てもらったか。
「いいよ。今度、目覚まし時計を増やすから」
佐藤は少し残念そうにしながら、弁当を食べるのに戻った。
6
あたしは一人で生徒の波を逆流した。行き交う人々があたしに目を向けているようだけど気のせいかな。
空を見上げると、雲の流れが速かった。灰色の雲が青空を消していくようだった。
あたしのいた世界は青い空なんて無かった。ずっと雲に覆い隠され、その上なんてあるように思えなかった。
「雨が降りそうだね」
千石さんが作ってくれた昼食はチャーハンだった。ぱらぱらとして美味しい。
「傘、浅間君は持って行ったかな」
「無いでしょうね」
直樹は毎回忘れ、濡れて帰ってくるのだ。
「千石さん、傘を持ってますか」
「出してあげるよ」
千石さんは青い大きな傘を出してくれた。
「あ、そうだ」
あたしはマニュアルを開いた。
その二。慣れてきたら、あだ名で呼び合う。アドレスの交換。帰り道が同じなら一緒に帰るのも良いでしょう。
「千石さん、携帯は出せますか?」
直樹は持っていた。しかし、ほとんど使わず部屋で本と共に埃を被っている。
「出せることは出せるが契約しないと使えないよ」
「そっか……」
実行不可能か。残念だった。
あたしは直樹を迎えに行った。二人で同じ傘に入ることを想像すると緊張した。もう一本、同じものを出してもらえば良かった。
直樹の学校に着くと、授業が終わったばかりだった。校門と校舎は駐車場を挟んですぐそばにあるので、よく校舎の中が見えた。そうでなくとも、あたしは目が良いのだろう。
校門の手前で直樹の教室を覗くと、小さく直樹の姿があった。直樹の席は窓側なのだ。
あたしは雨で靴が濡れるのを感じながら直樹を見ていると、別の男の子が話しかけていた。
あれは佐藤君だ。夢の中でよく直樹に話しかけていたのだ。彼も仲の良い友達がいないらしかった。
あたしは彼が夢に現れる度、一人でいる直樹に話しかけくれるので感謝をしていたが、嫉妬に似た感情も抱いていた。
あたしがもしこの世界に存在していたら、直樹と話せたのに。
あたしは想像をした。佐藤君とあたしと直樹。三人で昼食を食べたり、授業を受けたり、遊んだりすることを。楽しそうだった。そして、帰りは直樹と二人で帰る。家が近くにあるので、本当の幼馴染なのだ。あたしは直樹の面倒をみて、直樹はいつもだらけている。内心、あたしは傍に入れることを喜びながら文句を言うのだ。
けれど、頭を振り有りもしない現実を追いやった。文字通り、住む世界が違うのだ。いずれあたしは帰らないといけない。千石さんも言っていた。あたしがこの世界にいると、直樹に迷惑をかけてしまうのだ。それだけは嫌だった。
佐藤君と目があった。直樹もあたしに気付いたようだ。
あたしはかなり濡れてしまっていた。来たら何と言ってやろう。
7
放課後、俺は今更目が覚めていた。しかし、気分は沈んでいた。なぜならば、雨が降り出していたからだ。空は梅雨の季節だと取って付けたように思い出し、土砂降りの雨を提供してくれるのだった。
「直樹君、傘持ってきた?」
佐藤は窓辺に寄り、外をまじまじと見つめていた。
「持ってきてないよ」
「折り畳み傘、貸そうか。僕は長い傘持ってきたから。……あれ? 校門の前に誰かいるよ」
俺は佐藤の横に並び外を見た。
朝と同じところに、沙耶が水色の傘をさしていた。
「佐藤、ごめん。やっぱり傘はいいや」
「どうしたの? あの子、直樹の知り合い?」
さて、何と言ったものか。
「そんなところ」
ごまかそうとすればするほど、墓穴を掘りかねないので曖昧に言っておくことにする。
「明日、本当に起こしに行かなくて良い?」
「いらないよ。そもそも、家は反対方向だろ」
なぜそこまで佐藤はこだわるのだろう。もしかして佐藤は俺のことを……。考えないでおこう。
校門まで雨に濡れながら沙耶の元に駆け寄った。
沙耶は自身の体には不格好な大きさの傘をさしながら、水たまりに足先を入れながら波を作っていた。沙耶の履いた靴は先が濡れてしまっていた。履いている靴は、俺が昔履いていたスニーカだった。千石さんは靴にあまり興味が無いらしく、革靴のみしか出せなかったので、俺が朝に渡したのだ。
「沙耶、どうしたんだよ」
「遅い! ワンピースの裾が濡れちゃったでしょ。靴も湿ってきたし」
「だったら何で来たんだよ」
「直樹、傘持ってきていなかったじゃない。千石さんに言ったら、この傘を持って行ってあげろって言うものだから、来たのよ」
沙耶は水たまりを蹴りあげ、俺に水しぶきを浴びせかけた。
「止めろって。悪かったよ」
俺は沙耶をなだめ、傘に入れてもらった。
「直樹、持ってよ」
沙耶は俺に傘を押し付けた。
「何で早く出てこないのよ」
「知らなかったからしょうがないだろ」
「嘘をつかないでよ。いつもは授業終わったら一番で帰るくせに。どうせ、佐藤君と話していたんでしょ」
沙耶は俺の脇腹を殴った。痛くは無かった。
「おい、何でそのことを知っている」
「色々知っているの。学校でまともに話す人は佐藤君しかいないし、体育でもペアで何かするときも、佐藤君としか組まないとか。……好きなの?」
「好きじゃない。佐藤は男だぞ」
「どうだか。愛の形は人それぞれだと思うし……」
沙耶は個人の自由を言いつつ、俺のことを未だに殴り続けるのだった。
「話しかけてくれるのが佐藤しかいないから、結果的に佐藤といることが多くなるんだよ」
「良かったね」
「良いのか?」
「一人じゃないだけましでしょ。直樹みたいなひ、き、こ、も、り、を相手してくれるんだから」
異様に沙耶は尖っていた。必ずしも俺にすべての非があるとは思えないが、謝っておいた方が良いのだろう。
「ごめん。これからは早く帰るから」
「これからがあると思っているの?」
「無いの?」
「あるわけ無いでしょ」
沙耶はなおも俺を殴る。さすがに、同じところを攻撃させると痛くなってくる。
「なあ、沙耶。そろそろ許してくれないか」
「やだ」
「痛くなってきたんだけれど」
「そのまま、痛みの中にある快楽に目覚めれば良いのよ」
理不尽なことをさらりと言った沙耶は、殴る速度が速まったように感じた。
「俺にそんな趣味は無いよ」
「ボーイズラブはあるの?」
どこでそのような言葉を……テレビか。
「だから佐藤は好きじゃないって」
「あたし、佐藤君のことを聞いてないけど」
沙耶は勝ち誇った顔をし、俺は拳を握りしめた。
「あのさ、あたし疲れてきたから殴るの止めて良い?」
「誰も頼んでいない」
俺は脇腹をさすった。痣になっているかもしれない。
帰宅路には途中、大きな川に架かった橋がある。千石さんへの空間に続く入口がある川より二倍はあるだろうか。川は濁っていて、流れが速かった。
沙耶はそこで立ち止まり、川を見下ろした。
「ここ、広い川ね」
「泳ぎたい?」
「直樹が泳いでよ」
沙耶はしばらく見つめていた後、ゆっくりと話し始めた。
「直樹さ、もう少し積極的に学校生活を過ごしたら?」
「考えてみるよ」
「高校に入ってから、佐藤君が仲良くしてくれているけど……。もっと、こうなんだろうね」
沙耶は眉間にしわを寄せながら俺との距離を縮めた。
「女の子に興味は無いの?」
頬染めて、顔を背けた沙耶はワンピースの腰のあたりを握りしめた。
俺は混乱した。
なぜ、興味があるのかということを聞くのか。無いわけではない、しかし、どうしろというのか。漫画や小説の中にいる人物に憧れたりするのみで、現実的に女の子と仲良くしようとは思わなかった。……思わなかった? いや思った。思ったが、同性ともコミュニケーションにすら難があるのだ。それと、俺は漫画や小説のヒロインは主人公と仲良くなるものだと気が付き、あまり妄想に浸ることはしなかった。小さい頃はもっと純粋に思いを馳せた。この子と仲良くなりたいな、と。それは恋愛対象としてではなく、友達として仲良くなりたかったのだ。基本的に一人でいることが多かったからだ。いや、今はそういうことを考えるときではない。
「どうしたの? 何か言ってよ。もしかして、本当に男の子が好きなの? 困った。冗談のつもりだったのに」
俺の無駄な思考はなおも続く。
もし、仮に佐藤が男ではなく女ならばどうだった? 俺は佐藤の一挙一動にときめきを感じていたのではないか。さっきの、起こしに行ってあげようか、という言葉。ああ、あれが女子高生だったならば至高の響きだったろう。まてまて、そもそも女の子は俺に話しかけてくれるはずがないのだ。なぜならば、俺は沙耶の言うように暗くて引きこもりがちな人間だから。
俺は何度も同じことを考え、少しずつ論点がずれていった。自分自身、それに気づくことは無く、沙耶がいることを忘れ、物思いにふけった。
「もういい! 直樹の馬鹿、引きこもり、ニート予備軍! 本のごみ虫! 歩く生ごみ! 佐藤君と一生いちゃいちゃしてればいいよ!」
沙耶は俺に罵声を浴びせ、脛を蹴りあげ、傘を無理やり奪い取って走っていってしまった。
後に残った俺は痛みでうずくまり、己のだめな思考回路を反省した。
ずぶ濡れになった。沙耶は予想以上に足が速く、見失ってしまった。
8
「おかえり。あれ? 浅間君はどうしたのかね?」
「知りません!」
あたしは千石さんの用意してくれたタオルで濡れた箇所を拭いた。
千石さんは直樹の家と、あの白い空間を繋ぎ直してドアを新しく取り付けたようだった。朝、この家にくるときはトイレのドアを代用したのだけれど、それでは何かと不便なので一時的に仮の出入り口を作ったのだ。
「喧嘩でもしたのかい?」
「直樹が悪いんです! 男の子ばかりに気を取られているから!」
あたしは気持ちが落ち着かなかった。
佐藤君が嫌いなわけではない。けれど、直樹の態度が気に入らなかったのだ。あたしは緊張していた。初めて誰かと傘をさして歩いたのだ。
それも男の子と。
なのに、直樹は気にしているように見えなかったのだ。あたしはそれでいらいらとして直樹を殴り続けた。
「まあまあ。お風呂を沸かしているから、入ってきなさい」
「……はい。千石さん、靴を乾かしたいんですけど、どうしたら良いでしょう」
「除湿機を出してあげよう」
千石さんとあたしは白い空間へと入った。
「沙耶君、言っておかなければならないことがある」
千石さんの雰囲気は穏やかでは無かった。
「……何でしょう」
あたしは大方予想が付いた。
「君の帰り道のことだ」
「……はい」
「ほぼ修復は終わった。あとは君が帰るだけだ」
予想はしていたが、あたしはショックで何も言えなかった。千石さんは、そんなあたしの気持ちを察してくれたらしい。
「君がまだ帰りたくないのなら、少しは時間を作ってあげられる。私は君に料理を教えると約束したからね」
あたしはほっとした。同時にまた腹が立った。なぜ、あたしがほっとしなければならないのだ。直樹の顔が思い浮かび、思い切り空を殴った。
「そんなに嬉しいのか」
千石さんはあたしの行動を喜んではしゃいでいると思ったのだろうか。
「そ、そういうわけでは……。あたしがすぐに帰れることは、直樹に言わないでください。心配させたくないんです」
「かまわないよ」
あたしは長方形の除湿機の前に濡れた靴を置いた。
「君と佐久間君とは、どういった理由で繋がっているのか分かるかい?」
「……」
あたしは知っていた。どうしてあたしはあの世界で一人だったのか。直樹はほとんど覚えていないみたいだけれど。
「深い事情があるならば言わなくて良いよ。ただ、少し気になっただけだ」
あたしは千石さんに話しておくことに決めた。お世話になっている以上、話す義務があると思ったからだ。
「直樹には言わないでくださいね」
「……分かった」
あたしは深呼吸をした。
「あたし、昔はもっとこの世界に干渉出来たんですよ」
「ほほう。直接現れたのかね?」
「はい。小さな直樹と話をして、遊んだり出来ました。でも、次第にあたしはこの世界から消え行きました。今はかろうじて、直樹の夢に出るくらいです」
「どうして干渉出来たのだい?」
「あたしも詳しいことは分からないんです。ただ、あたしは直樹が生み出しました」
「生み出した?」
千石さんは意外そうに眉を上げた。
「直樹は小さいころから一人で遊んでいることが多かったんです。両親が忙しくて、仕事場につれて行かれることが多かったのですけど、対外はそこで放置されていました。一人でテレビを見て、ご飯を食べて、眠る。空想をする時間が沢山ありました。頭の中で色々思い描いたはずです」
その頃、あたしは生まれた。アニメのヒロインをベースとして。
「君は直樹君が空想により作った人物なのだね」
「そうです。確かな時期は覚えていませんが……。小さい子って想像力豊かじゃないですか。でも、年齢が上がるにつれて直樹は忘れてしまいました」
あたしは千石さんに話をしている内に涙を流していた。手で拭っても、拭っても涙は溢れてきた。
「不思議なものだ。空想が独り歩きをして、独自の世界を作り上げるとは……。もしかすると、私が見てきた世界も誰かが作ったものなのかもしれないな。沙耶君、事情は分かった。だが、打ち明けても良いのではないかね?」
「だめです。その……自分で思い出して欲しいんですよ。あたしと遊んだこととか。あたしに言ってくれた言葉とかも……。実際にあったら思い出してくれるかと思ったんですけど」
「微妙な乙女心というやつか」
千石さんは笑った。
あたしは顔が熱くなった。
「お風呂に入りますね!」
あたしは、あたしの部屋の横に出してもらった浴室に向かった。
9
俺は下着までしっかりと濡れて帰宅をした。
「おかえり、浅間君」
「ただいま帰りました。沙耶は戻ってますか?」
「ああ。災難だったね」
「まったくです」
俺は千石さんが渡してくれたタオルで頭を拭いた。服からは水滴がしたたり落ちて床を濡らした。
「沙耶君は私のところにある浴室にいるよ」
俺はこの言葉を聞いた瞬間、今までの読書記録からある一定パターンを予測した。まず、俺が何の気なしに扉を開ける。そして、そこには裸もしくはタオルを巻いた女の子がいて、変態と罵られながら攻撃される。
おとなしく現状待機を選んだ。
「浅間君も沙耶君が上がったら入ると良い」
「いえ、俺は家のシャワーで済ませます」
俺は脱衣所で肌に張り付いた服を脱ぎ、浴室に入った。
「浅間君、夕食を私が作っても良いかい?」
ドア越しに声がした。
「お願いします」
「食べたいものがあるかい?」
「……すぐには思いつきませんね」
「では、沙耶君に聞いてみるよ」
これはもしかすると千石さんが攻撃されるのか。
「気を付けてください」
俺は千石さんにそっと注意を促した。
結果的に俺の心配はただの妄想となり、特に何も起こることは無かった。
俺がシャワーを浴び終え、千石さんの白い空間にあるキッチンへ行くと、二人が並んで料理を作っていた。
沙耶は髪を一つにまとめ、エプロンを付けていた。料理を教えてもらっているらしい。
「沙耶……話を聞かなくて悪かったよ」
「うるさい。話しかけないで」
沙耶が俺を置いて行ってしまったのはどうかと思ったが、原因を作ったのは俺が話を聞いていなかったからだと反省して謝罪をした。にもかかわらず、拒絶されてしまった。
どうやら沙耶は何かを切っているようだった。
「沙耶君に手伝ってもらっているんだよ。出来るまで少し待っていてくれ」
俺は頭が痛んだので眠っていることにした。
目を覚ましたのは七時を回った頃だった。
「直樹起きて。ご飯出来たよ」
沙耶は蹴って起こしてくれた。
体を起こすと、朝のだるさとは別のだるさがあった。
「顔、朝よりひどいよ」
「おかしいな。夜になると俺は元気になるのに」
「人間やめて、夜行性の動物になった方が良いんじゃない?」
俺は立ち上がった。具合がすこぶる悪かった。
「メニューはなに?」
「ハンバーグよ。あたしも手伝ったんだから」
「うまく出来たのか?」
「どういう意味よ」
「初めてだろ、料理。だからうまく出来たのかと思って」
「千石さんは中々上手いって言ってくれた」
沙耶は微笑んだ。
テーブルに着くと、俺は体重を椅子に預けどさりと座った。
「顔色が悪いね」
「具合が少々良くないです」
「食べられるかい?」
「問題ないです」
俺は体調の割に空腹だった。
程よい焦げ目の入ったハンバーグに箸を入れた。味は最高に良かった。
「どう? おいしい?」
沙耶は身を乗り出した。
「うまいよ」
「あまりそうは見えないけれど」
不平を言っているが、沙耶は嬉しそうだった。
「明日のお弁当、作ってあげようか」
弁当? まともに作れるのだろうか。
「浅間君、お昼はどうしているのだい?」
「コンビニで適当に買います」
「栄養が偏るよ。やっぱり、あたしが作るね!」
妙に自信があるようだが、料理の経験値は限りなくゼロなのだろう。それとも、料理番組は見ているだけで経験値が溜まるのか?
「私も手伝うよ」
話が勝手に進んでいった。
まあいいか。沙耶も千石さんも楽しそうだし。沙耶は怒っていたのに、もう忘れてしまったのか。別に良いや。佐藤との関係を疑われずに済む。
「あ、忘れていた。直樹、マニュアルを二番まで消化したよ。携帯は無理だったけど、一緒に帰ることは出来たしね。あとはあだ名で呼び合う、だって。どうする?」
意識がもうろうとした。やはり雨の中走ったことが原因か。
「好きにしていいよ。それと、沙耶。僕にコーラを飲ませてくれないか。あまり気分が良くないんだ」
「だめ。炭酸水なら良いよ」
千石さんは炭酸水をくれた。
俺は一気に飲み干した。食道が心地よかった。
「佐久間君、やはり顔色が良くない。もう眠ったほうが良いよ」
「そうさせてもらいます。ご馳走様でした。おやすみなさい。美味しかったですよ」
俺は自室へと向かった。
浅い眠りを繰り返し、俺は何度も夢を見た。
暗かった。俺は一人で立ち尽くしていた。
すると、後ろから足音がした。
俺は逃げた。訳も分からず走った。先が暗いのでどの方向に向かっているのか分からない。闇雲に駆けた。
次第に膝の力が抜けていった。体も重く、這うことさえ叶わない。恐怖が俺を支配し、叫んだ。助けて。助けて。助けて……。
「直樹君、お昼を食べよう」
佐藤が目の前にいた。俺は学校の自席に座っていた。
「持ってきていない」
「僕のお弁当をあげるよ。二つ作ってきたんだ」
佐藤は笑った。目元が円を描いて曲がり始めた。口元も引き伸ばされ始める。
「いらない。それより、お前は何で俺を名前で呼ぶんだ?」
「僕の方こそ聞かせてよ。何で直樹君は僕のことを名字で呼ぶの? 名前で呼んでよ。仲良くなろうよ」
佐藤の声はノイズと化して、酷く耳障りだった。
また逃げた。
俺は病室のような所で寝かされていた。確かここは両親の仕事場にある仮眠室。
「熱があるの?」
枕元で女の子の声がした。
「だるいんだ」
手がそっと額に乗せられる。冷たくて気持ちが良かった。
「寂しかったでしょ?」
「うん。何で早く来てくれなかったの?」
俺は心細くて泣いてしまいそうだった。
「ごめんね」
女の子は手を握ってくれた。
「早く良くなってね」
女の子が笑顔を向けてくれた。
ゆっくりと女の子は遠くなった。夢が覚めるのだ。
俺は汗にまみれて目覚めた。
雨音がする。かなり激しいようだ。
「起きた。汗が酷いよ」
脇に沙耶がいた。髪を後ろでまとめ、エプロンを付けている。料理をするときはこの格好なのだろう。
「変な夢を見たからかな」
「どんな?」
「逃げる夢」
「現実から?」
あながち間違っていないから言い返せない。
「体温計持ってきたから熱を測りなさい」
沙耶は俺の頬にデジタル体温計を押し当てた。
「直樹。あたしに似合っているかな。昨日聞いてなかったし」
沙耶はくるりと一回転した。ワンピースのスカート部分がめくれあがり、エプロンの裾もひらりと舞った。後ろでまとめた髪も小さく跳ねる。綺麗なうなじが姿を現す。シャンプーの香りなのか、魅惑的な匂いが漂う。熱のせいなのか、頭がくらくらして上手く考えがまとまらなかった。
「かわいいよ」
俺は普段より口が緩くなっていた。
沙耶はさっと後ろを向いた。耳が赤くなっている。色白なので首筋の辺りは品の良いピンク色だった。
「あれ、照れているの?」
「うるさい。早く測りなさいよ!」
俺は汗でぬめった脇を簡単に拭いて体温計を挟んだ。小さな電子音が発せられ、パネルの部分を見ると三十八度七分と表記されていた。平熱よりだいぶ高かった。
「学校、休めるね。ずっと寝てなさいよ」
「ちょっと悔しい。何もないときに休むのが良いのに」
「馬鹿じゃないの」
「馬鹿かもね」
俺は下着を取り替えたかった。
「沙耶、頼んでいいかな」
「ご飯? おかゆが良いかな」
「そうじゃなくて、着替えさせてくれない?」
口も脳みそも緩くなっているらしい。自分自身も驚いた。
「……しょうがないわね」
意外な反応だった。
沙耶は俺の下着を探し出し、布団をめくって本当に着替えさせようとしてきた。
顔が近づいてきて、吐息が耳元をかすった。
「冗談のつもりだったんだけど」
「いいから。大人しくしていて」
沙耶は俺を押さえつけ、慌ただしく部屋から出て行った。戻ってくると、手にはお湯を入れた洗面器と、タオルがあった。
「体、拭いてあげる」
嘘から出た真? 頭にことわざが浮かび、すぐに消えた。
「ジャージで眠るの止めた方が良いよ」
俺は面倒で普段着も寝間着も変わりが無かった。
「善処する」
沙耶は汗で濡れたティーシャツを脱がせた。汗が冷えて寒く感じた。
俺は女の子に体を見られたわけだが、羞恥心など欠片もなく、ただただ暖かいタオルが心地よいばかりだった。熱が原因で上手く物事をとらえられないのだろう。
一通り拭き終わると、俺は長袖シャツを着せられて布団を被せられた。
「お腹は空いてる?」
沙耶はもじもじと聞いた。顔を上げてくれない。
恥ずかしいなら、無理をしなくて良かったのに。
「そこそこ」
「だったら、おかゆを作るね」
沙耶は部屋から出て行った。
また一人になった。雨の音が鮮明に聞こえた。
沙耶は塩味のおかゆを持ってきた。自分で食べられるのに、食べさせてあげると言ってきかなかった。
「美味しい?」
「美味しいよ」
「良かった」
沙耶は笑った。
「俺さ、小さい頃から風邪をひいてもあまり看病されたことないから、こういうのは慣れないな」
「一人だったものね。布団に寝かされて、たまにしかお父さんとお母さん、来てくれなかったからね」
「覚えているのかよ」
「当り前よ」
俺は夢でその時のことを見た。あれは母親だったのだろうか。……違う。小さな女の子だったはずだ。すると、沙耶だろうか。俺は夢を小さな頃から見ていたが、その記憶と混同しているのかもしない。
「なあ、沙耶。前にここの世界へ来たことがあるか?」
「急に何よ」
「夢で小さい頃の夢を見たんだ。女の子が俺を看病してくれた。その子が沙耶に似ている気がして」
「さあ、どうだかね」
沙耶は食べ終わったおかゆの容器を持って部屋から出ていこうとした。
「もっと考えてごらん」
沙耶はそう言い残した。
俺は目を瞑った。古い記憶を漁るが大した情報は得られなかった。
十
あたしは耐えられず部屋を出た。
歩いている内に涙が頬を伝った。嬉しかった。
しかし、まだ曖昧のようだ。あれでは、あの言葉を言ってくれるか分からない。
「千石さん。あたしはどれくらいここにいられますか?」
千石さんは緑茶を飲んでいた。どれだけ好きなのだろう。
「……一週間ぐらい。すでに影響が出始めている」
千石さんはあたしの通ってきた場所を指さした。
「目立たないが、封をした箇所にひびが入ってきている」
あたしは立方体に近づいた。白い滑らかな側面に、微かだが亀裂があった。
「どうだね。浅間君は思い出してくれたかい?」
「ほんのちょっとですけれど、あたしに関係することを思い出してくれたみたいです」
「早く思い出してくれるといいね。そうだ沙耶君、このプリンを上げよう」
千石さんはカラメルプリンを取り出した。
「デザート系にも最近挑戦しているんだ。良かったら味見してみてくれ」
「すごいですね。……おいしい」
「まだ一個残っているから後で食べて良いよ。浅間君の家の冷蔵庫に入っているから」
千石さんは優しかった。直樹の目の前で食べてやろうかな。
あたしの部屋に戻り、ベッドの上に寝転がった。友達マニュアルが頭の横に置いてあった。
あたしはどうしても最後のページをやりたかった。
三、さらに仲良くなりましょう。お互いの家に行ったり、一緒にどこかへ出かけたりしましょう。
お出かけ。デート。
あたしは直樹と並んで歩いているところを想像した。小さい頃は一緒に走り回ったり、川で遊んだりしたが、そのときは親しい友達程度の意識しか無かった。
テレビで人はよく顔を会わせる異性を好きになりやすいと言っていた。親しくなりすぎると逆に友達としか認識されないらしい。
あたしはどうだろう。
机の上に積まれた漫画を広げた。直樹の部屋から勝手に運んできたのだ。清々しい少女漫画にした。直樹はジャンル関係なしに読むようで、まだまだ探せばあるはずだ。男女がすれ違いながらも最後は付き合い始める。王道の恋愛ものだ。初々しいデートの場面も出てくる。妄想はどんどん膨らんでいった。映画を見たり、買い物をして直樹に持たせたり、外食をしたり……。帰り道、公園で雑談にふけるのも良い。ささやかなことが、あたしには輝かしかった。
「俺と一緒に居てくれよ!」
「……うん」
あたしはあるワンシーンを一人で演じた。いささか過剰なセリフを言われてみたかったのだ。
直樹は言ってくれるだろうか。言わないだろう。むしろ、あたしが言ってやろうか。恥ずかしいから止めた。
「……はあ」
ため息をついた。悲しくなった。
十一
家の呼び鈴が鳴った。俺はその音が響き渡る一歩手前で目を覚ました。時刻は、晴れていれば夕暮れのときだった。
沙耶は俺の部屋で漫画を漁っていた。
「あたし出てくるねー」
沙耶は行ってしまった。
困った。知人だったら何と説明しよう。親でないことを祈る。
「なおきー。お友達」
沙耶は穏やかな声の裏に明らかな不満を含んでいた。
「誰?」
佐藤が沙耶の後ろにいた。
「具合どう? 直樹君」
起こしに来たのか?
佐藤はたまに俺の家へ漫画を借りに来ていた。だから、家の場所は知っている。
「朝よりは良い」
「プリントを持って来たよ」
「机の中に入れて置いても良かったのに」
「内容が早めに知った方が良さそうだったから」
「わざわざありがとう」
俺はプリントを受け取った。内容を確認せず、机の上に置いた。
「それと……この子は?」
佐藤はおずおずと尋ねた。
さて、どうしたものか。
「……」
「あたしは直樹の幼馴染で、沙耶といいます。こんにちは。小学校のときに転校して、最近また戻って来たんですよ。趣味はテレビを見ることです」
沙耶は俺の言葉を遮りそう言った。
「直樹君にこんな可愛い幼馴染がいたんだ。以外だよ」
佐藤は漫画を整理し、座る場所を確保した。
沙耶は単純にも照れて顔を赤くしていた。
「以外ってなんだよ」
「だって、直樹君は僕以外とはほとんど喋らないんだもの。浮ついた話も無いし。結構驚くことだよ」
「ですよねー」
沙耶はすっかり警戒心を解いてしまったようで、爽やかに相槌を打っている。
「明日はこれそう?」
「だいぶ良くなったから、行けそうだよ」
「無理しなくても良いんだよ。なんならもう一日くらい休んでも。あたしが……」
最後はごにょごにょと聞こえなかった。
「何だよ。学校行けって怒るくせに」
「心配しているんだよ。沙耶ちゃんは」
佐藤は早くも沙耶に慣れているようだった。人見知りの酷い俺とは大違いだ。なぜ、友達が少ないのだろう。
「違うよ!」
沙耶は数冊漫画を投げつけた。
「おい! 痛いだろ」
沙耶は逃げだすように出て行った。
「可愛らしいね」
「お前、意外と好きなんだな」
「なにが?」
「からかうの」
「そのまま言っただけだよ」
佐藤は楽しんでいるらしい。
「漫画を借りて良いかな?」
「良いよ。新刊はそこらへんにあるんじゃないか」
俺は疲れたので横になった。
「あったよ。でも、どうして言ってくれなかったの? 沙耶ちゃんのこと。昨日迎えに来ていた子だよね。いいな。僕もあんな子に迎えに来てもらいたい」
「何を言っているんだ」
「だって、だって、憧れるだろ。髪の長い、あんな可愛い子が傘をさして雨の中、一人で立っているんだよ。もうたまらないじゃないか」
人が寄り付かない訳が分かった気がする。要するに、佐藤の妄想が爆発して周囲を引かせてしまうのだ。
「分かったから。落ち着け」
「沙耶ちゃんはどこに住んでいるんだい?」
佐藤は俺との距離を縮め、顔を近づけた。
「……近所」
嘘は言っていない。
「行ってみたいなー。沙耶ちゃんの部屋はどんな匂いがするんだろう。きっと良い匂いがするんだろうなー」
佐藤は妄想にふけっている。気持ち悪かった。だが、笑いもこみ上げてくる。俺とは違って顔の作りが整っている佐藤が、このような心中の変態的な気持ちを垂れ流している。それだけで面白かった。
「直樹君は行ったことある?」
あるが簡素な部屋だった。
「何度か」
「やっぱり幼馴染だもんね。僕にもいれば良かったのに」
「大げさな」
「分かってない。分かってないよ、直樹君は。幼馴染の重要性が」
若干、怖くなってきた。尚も佐藤は語り続ける。
「何年ものの幼馴なの?」
ワインと同じ感覚なのか?
「何年ものって……覚えていないな」
「覚えていないくらい前なんだね! 小学校に入る前からなのか。どんなことをして遊んだのかな。僕だったら……」
ああ、もう止められない。
沙耶はいつ俺の所に来たんだろう。夢で見た俺と沙耶は恐らく、小学校に入る前だ。熱が出て心細かった俺に、沙耶は寄り添ってくれた。沙耶に聞くと、考えてみろと言う。含みのある言い方だ。
「青空の元、二人で走り回る。夕暮れに染まる公園で、ブランコで会話する。夢が膨らむなあ」
「そろそろ止めろよ。危ない奴に見えるから」
俺は佐藤を止めてやった。よだれを倒そうな勢いだった。
「ごめん、ごめん。ところで直樹君はどういったキャラが好きなの?」
「どうって?」
「ほら、おしとやかな図書委員とか、ツンツンしたクラス委員長、ボーイッシュな元気系な子とか」
「特にこれと言ったものは……」
「嘘はいけないよ。僕は大体の予想がついている」
佐藤はガッツポーズをして、勝ち誇っているようすだ。
「直樹君の好み。まず外見はやっぱり沙耶ちゃんみたいな感じかな。髪が長くて、清楚系な子だね。でも、沙耶ちゃんは勝気なところがあるでしょ。直樹君はもの静かな、少し天然が入った子が好みだね。分かる、分かるよー。けど、僕としてはツンツンした子の方が好みかな」
「お前、作家が向いているんじゃないか」
「え! そうかな」
佐藤の言っていることは図星だった。驚異的な観察眼だ。
「僕さ、直樹君からは感じるんだよ。同じ匂いがするんだ」
俺は自分の匂いを嗅いでみた。汗臭い。
「男臭いってことか」
「違うよ。アニメや漫画、ライトノベルが大好きでしょ! そして、妄想をして楽しむんだよね。僕だったらどうしようとか。何度かこの部屋に来て、僕は確信したんだよ。でも、ゲームはあまり持っていないみたいだね。」
あながち間違っていないから、言い返せない。
「妄想云々は置いておいて、確かにエンターテイメント作品は好きだよ。文学系もよく読むけれど」
「うん、うん。文学作品も捨てがたいよね。簡素な文体は僕の妄想力を駆り立てるよ」
どうしようもない奴だ。俺は文学だから漫画だからと差別する気はないが、佐藤の情熱にはついていけない部分がある。だが悪くない。久しぶりにクラスメイトと多く喋った。俺は笑っていた。
ふと俺の視界に何かがちらついた。開け放たれたままの扉に、沙耶がこっそりと入口から覗いる。
どこ辺りから盗み聞いていたのだろう。
「沙耶、そこで何をしているの」
「あ、えーっと、佐藤君。夕ご飯を食べていかない?」
沙耶はいたずらがばれた子供のように慌てて部屋に入ってきた。
「いいの! 可愛い子と一緒にご飯を食べられるなんて」
「うん。準備が出来たら呼ぶからね。それまで待っていて」
笑顔を振りまき、沙耶はいなくなった。
「沙耶ちゃん、やっぱり最高だね」
「あれで結構、言うこときついよ」
「ある種のマニアには人気が出るだろうね」
危ない奴だ。
一時間ほどして、沙耶が呼びにきた。俺の体調はかなり良くなっていた。問題なく食べられる。
食事は俺の家だった。やはり、千石さんの白い空間に連れて行くと、説明が面倒なのだろう。千石さんは料理だけを作り、隠れているらしかった。
「これ沙耶ちゃんが作ったの?」
「そ……そうよ」
視線が泳いでいた。
千石さんが用意してくれたのは肉じゃがとコロッケだった。沙耶も手伝ったのだろう。
「美味しいねー。可愛くて、料理が上手いとは……。いーなー、直樹君。沙耶ちゃんはどうしてこっちに戻って来たの?」
俺と沙耶は目を合わせた。アイコンタクト……意思疎通は出来たのか?
「あたしは親の転勤でこっちに戻って来たの」
無難な答え方だった。
「大変だね」
「大丈夫よ。こっちに戻ってきたかったし」
「……ほお」
佐藤は納得したように頷いた。
「恵まれているよ、直樹君」
涙ぐみながら、佐藤は俺の方に手を置いた。
「泣くなよ……」
「だって……これは感動的だろ。引き裂かれた二人が再会する」
そろそろうっとうしい。
「黙って食べろよ。口からこぼれるぞ」
終始そのようなテンションの佐藤は沙耶を崇め、沙耶もその度恥ずかしそうにうつむいて箸を止めるのだった。
「今日はありがとう!」
佐藤は満面の笑みで帰った。
「直樹も少しはましになったね」
「どういうこと?」
「引きこもりが、よ」
「そうかな」
沙耶は食器を洗っていた。ずいぶん手際が良いようだ。
「これ拭いて良いか?」
俺は沙耶の隣に立ち、食器かごに入った濡れた食器を拭き始めた。
「あ、ありがと」
おかしな沈黙が流れた。
あるのは食器の擦れる高い音と、蛇口から流れる水の音。
俺は戸惑った。間がもたなかった。罵倒でも何でも良いから言って欲しい。
「……沙耶」
「どうしたの?」
「喋って」
「いきなり何よ」
「だって……」
食器を洗う沙耶の横顔は髪が頬にかかり、耳たぶは薄く、まつ毛は長かった。ワンピースの襟からは鎖骨が覗いている。おのずと視線は下へと行き……。
「どこ見ているのよ」
気付かれた。沙耶はさっと胸の部分を隠した。
俺は手を止め、さぞかしあほな顔をしていたことだろう。
「見てないよ」
「見ていたくせに。早く拭いてよ」
沙耶は洗い終わり、手を拭いて冷蔵庫を開けた。
「食べ足りなかったのか?」
「デザートよ。一個しかないプリン。千石さんが作ったの」
「千石さんはそんなのも作れるのか」
沙耶はリビングにあるソファーに座った。向かいにはテレビがある。俺はすべて拭き終わり、沙耶の横に座った。
沙耶はテレビを付けた。
「千石さんとこのテレビの方が大きいだろ」
「気にしないで」
沙耶はプリンを食べている。口の端に欠片が付いていた。
「味どう?」
「甘くて、まろやか」
俺も食べてみたい。千石さんは俺の分を作ってくれなかったのか。
「風邪、平気?」
沙耶はテレビから目を離さずに言った。
「軽い頭痛と、ちょっと喉が痛いくらい」
「……そう」
沙耶は寡黙だった。
「沙耶、怒っている?」
「怒っていないよ」
「あまり喋らないけれど」
「……」
十二
「……」
ご飯を食べながら決めたことがある。あたしは直樹と一緒に出かけようと思う。佐藤君を誘おうか迷ったが止めた。あたしはやはり直樹と二人が良かった。
「ごめん。見ていました」
直樹は頭を下げた。
知っている。さほど気にしていない。けれど、ただ許してやるのはつまらない。そうだ、直樹のお金で買い物をしよう。
「じゃあさ、買い物に付き合ってよ」
言ってしまった。あたしは、言ってしまった。直樹が誘ってくれれば良かったのに。
「買い物? 欲しい物があるのか?」
「今から考える」
「お金は?」
「無い」
あたしは内心喜んでいたが、表に出さないよう努めた。子供っぽいとは思われたくない。
「ウインドーショッピングか」
直樹は一人納得している。
何だかむかむかした。
「お金は直樹が払ってくれれば良いじゃない」
「無いんだって」
千石さんに言いつけてやろう。
「千石さーん。直樹があたしの胸をー」
「待て、待て、待て」
直樹はあたしの口を押えた。手は大きくて、きめが粗かった。
「分かったから、止めてくれ。お金は何とかするから」
「盗みはだめだからね」
口にはしてみたが、直樹はしないことを分かっていた。基本的に人に迷惑をかけるようなことはしない。
「するわけないだろ。正規の方法が無いわけじゃない。それよりどこに行くつもりだ?」
「適当にどこか。街っぽいところ」
この住宅街からはそう遠くなく繁華街があったはずだ。
「じゃあ、今度の日曜日に行くよ」
あたしは席を立った。
「どこ行くんだよ」
「お風呂。覗かないでよ」
「千石さん、今度の日曜に直樹と出かけてきます」
千石さんは饅頭を食べていた。
「おや、デートか」
「え、いや、ははは」
他人から言われると恥ずかしいものだ。
「水を差すようで悪いが、時間的にその日が最後だろうね」
あたしも覚悟をしていた。
二人で出かけられるならば、あたしのことを思い出してくれなくても良いや。
「分かっています。千石さん、それまで料理を教えてくださいね」
「ああ。明日こそ、浅間君の弁当を作ろうね」
「はい!」
頑張ろう。
「お友達は帰ったんだね。ずいぶん賑やかだった。私も混ざりたかったよ」
千石さんは微笑みながら言った。
「ごめんなさい」
「気にしないでくれ」
千石さんはもう一個饅頭を出した。
「食べるかね? 苺が入っているんだ」
「食べます!」
あたしは緑茶も貰った。千石さんが食べていた物は苺大福だったのだ。甘いアンコの中に、甘酸っぱい苺があった。
「千石さーん」
直樹が千石さんの空間へ入ってきた。
「あ! 沙耶風呂に入るって言ったろ。しかも、口の周りに粉を付けて……。何を食べているんだ?」
「う、うるさいよ」
あたしは口を拭った。恥ずかしい所を見られた。
「浅間君も食べるかい?」
千石さんは直樹の分も出した。昨日今日で知ったことだが、千石さんは一人でいるとき、緑茶とお茶菓子で過ごしているようだ。太りそうだ。
「いただきます」
直樹は緑茶と共に食べ始めた。
あたしはお風呂へと向かった。
十三
千石さんに貰った苺大福は甘すぎず、食べやすかった。
沙耶は風呂へ行った。千石さんに相談があったので丁度良かった。
「千石さん、お願いがあるのですが……」
「何かね?」
「沙耶と出かけることになったのですが、金が無いのですよ」
「私はお金について協力出来ないよ」
千石さんはすまなそうだった。
「あ、違います。俺は一か月の昼食代を貰っているので、それを使います。ですが、それだけでは心もと無いので、何冊か本を売りに行きたいのです。重いので、運ぶのを手伝ってもらえませんか?」
千石さんの能力で運んで貰いたかった。
「それなら出来るよ。私が近くまで繋げれば良いんだね」
「はい、よろしくお願いします。話は変わりますが、沙耶の通り道はどうですか?」
千石さんは微笑んだ。
「もう少しかかりそうだ。だが、心配したほど影響は無い。気にしなくていいよ」
やはり、沙耶は帰るのだろう。
俺は自室に戻り、沙耶とどこに行くかを考えながら、売りに出す本を選び始めた。埃にまみれているので咳き込んだ。沙耶の読みそうな本を予測し、それは売らないでおく。沙耶が帰るとき、持たせてやろうか。
まとめ終わると、段ボール三箱分になった。それでも、部屋にはまだまだ残っている。その内整理しなければ。
翌日、沙耶は俺に弁当を作ったらしい。
「はい、これ。ちゃんと残さず食べてよ」
沙耶は俺に弁当を押し付けるようにして渡した。オレンジ色のランチクロスに包まれ、出来たばかりなのか、底が暖かい。
「一人で作ったのか?」
「当たり前でしょ」
目をそらした。
俺は体を動かし、無理やり視線を合わせた。
「疑ってるんでしょ!」
「料理初めてまだ二、三日だろ」
「直樹とは違うの。毎日料理番組を見ながらイメージトレーニングしたんだから。エアー料理もしたから、経験も十分ある! ささっとしまいなさい!」
沙耶は俺の手から弁当を取り上げ、通学に使っているリュックに入れた。
「乱暴に扱ったら中身が大変なことになるだろ」
「うるさい! 黙って受け取らないのが悪いんでしょ。ほら! 学校に遅れるよ。あたし、これから料理の練習をするからついてかないよ」
俺は背中を押され、家から追い出されるようにして送り出された。
「あのさ……」
急にしおらしくなり、沙耶は下を向いた。手を前で組み、擦り合わせている。
「迎えに行っても、いいかな?」
顔を若干あげ、視線を上げる。上目使い。俺は顔を背けた。
断れるわけがない。
「いいけど、校門前だと目立つから少し手前で待ってて」
「目立つって……あたし変なの?」
沙耶は眼前に迫った。
「制服着ている生徒が多くいる中で、白い服を着た子がいると目立つだろ」
「だって、服これしか持ってないし」
あからさまに沙耶は落ち込んだ。
これでは俺がいじめたようではないか。佐藤が見ていたら怒り出しそうだ。いや、むしろ喜ぶかもしれない。
「悪かったよ。気にしないから、校門の前で待っていてくれ。あと、出かけるときに服を買ってやるよ。あまり高いのは無理だけどな」
沙耶の顔にさっと笑みが広まった。体が熱くなるのを感じた。
「えへへ、高いの頼もう」
可愛らしい姿で、なんと恐ろしいことを言うのだ。
「控えめな価格にしてくれ。じゃあ、行ってくるから」
「いってらっしゃい」
俺が出ていくと、沙耶はずっとこちらを見ていた。
「直樹君、おはよう」
学校に着き、席に着くなり佐藤が寄ってきた。
「あまり近寄るな。変な噂が流れるから」
「僕は気にしないよ」
佐藤は最高の笑顔だった。
「俺は嫌だから。沙耶にも疑われるし」
「沙耶ちゃんが! 僕のことを考えてくれるのかー」
「違うと思うぞ」
佐藤は妄想の世界に行ってしまった。とりあえず、周りに好奇の視線を集めたくは無かったので、腹部に打撃を加えておいた。
「ぐお! 中々やるね、直樹君」
そうだ。佐藤を今度の日曜日に連れて行こうか。
「なあ、佐藤。日曜は暇か?」
「どうして?」
「沙耶が出かけようって言うんだ」
「うーん、止めておくよ。僕もそこまで空気を読めないわけじゃない。直樹君、僕の分まで沙耶ちゃんの姿を拝んできてよ」
予想外な反応だった。佐藤なら、喜んでついてきそうなのに。
「沙耶ちゃんが誘ったんだから、僕は邪魔だろう。それに、僕も予定があるんだ」
佐藤は最後にそう言い残して席に戻った。
お昼。佐藤はいつも通りに、頼みもしないのにやって来た。
「おや、おや。直樹君には珍しいものを持っているね」
弁当を出すと、佐藤はまじまじと観察を始めた。
「沙耶が作ってくれた」
「女の子の手作りお弁当。お金に換えられない価値があるね。僕はゲームの中でしか知らないよ」
「佐藤。お前の持ってくる弁当は?」
「自家製」
「自分でか?」
「そうだよ。冷蔵庫にある冷凍食品を詰め込むだけだけど」
意外にもしっかりしていることに驚いた。
「節約をするためにね。ゲームを買ったりしたいし」
「なるほどね」
沙耶が作った? 弁当の包みをほどいた。
弁当は二段組みで、上段がご飯。下段がチャーハンだった。これは一体どういうことなのだ。説明を願いたい。
「斬新だね。僕も真似しようかな」
佐藤も箸を咥えたまま唖然としている。
「主食はご飯。おかずはチャーハン。なるほど、ここには既存の料理概念にとらわれない自由な発想があるね。さすが沙耶ちゃん。ただものじゃない」
俺は佐藤が実は頭が良いのではないのかと思った。よくもすらすらと言葉がでてくるものだ。観察眼も調子が良いらしい。沙耶をただものじゃないことを見抜いている。
「佐藤、この前のテストはどうだった?」
「いきなりどうしたんだい? まあ、いいけど僕は後ろから数えたほうが早いよ」
頭の良さと、勉強が出来ることとは別か。
「問題は味だよ。食べて美味しかったら僕にも分けてよ」
俺は箸を持ち、一種類だけのおかずを口に運んだ。
うまい。
ご飯はぱらぱらとしていて、塩コショウの加減が絶妙だ。具はグリンピースと刻んだチャーシュ、卵だった。欲を言えば箸ではなく、スプーンにしてくれれば食べやすかった。
「どう?」
佐藤は血走っている。
「やるのがもったいない」
「いいじゃない。少しちょうだい。女の子成分を僕に分けてくれよ。沙耶ちゃんの細い指先で作られた、財宝に等しいチャーハンを僕に!」
佐藤は気持ち悪かった。
俺は素早く胃の中に放り込んだ。喉に詰まって、水! 水! と言うものか。
「あ、ああー。女の子成分、むしろ女の子が直樹君に食べられた!」
勘違いをされるようなことを、佐藤は情けない声で叫んだ。
「おい、口を閉じろ。周りに聞こえるだろ。お前も昨日食べたろうが」
厳密には違うけど。
「悔しい……」
「だから本気で泣くなよ」
「明日、どうか明日。僕にもおくれよ」
可哀そうになってきた。
「分かったから、落ち着け」
「忘れないでよ」
弁当には白いご飯だけが残った。俺は味気ない思いをしたが、チャーハンが予想を上回っていたので良しとした。
「直樹君、沙耶ちゃん学校はどうするの?」
全く考えていない。唐突な質問に俺は戸惑った。
「……さあ。どうするんだろう」
「もしかして、この学校に転校したり」
しないだろう。沙耶は帰らなければならない。
「あー、聞いてないな。違う学校じゃないか」
「そうなのか。残念」
どうにか回避したようだ。
「沙耶ちゃん、放課後に来る?」
「来るって言っていたけれど」
「放課後デート……。すごく美味しそう」
何味なのだ。
「別にデートじゃないだろ」
「いいんだよ。僕にしてみればデート」
佐藤は最後の冷凍から揚げを口に放り込んだ。
「女の子と一緒にいる時間は、この最後のから揚げのように、ゆっくりと味わいつくさないといけない」
目を瞑り、盛大に咀嚼し始めた。
「口からはみ出ているぞ」
「気にする必要はないさ」
俺の机を汚すなという意味だ。
「俺はそういうわけだから、放課後すぐに帰るから。沙耶を待たせると、すごい怒るんだよ」
「僕は一人、寂しく帰るよ」
佐藤はふざけてだろうが、遠くをみるように寂しげな表情をした。
「……やっぱり、一人は寂しいか?」
沙耶の顔が思い浮かんだ。
「誰だって、そうじゃないか」
俺は昔を思い返した。一人、ご飯を食べて眠る。寂しいのだ。
古びた感情がゆっくりと浮かんできた。冷たい買った弁当の味。部屋に響くテレビの音。布団の冷たさ。だが、俺はその記憶の中に相反するものを見つけた。誰かと遊んだ記憶。同じ年だろう女の子。
はっとした。霧が晴れたようだ。やはり、沙耶はこの世界にいたことがある。俺はそれを忘れていた。
「直樹君? 急に達観した顔になったね。悟りでも開けた? ちなみに、僕は煩悩にまみれて生きていくよ。女の子を愛でなければいけない」
「お前の人生観なんか聞いてないから」
佐藤は弁当を片付け始めた。
外を眺めた。雨は降る気配が無かった。これで沙耶が先に帰ってしまっても、ずぶ濡れになることはなさそうだ。
授業が終了すると、すぐに校門前へと行った。
沙耶は空を見上げながら、小枝をぷらぷらさせていた。
「直樹、遅いよ」
「さっき終わったばかりだよ」
「途中で抜けてきてよ」
「無理を言うな。沙耶はどれくらい前に着いたんだ?」
「十分ぐらい前かな」
「だったら、そんな待たせてないだろ」
俺と沙耶は歩き始めた。沙耶は手に持った小枝で俺の背中を突いた。
「痛いよ」
「気にしないで」
「無理だ」
沙耶は小枝を捨てた。
沙耶の髪は歩くたびに揺れる。黒髪は暮れかかった夕日を反射し、黄金色に輝いていた。
「お弁当、どうだった?」
「組み合わせがどうかと思ったが、味は良かったよ」
沙耶はくるりと回った。
「そうでしょ。千石さんに教わったんだから」
「あれって、チャーハンがおかずなのか?」
「ご想像にお任せします」
俺は考えても理解しがたいので諦めた。
「直樹、お金は持っている?」
「日曜日のことなら大丈夫だ」
「そのことじゃなく、今持っているかってこと」
「少しならある」
沙耶は嬉しそうに顔を上げた。
「途中にコンビニあるでしょ」
「あるな」
俺はそのコンビニで、よく昼食を買っていた。沙耶が帰ってしまったら、またコンビニで買ったものになるのだろう。
「何か買ってよ」
「帰ったら、千石さんにおやつを出してもらえばいいだろ」
「やだ、直樹に買って欲しい。お弁当のお礼」
駄々をこねる子供のようだった。
「ほら、あそこ!」
沙耶は走り出した。コンビニへ向かい、俺を待たずに入った。しぶしぶついていくと、沙耶はアイスコーナーを凝視していた。
「まだ、時期的に早くないか」
「食べたいから、時期は関係ないよ」
沙耶はソーダ味の棒アイスを選んだ。俺も同じのを買った。コンビニを出ると、沙耶はすぐに袋を開け、じっと見つめ、おもむろに舌先で舐めた。
「アイスって、なぜこんなに冷たいのかしら」
沙耶は無謀にも一気に口の中へと差し入れた。
「あまり見栄えのいい食い方じゃないな」
沙耶の片方の頬は膨らみ、解けだしたアイスが顎を伝った。
「こうすると、口全体に味が広がる……」
目を瞑りアイスの味に浸る沙耶は無防備だった。
鼓動が早まった。俺はアイスの冷たさが歯に伝わるのも忘れながら咥えていた。
「頭……痛い。やっぱり、アイスの醍醐味はこれよね」
苦痛の表情を浮かべながら沙耶は喜んでいる。
沙耶の顔を見ていると俺は昼休みのことを思い出した。
「沙耶、昼休みに思い出したんだけど」
「んー、なーにー」
「やっぱり、沙耶と前に直接会ったことあるよな」
二人とも立ち止まった。
「全部、思い出したの?」
沙耶は口からアイスを出した。
「全部ではない。けど、遊んだこととかは思い出した」
「遅いよ。会った瞬間に思い出しなさい」
「悪かった」
「それだから、成績が伸びないんだよ」
「関係ないだろ」
「あるよ、絶対にある」
沙耶は俺の前に回り込んだ。
「もしさ、あたしが帰ることになったら……」
迷っているようだった。沙耶は俺の制服の裾をつかんだ。
「直樹がいつも言ってくれた言葉、また聞かせてよね」
言葉? 俺は思い出せなかった。
「あれ、その顔は忘れているでしょ」
「……」
「あたしが帰るときには、ちゃんと言えるようにしておいてよね」
沙耶は俺の脇腹をつねった。
「痛いから」
「直樹が悪いの」
沙耶は軽快に歩き出した。
俺は胸にはっきりとしない、黒い塊が残った。浮かんできそうで、浮かんでこない。酷くもどかしい。沙耶が帰ってしまうこともあって、落ち着かない気持ちになった。もっと、沙耶の笑っている顔を見ていたいと思った。
家に着くと、沙耶は自室で漫画を読み始めた。
「千石さん、今から連れて行ってもらって良いでしょうか」
「かまわないよ」
「沙耶には黙っていて下さい。気にされても困りますし」
「了解した」
千石さんを俺の部屋に連れて行った。ここから古本屋の近くに繋いでもらうのだ。
「あまり目立ちたくないから、少し離れた所にするよ」
千石さんは段ボールに手を触れた。
「入口を作らないで、直接運ぶからね」
「お願いします」
すると、急に視界が暗くなった。黒い布を顔に巻かれたようだった。水の中に漂っているようで、冷たい感覚が体中を包んだ。
何時間も漂っている気がしたが、気付くと俺は薄暗い路地裏に立っていた。
「着いたよ。ここは裏手のようだ」
向こうには何台もの車が行き交う車道があった。
「何分くらいで来たんでしょうか」
「三十秒もかかっていないはずだよ」
千石さんは流れるような動作で、段ボールの一つを持った。
「すいません。……時間あまりかかってないんですね。俺は長い時間漂っている気がしました」
「間違ってはいないよ。時間の流れ方が特殊なのだ。だから、感覚が狂ってしまったのだろう」
距離はあまりないが、量が量なので運ぶのには苦労した。査定には時間がかかり、沙耶は大人しくしているだろうかと考えつつ、立ち読みをする。空腹で暴れて化ければいいが。
「どのくらいになったかね?」
査定が終わり、また不可思議な体験をした後、千石さんは尋ねた。
「九千円とちょっとです」
まあまあか。
「二人でどうしたの?」
沙耶がちょうど入ってきた。漫画本を両手いっぱいに抱えている。
「部屋をもっと広く出来ないかと思って」
「本棚を出してもらえば?」
沙耶はさほど気に留めてないようだ。
「それより、この漫画の新刊いつ出るの?」
「来月のはずだよ」
「あーあ、そうなんだ」
沙耶は肩を落とした。悲しそうな表情をしたのは、ここにそれまでいられないと思っているからだろうか。
十四
直樹と出かける三日前、世間的には木曜日らしい。
あたしは直樹のお弁当を作っている。
「チャーハンとご飯の組み合わせは昨日やったから、どうしようかな」
あたしは迷っていた。バリエーションが少ないのだ。
「卵焼きを作ってみるかい?」
千石さんの手には卵十二個パックがあった。
「はい!」
卵焼きは難しい。千石さんが丁寧に教えてくれたが、少し焦がしてしまった。香ばしくなって風味が良くなったと納得した。
あたしは下段に卵焼きを詰めた。また、おかずが一品になってしまった。
千石さんは苦笑いをしながら言った。
「大事なのは心だよ」
直樹が学校に行った後、あたしは直樹の部屋を片付けておくことにした。
千石さんに本棚を頼んだ。
千石さんの能力はすごいけれど、あたしは便利屋さんみたいに頼みごとをしている。これは良いのかな。いつも笑って手伝ってくれるので、ついつい甘えてしまう。
「瓦礫みたいね」
あたしは手始めに本を整えた。埃が覆い被さり、移動させる度に舞っていた。本は小説よりも、漫画が多い。巻数がばらばらで、同じシリーズを探すのに苦労した。
午前中はそれで終わってしまい、お昼ご飯を食べた。天ぷらうどんだった。
「こんなもんかな」
本棚にすべてをしまい、掃除機をかけると三時を過ぎていた。もうずっとこうやって過ごせれば良いのに。
あたしは直樹のベッドに寝転んだ。直樹の匂いがした。眠気に襲われて、あたしはいつの間にか眠っていた。
「沙耶、何で俺のベッドで眠っているんだ」
あたしは肩を揺すられた。暖かい手だった。
「疲れたんだもん。いいじゃん」
「ああ、片付けてくれたんだ。ありがと」
何時だろうか。千石さんは、もう夕ご飯を作ってしまったかもしれない。悪いことをしたな。
頭に手が乗せられた。その手はあたしの頭をなで始めた。
「勝手に触らないでよ」
あたしは恥ずかしくて顔を上げられなかった。
「お礼だから」
「お礼がなでるだけ?」
「日曜に色々買ってやるから。ご飯だってよ」
直樹は部屋を出て行った。名残惜しかった。
「ごはんー、ごはんー」
あたしの残り少ない日数は淡々と過ぎて行った。いざ、帰るときが近づくとまるで嘘のような気がした。千石さんと直樹がいる世界は素晴らしかった。
出かける日の前日。あたしは眠れなかった。
眠れずに部屋から出ると千石さんは本を読んでいた。
「眠れないんだね」
「はい、緊張しちゃって」
「ホットミルクを上げよう」
あたしは湯気を立てるマグカップを手に取った。体の芯までじんわりと暖かさが広まった。
「明日、帰るんですよね」
「すまない。抑え込むのも限界なのだ」
「千石さんが悪いわけじゃありません。むしろ、わがままに付き合ってもらった感謝をしなければなりません」
「いいのだよ。私も楽しかった」
千石さんは微笑んだ。
明日は楽しもう。直樹にも笑っていて欲しい。
あたしは佐藤君の言っていたことを思い返した。
「千石さん、あたしのことどう思います?」
「どうとは?」
「性格とか、女の子としてどんな感じとか……」
「可愛い子だと思うよ」
あたしは単純な言葉に弱いらしい。何度言われても恥ずかしく感じそうだった。
「一緒にいた期間は短いけれどね、君の優しさは伝わってきたよ」
「でも、あたし乱暴なこととかしちゃうし」
「照れ隠しだろう? 直樹君も分かっていてくれるさ」
目頭が熱くなり、鼻がつんとした。
お父さんがいたらこんな感じなのかな。
あたしは部屋に戻った。
ベッドに潜り込み、次第にまどろんでいった。
十五
早朝、沙耶は俺の部屋に入るなり叫んだ。
「さあ! 起きなさい。行くわよ、直樹」
俺は布団をはがされた。六月といっても、一気に温度を奪い取られれば寒かった。
「何時だと思っているんだ」
「五時?」
いくらなんでも無理がある。俺は朝には弱いのだ。
「落ち着け、沙耶。基本的にどこの店も十時ぐらいしか開かない。今から行ってもコンビニか、ファミレスぐらいしか入る所が無い」
「いいじゃん、いいじゃん。予定とか立てようよ」
体を揺すられ続ける。沙耶は一歩も引く気がないらしい。
「とにかく座れ」
沙耶をベッドに横に座らせると、やっと落ち着きを取り戻し始めた。
「初めはどこ行こうか」
そわそわと体を動かすたび、ベッドが軋んだ。俺はその微振動で余計に眠くなる。
「ここから二十分もあるけば、色々店ある所に行けるから、九時半ごろに出るか。それまで、眠ってていいか?」
「やだ。まだ何も決まっていない」
「とりあえず、靴を買うか。俺のスニーカじゃ嫌だろう」
「嫌じゃないけど……」
「女の子っぽい靴、要らないのか」
「欲しいかも」
「まず、靴屋を探そう」
「服欲しい」
「そうだな、服屋。昼飯はどこか、外食をしよう」
「荷物は全部直樹が持ってよ」
この時、俺は寝ぼけて聞いていなかった。
「うん、うん」
何も考えずに返事をした。
「映画、見たいんだよね」
「何か見たいものがあるの?」
沙耶は漫画を掲げた。
「この漫画は、今映画化されているの!」
テンションがおかしくなっている。
「複合型映画館があるはずだ」
去年出来たばかりだ。日曜だから人が沢山いるけれど。
「人、一杯いるだろうけれど、逃げないでよ」
「逃げないよ」
俺の意識はそこで途切れた。
次に目覚めたのは八時だった。
「ご飯、ご飯、ご飯。早く食べて行くぞー!」
「分かったから、俺の上からどけ」
沙耶は俺をベンチか何かと勘違いしているようで、座ったまま動かない。
「起きないじゃん」
「起きれないんだよ」
リビングに向かうと、千石さんは珍しくコーヒを飲んでいた。
「おはようございます」
「やあ、おはよう」
千石さんは疲れているように見えた。薄らと目元にくまがある。
「本を読んでいたらね、途中で止められなかったんだよ。ついつい眠るのを忘れてしまった」
「ありますよね。俺もたまにやります」
朝食は珍しくパンだった。ジャムが数種類置いてある。
「私はこれから出かけなければならない。すまないが、あとは好きに食べてくれ」
千石さんは体を引きずるようにして立ち上がった。
「浅間君、沙耶君、気を付けて行ってくるんだよ。あと、あまり遅くならないように」
「分かりました。千石さんも気を付けて」
「ああ」
千石さんは一瞬、深刻な顔をして消えた。煙が風に吹かれるようだった。
「手品みたいだな」
「……そうね」
沙耶も浮かない表情だ。
「どうした?」
「何でもないよ。それより早く食べなさい!」
沙耶はトーストにマーマレードを塗り、俺の口に突っ込んだ。
「むひにむっこむなお」
「何を言っているの?」
俺は必死に飲み込んだ。
「無理に突っ込むなよ」
沙耶は喜んでいるようだ。
一通り食べ終わった後、俺と沙耶は家を出た。
学校以外で外に出たのは久しぶりだ。幸いなことに雲一つない快晴だった。
「さあ、行こう」
沙耶は小さく弾みながら歩き始めた。
「転ぶぞ」
街につくまで何故か小走りだった。
「靴って、どんなの欲しいとかあるか?」
「あそこに入ってみよ」
沙耶が指さした店は、俺が一生の内で入らないような輝かしき人々で賑わっていた。きっと、俺は本代の半分も使えばオシャレな人々の仲間になれることだろう。
「俺は助言出来ないからな」
「期待してないよ。でも感想ぐらいは言いなさい」
店内は皮の匂いがした。
沙耶は目を輝かせ、まるで遊園地に行った子どものようだ。
「どういうのがいいんだろう」
「店員さんに聞いてみれば?」
「え、恥ずかしい。直樹が聞いてよ」
「俺が買うんじゃないだろ」
すると、俺たちのやりとりを聞いていたのか、爽やかな店員さんが声をかけてくれた。
「どうされましたか?」
沙耶はしどろもどろだが、どうにか要求を伝えた。
「普段はどういった物をお履きになりますか?」
「普段?」
沙耶はスニーカ以外、確か素足だったはずだ。
「あ、あの普段そういうの気にしない奴なんです」
俺は沙耶が戸惑っているようなので口をはさんだ。
「あら? そうなの。えーっと、お兄さん?」
沙耶の顔がみるみる赤くなる。
「いえ、その……」
何と言ったものか。
「あら、ごめんなさい。彼氏さんね」
沙耶は穴があったら入りたいようだ。
「この子に合う物を、選んでもらえますか?」
沙耶は自分で選んだら、一日中迷っていそうなので店員さんに任せた。
その間、店内をぶらつきながら俺も靴を変えたほうがいいかな、などと考えた。足元を見ると、成長期にもかかわらず二年前からサイズの変わらない足があった。合わせて、興味の無いこともあって、俺は長らく靴を変えていなかった。
「ま、その内だな」
沙耶は三十分ほどで戻って来た。
「とてもお似合いですよ」
店員さんはそう言った。
沙耶は女の子的な女の子の履く女の子のための靴を履いていた。俺は詳しく知らないので、どこのブランドなのか分からないが、値段を聞いて愕然とした。
靴とはこんなに高いのか。俺は安売りされている靴しか買ったことがないので、驚きを隠せない。
しかし、沙耶は気に入ったようだ。値段のことで断念させるのは可哀そうなので、そのまま買う。
履いてきたスニーカは袋を貰って、なぜか俺が持つことに。
「荷物は全部持ってくれるって言ったじゃん」
だそうだ。俺は言ったらしい。
「ほら、感想」
オシャレは足元から。誰かが言っていた。やはり靴を変えるだけで、大分印象が違う。
「良いんじゃないか」
俺のボキャブラリーは貧弱だった。
「本を読んでいるのか、怪しくなる答え方ね」
不満そうだった。
「服にはちゃんとした感想を言ってよね」
沙耶は走り回った。ウインドーに綺麗な服が飾られていると、吸い寄せられるように近付いた。
こうして見ていると、やはり年相応の女の子だと改めて意識する。本来ならば、俺と同じように学校に行っていてもおかしくないのだ。授業を受けて、昼休みは友達とご飯を食べる。放課後は部活をしたり、買い食いをしたり。
「直樹、ここにしよ」
ひらひらとした、レースやフリルをあしらった服が多くあった。
「服ってこんなに種類があるんだね」
「だな。やっぱり、靴と同じように店員さんを呼ぼう」
店内は女性客が大半を占めており、俺は肩身が狭い。何人かカップルもいるが、皆仲睦まじいようで何よりだ。
「すみませーん」
沙耶は俺を放置して店員さんを探しに行った。
さて、どうしよう。これでは女装に興味があるようではないか。断じて女装をしようと思わない。佐藤ならやっていても自然だ。顔の作りは重要である。逆ならば? 女性が男装をする。顔の作りに関係なく、美形になるのではないか?
俺の思考は膨らんでいった。
俺がここで女装用の服を買って着ていたならば、沙耶はどういった反応をするだろうか。……やめよう、気持ち悪い。俺の顔を思い出せ! ただ佐藤の女装は見てみたい気がする。
「直樹、大丈夫?」
俺はマネキンを見つめていた。
「ああ、沙耶。決まったのか?」
「違う。どういう系の色が好きか聞きに来たの」
「沙耶の好きな色にすればいいだろ」
「いいから、言いなさい!」
沙耶が迫ってきた。
「水色とか、白とか淡い色合いが好きだな」
そう、俺は漫画に出てくる清楚系キャラが着ている淡くふわりとした服装が好きだった。
「あたしのワンピースとあまり変わらないね。……もっと柔らかそうなのもあったか。あまり変な顔で待っていないでよ。恥ずかしいから」
沙耶は店員さんの元に戻った。
外見は佐藤の言う通り、俺は沙耶が好みだった。少々がさつな面があるため手放しで喜べないが。しかし、沙耶と過ごすのも悪くない。
俺は昔のことを思い返し、どんどん記憶が鮮明になっていた。沙耶は気が付くと隣にいたのだ。テレビを見ているとき。ご飯を食べているとき。散歩をしているとき。沙耶は俺の手を引き、何度も外へ連れ出してくれた。
沙耶を帰してしまって良いのか? 沙耶は俺を連れ出してくれた。俺も沙耶を寂しいあの世界から出してやるべきではないか。
沙耶、戻りたくはないだろう?
「ほら、見てよ」
選び終わったようだ。
沙耶は白のロングスカートと、水色のブラウスを着ていた。どちらもひらひらとして、なんて女の子らしいのだ。
「何か言ってよ」
その姿は一言で言うとお嬢様が似合いそうだ。幼さを残し、清楚な感じが前面に押し出されている。
「似合っているよ」
「あら、無難な言葉をありがとう」
沙耶は鏡の前でくるりと回った。
「これにしようかな?」
値段は……しかたがない。きっと、女の子はお金がかかるのだろう。
「お金、足りる?」
「うん……まあ」
値札を取ってもらい、沙耶はそのまま着て行くことにした。
人込みを歩く沙耶は、一足先に夏の風が吹き抜けたようだった。
「次、次はどこに行く?」
沙耶は服を見せびらかすように走り回り、俺はついて行くのに苦労した。
「あ、これで妹に見られないでしょう」
気にしていたのか。
「振る舞いは子どもっぽいけどな」
沙耶は俺の脛を蹴った。
「どうせもっと大人しい子が好きなんでしょ」
「……悪かったよ。冗談だから」
「信じられない」
「ほら、照れ隠しで」
俺は何を言っているのだ。
「そうやって、喜んでいる沙耶が可愛かったから」
「人前で恥ずかしいことを言わないでよ」
沙耶はさっと前を向いた。
俺は横に並び歩き出す。
「ほら、ご飯を食べに行こう」
「少し早くないか」
「映画終わってからじゃ、遅くなるでしょ」
「それもそうか」
十六
あたしはファミレスでパスタを食べ、食後にケーキを頼んだ。
「映画館って、どこにあるの?」
直樹はコーラを飲んでいた。特別に許可した。
「ここから見えるよ」
直樹は横にある窓を指さした。大きな四角い建物が少し遠くにあった。
「どれくらい歩くの?」
「十分ぐらい」
あたしはケーキに乗っている苺を食べた。大福の苺とはまた違って、クリームが付いていて美味しかった。
「映画館だけであんなに大きいの?」
「映画館の他に、色々店が入っているんだよ」
「へー」
映画館は広大だった。
初めてエレベータに乗り、あれは酷く怖いものだと知った。体がふわりと浮いた感覚がいつまでもとれない。
「学生二枚」
直樹はチケットを買うときそう言った。
あたしは学生? 同じ年なんだから、学校に通っていてもおかしくはないんだろうけれど。
「食べすぎて気持ち悪いのか?」
直樹は心配してくれて言ったんだろうが、あたしは食いしん坊な子ではない。と、信じたい。
「あたし、学生じゃないよ」
「いいだろ」
直樹はそれっきり、何も言わなかった。
映画は高校生の男女が主人公だった。学校で行われるような、体育祭だとか文化祭とかのシーンが流れる。沢山の生徒が楽しそうに笑い合っている。日常の何気ないシーンもあたしには未知の光景だった。
あたしは直樹との日々に思いを馳せた。雨の日にも思ったけれど、どうしようもないのだろう。
やっぱり、いいな。
直樹は積極的に学校生活を楽しむ子ではないけれど、それでも一緒にいられるだけで、あたしは良かった。一人でテレビを見ているのは退屈だ。
「俺と一緒に居てくれよ!」
「……うん」
あたしが漫画を真似して一人で演じたシーンだ。
もう終わりが近い。あたしは漫画を読んでいるので、先の展開を知っている。このまま二人は結ばれるのだ。
二人の顔はゆっくり近づき、唇が触れ合った。
あたしは気恥ずかしくなって、そっと直樹を盗み見た。眠っていた。
これはチャンス。
直樹の手と、あたしの手を重ねた。手の甲がごつごつしてた。
鼓動が早まる。
ずっとこのままでいたかった。
あたし達は映画が終わると何の気なしにぶらぶらした。
「直樹、眠っていて全部見てなかったでしょ」
結局最後まで起きなかった。そのおかげで、あたしは直樹と手を繋いでいられたんだけど。
「見てたよ」
嘘だとばればれだ。
「あれ、沙耶ちゃん」
後ろから声をかけられた。佐藤君だった。
「あの白いワンピースも良かったけど、その服も可愛いね」
佐藤君は素直に褒めてくれる。だから、あたしはいつも照れてしまう。
「直樹に買ってもらったんだー」
あたしはそのことが嬉しかった。
「直樹君が……」
「俺が買ったら悪いのかよ」
「いやいや」
佐藤君はにやにやしている。
「お前こそ、何しに来たんだよ」
「僕はゲームやら何やらを買いに。終わったら直樹君にも貸してあげる」
女の子が一杯出てくるゲームかな。直樹は普段やらないはずだけど。
「遠慮する」
やっぱり直樹は断った。
「直樹君は好きだと思ったのに……。そろそろ僕は行くよ。邪魔しちゃ悪いし」
佐藤君はスキップをしながら人込みの中に消えた。
「なおきー。女の子は嫌いなの?」
「なんだよ、いきなり」
「だって、佐藤君が貸してくれるゲームは女の子が一杯出てくるやつでしょ」
「虚しくなるからだよ」
直樹は顔を赤くしながら言った。
可愛いな。
「ああいうのは対外、主人公と仲良くなるんだよ」
「当たり前でしょ。主人公と仲良くならなかったら、ゲームが始まらないじゃん」
「俺はあまり主人公に感情投入出来ないから、いつも一人でいるような感覚なんだ。確かに、ヒロインに憧れることはあるけど、これは作り物なんだよなーって思うから、すぐに現実に引き戻される。だから虚しくなるの」
直樹は少し寂しそうだ。仮想現実にこもってばかりでも困るけれど、それはそれで可哀そうだった。
もしかしたら、直樹があたしのことを忘れてしまったのも、それが原因なのかもしれない。
あたしは、直樹の空想が独り歩きして、勝手に独立して気が付いたらこちらの世界にいた。でも、直樹が妙に現実的に成長してしまい、あたしの存在が追いやられた。
「これからどうする?」
あたしはまだ帰りたくなかった。
「もう少し歩こうよ」
適当にぶらぶらした。
ソフトクリームを食べたり、出来立てメロンパンを食べたり、シュークリームを食べたり。食べてばかりだ。やっぱり、あたしは食いしん坊?
途中、直樹はトイレを探してどこかへ行ってしまった。あたしは、近くにあったベンチに座り、行き交う人々を眺めた。色んな人がいた。髪の長い人、短い人。若い人、老いた人。スーツを着て忙しげに走っていたり、携帯電話を使い通話をしたり。カップルが密着して前を通ったり。
みんな、みんな、誰かと係り合って生きている。あたしも間接的だけど、直樹と繋がっていた。千石さんとも知り合えた。あたしは一人じゃない。たとえ、あの世界に帰っても直樹の夢を見れる。
本当に?
あたしが向こうに戻って、もしかして直樹が忘れてしまったらどうなるんだろう。夢も見られなくなるのかな。一人、完全に一人で生きる。
気が狂いそうだ。悲しくなってくる。この時が終わってしまえば、あたしはもう、さよならだ。
「ごめん、中々見つからなくて」
直樹が戻って来た。
「遅いよ」
あたしは自分を納得させようとした。
直樹はきっと大丈夫。佐藤君と少しは仲良くなってくれたはず。これから、もっと人と関わり合いを持ってくれるはずだ。
「もう帰ろうか」
日が傾き始めていた。
「あと、あとちょっとだけ」
直樹の言う通り、あたしは子どもみたいだ。
「最後に行きたい所があるの」
あたしは夕日に染まる公園に直樹を連れて行った。ペンキの剥げかけた遊具が並び、広葉樹が周囲を取り囲んでいた。
「ここは……」
直樹は思い出したようだ。
「よく遊んだよね、ここで」
小さい頃、あたし達はこの公園で駆けたり、砂場で山を作ったり、ブランコに乗ったりした。直樹はどこまで覚えているのかな。
「沙耶はよく転んで泣いていたな」
「直樹でしょ、それは」
嘘をついた。
あたしは走ることが好きだけれど、その分よく転んだ。直樹はあたしを起こして、頭を撫でてくれるのだった。
「ブランコ乗ろうよ」
公園は閑散としている。カラスの鳴き声や、遠くから響いてくる車のエンジン音がより一層、物寂しさを掻き立てる。
ブランコは古びた金属音を発した。
「晩御飯は何かな」
直樹は能天気にもそう言った。
あたしは言葉に詰まった。公園に来たものの、したいことが無かった。悪あがきなのかもしれない。
帰りたくない。
「黙るなよ」
直樹も困っている。
「来たかっただけなら、もう帰ろう」
「やだ」
あたしは駄々っ子だ。
「また今度来ればいい。ここは家から近いし」
「やだ」
あたしには、また、が無い。
「……」
黙りこくったあたしは、足元の砂を掘り始めた。乾いた砂を払うと、湿った土が露わになった。
「あのさ、家に帰ってから渡そうと思っていたんだけど……」
直樹はポケットを探った。出てきたものは、白い紙袋だった。
「トイレ探したときに見つけたんだ。やるよ」
あたしの手に落とされた紙袋は軽かった。
「開けていい?」
「いいよ」
あたしはゆっくりと封を破った。
何が入っているんだろう。
「高い物じゃないけど……」
紙袋を傾けると、手のひらにヘアピンが転がった。
「髪はそのままだったろ」
小さい緑色の石が付いている。きらきらしていて、綺麗だった。
「……」
何だろう、この気持ち。体の内側から込みあがってくる。熱くて、痛くて、苦しい。
「気に入らない?」
直樹は不安そうだった。
気に入らないんじゃない。何も言えないのだ。
「ありがと」
あたしは何とかそれだけを伝えた。
ヘアピンはひんやりとしている。
「付けてよ」
「何か言ったか?」
「付けてよ。鏡が無いから、直樹が付けて」
あたしは頭を直樹に差し出した。
直樹はしばらく迷っていたが、あたしの手からヘアピンを取りそっとあたしのこめかみに触れた。
「うまく出来ない」
「いいから、早く」
何度か髪を引っ張られ痛かったが、どうにか付け終ったようだ。
「似合うかな」
「うん。か、可愛いよ」
直樹は言葉に詰まりながらそう言ってくれた。
あたしは性懲りもなく照れて顔が上げられなくなった。
「帰ろう」
あたしの心は決まった。
大丈夫、あたしは一人でも平気だ。
後は別れ際に直樹があの言葉を言ってくれれば……。
「手、繋いでよ」
嫌がられるかと思ったが、直樹は黙って差し出した手を握ってくれた。
公園に二人の影が伸びる。
他の人からは、恋人同士にみえるかな。
十七
沙耶の手は柔らかかった。強く握られ、すがり付くようだった。
汗ばんでくる俺の手を、沙耶は嫌だと思わないだろうか。
沙耶は一言も喋らない。俺も何一つ思い浮かばない。
「着いちゃったね」
家に着き、扉の前で立ち止まる。
「ほら、入ろう」
俺は促すが、沙耶は動かなかった。
「開けるよ」
俺はドアノブに手をかけた。
「あっ」
沙耶は小さくそう言った。
「どうした?」
扉を開けた。
その先はいつもの暗い玄関が続いているはずだった。
違った。
家のリビングがあった。右脇にソファーとテレビがあり、真ん中にはテーブルと椅子。左の壁にある引き戸を開けると台所がある。
テーブルの上には湯気を上げるみそ汁とご飯。焼き魚に卵焼き。これは千石さんが作る朝食だった。窓からは朝日が射している。
「沙耶、これって」
俺は後ろを振り返った。沙耶はいなかった。何もないまっさらな壁があった。本来、家の廊下に繋がっているはずの扉が無かった。
「おや、起きたんだね」
千石さんが台所から出てきた。
「千石さん、これって……」
「どうしたんだね? 早く食べないと学校に遅れるよ」
俺は席に座った。千石さんは緑茶をすすっている。
「あの、沙耶は」
「沙耶君はすぐに来るよ」
沙耶も台所から出てきた。
「おはよう、直樹。寝ぐせが付いてるよ」
沙耶は何事もないように席に着いた。
「俺、さっきまで沙耶と出かけていたんですけど」
「おや、寝ぼけているのかい?」
千石さんは微笑んだ。沙耶はきょとんとしている。
「明後日でしょ、それは」
「そんなはずは……」
「落ち着きなさい」
違和感はますます大きくなった。
「浅間君、まず食べなさい。冷めてしまうよ」
箸を持った。
「おはよう、浅間君」
台所から千石さんが出てきた。
また、リビングに立ち尽くしていた。
「あれ? 俺はさっき……」
「ほら、食べなさい」
沙耶も出てきた。
「直樹おはよう。顔がさえないよ」
おかしい。どうしたんだ。
「冷めてしまうよ」
千石さんが微笑む。今はその微笑みが気持ち悪かった。
「ほら、座りなよ」
沙耶は俺の手を引き、横の席に座らせられた。
「この卵焼き、あたしが作ったんだから」
沙耶は俺の前に卵焼きを置いた。
「食べてよね」
沙耶は箸を持った。
「おはよう、直樹」
沙耶はすでに座っていた。
「おい、変だろ」
「何がよ。もしかして、寝ぐせが付いてる?」
沙耶は頭を撫でつけた。その仕草が可愛らしいが、浸っている場合ではない。
「違う。この状況が、だよ」
「顔、怖いよ」
「繰り返しているんだぞ!」
「わけ分からないよ」
変わらず湯気を上げる朝食は、余計に恐怖心を煽った。
「とにかく、座ってよ」
沙耶は明らかに戸惑っている。
「千石さんは?」
とにかく千石さんに助けを求めないと。
「千石さん……て誰?」
「冗談はいいよ」
「本当に分からないんだって」
俺は混乱した。落ち着いていられるはずがない。
「千石さんだよ、千石さん。いつもご飯を作ってくれたり、おやつを出してくれたり。そもそも、沙耶がこっちに来られたのは千石さんのおかげだろ」
「直樹、夢か何かと勘違いしてない? あたしはずっと隣の家に住んでいるでしょ。ご飯も、直樹のお父さんお母さんが忙しいから、あたしが作りに来ているんじゃない。ねえ、どうしちゃったの?」
沙耶が歩み寄ってきて、俺の額に手を当てた。
「熱は無いみたいだね」
微笑む沙耶は、俺の手を握った。
「大丈夫、何も怖くないよ」
このままではいけない、俺の中にある何かが警鐘鳴らす。
「ずっと一緒」
沙耶は抱き着いた。程よい締め付けが思考を麻痺させる。
「このまま、ずっと……」
考えてみれば、沙耶が戻る必要は無いんだ。こうやって、沙耶が笑っているならそれで……。
場面が変わった。
学校の廊下だった。登校した生徒で賑わっていた。
「ほら、教室に入ろうよ」
沙耶が俺の手を引いた。
「あれ、さっきまで……」
俺は何が何だか判別することを止めた。
「まだ寝ぼけているの?」
「直樹君、おはよう。沙耶ちゃん、今日も輝いている」
佐藤が訳の分からないあいさつをした。
「お弁当、ちゃんと作ってきたからね」
「ありがとう、沙耶ちゃん」
「直樹の分しかないの。ごめんね、佐藤君」
「希望の光が……」
佐藤が馬鹿なことを言っている。
これが日常?
――浅間君。
頭の中で声が響いた。
「早く座らないと先生来るよ」
沙耶が強く腕を引っ張った。
――抜け出すんだ、浅間君。
「千石さん? どうしたんですか?」
「何言ってるの。直樹大丈夫?」
沙耶が心配そうな顔をしている。
俺は悲しい気持ちになった。
――直樹! 直樹!
「沙耶?」
悲痛な叫びだった。こちらまで苦しくなるようだ。
「あたしはここにいるよ」
目の前の沙耶は俺にすがった。
「ごめん」
行かなければいけない気がした。
俺は沙耶の手を振りほどき駆け出した。
同時に、窓から光が失われ紫色の雲が空を覆う。暗い廊下には俺の足音だけが響く。駆けても、駆けても終わりが見えない。
俺は何をしているのだろう。朝の光景を三度繰り返し、今度は沙耶が学校にいる。異常な事態だ。だが、俺は受け入れかけていた。
望んでいたのかもしれない、変わらない光景を。
「沙耶、どこにいるんだ」
――こっちだよ!
再度、沙耶の声がした。
ようやく廊下の突き当たりがあった。鉄の扉があり、俺は一気に引いた。
「沙耶!」
光が漏れてきた。
俺は眩しさに思わず手で遮った。
「さあ、こっちだ」
背中に大きな手が当たり、乱暴に押し出された。沙耶の手のように小さくはなかった。恐らく千石さんの手。
「どこも異常は無いかい」
視力が回復し、辺りを見回すとそこは千石さんの白い空間だった。中央に沙耶の通り道を塞いだ大きな立方体は無く、代わりに禍々しい黒い渦がうごめいていた。
「頭以外は、大丈夫かと」
「ははは、そうか」
千石さんの顔は朝以上に疲れた顔をしていた。笑った顔に力が無かった。
「沙耶はどこにいますか」
千石さんはいつもお茶をしているテーブルを指さした。沙耶が両手で顔を押えながら泣いていた。
「泣くなよ、沙耶」
俺は沙耶が泣いていることが嫌だった。笑っていて欲しかった。
沙耶はいつも笑いかけてくれて、寂しいときでも元気付けてくれる。記憶の中の沙耶は常に明るかった。たまに転んで泣いたけれど、そのときは俺が撫でてあげるとすぐに泣き止んでくれた。
「笑って……」
俺は沙耶の頭に手を乗せた。
「直樹?」
沙耶は顔を上げた。涙で顔を光らせ、長いまつ毛に滴が付いている。
「ごめん、直樹」
沙耶は立ち上がり抱き着いた。
「ちょっと、沙耶。いきなりなんだよ」
「あたしが……あたしが我がままだから」
「……沙耶」
しばらく佇んでいると、千石さんがわざとらしく咳払いをした。
「その、すまない。私も話をしたいんだが」
途端、俺と沙耶は磁石が反発するように飛びのいた。
「す、すいません。あたし、混乱しちゃって」
「しょうがないさ」
千石さんは苦笑いをした。
「これはどういうことなんですか?」
俺は気まずさを振り払うように言った。
「うん、説明する。まずはお茶を飲もう」
この状況で平常と変わらない千石さんを見て、俺は驚きを通り越して納得した。千石さんはこういう人なのだなあ、と。
「何が良いかね?」
「あたし、コーラ」
沙耶も涙を拭きつつ適応していた。
「じゃあ、俺もコーラで」
「だめ、炭酸水」
千石さんに炭酸水を貰った。
「まず、沙耶君。一通り浅間君に全部話すけど良いよね」
「……はい」
沙耶は頷いた。
「浅間君、実は沙耶君の帰り道は沙耶君が来た次の日には直っていたのだよ」
「え?」
「すまない。嘘をついた」
俺は何とも思わなかったが、理由は気になった。
「どうして嘘を」
「あたしが悪いの。帰りたくなくて……。直樹、ごめんね」
沙耶はまた泣き出しそうだった。
「それだったら、言ってくれればいいのに。俺は別にかまわないよ」
「迷惑かけると思って」
沙耶は深くうなだれた。
「全然迷惑じゃないよ」
千石さんは緑茶をすすり、再び話し始めた。
「今朝のことなのだが、君たちが出かけて行ってすぐ異変が起きた。私は君たちが戻ってくるまで抑え込んでいたんだが、あと一歩のところでしくじってしまった。力不足だよ。私も年かな。……どうにかここまで持ち直したんだが。もう時間が無い。何か質問があるかね?」
時間が無いのにゆっくりお茶をしていて良いのだろうか。千石さんの性格だから、とするのが自然な気がしたので、聞かないことにした。
「その異変とは?」
「沙耶君の世界と、我々の世界が混ざり合い始めたんだ。基本的に一番繋がりの強い浅間君に影響があったようで、閉鎖的な空間に取り込まれてしまったのだね。私がこの世界の人々に影響が出ないよう、押さえていたから他の人々は問題ない。沙耶君は、どうにか自力で抜け出したらしい。分かってくれたかい?」
とにかく危ないということが分かった。
「時間が無いんですね」
「そうだ。これを飲み終わったら、早速始めよう」
「始めるって……」
「沙耶君を元の世界に戻してあげるのだ」
体が硬直した。水を頭から被せられたようだ。
「やっぱり、帰らないと行けないのですよね」
「ああ。バランスが崩れているのだ。元に戻さなければならない」
沙耶は俯き、自分自身を抱くように体へ腕をまわしていた。
「直樹、あたしのことは気にしないで」
「無理だろ、そんなこと」
千石さんは席を立った。
「君たちはまだ座っていなさい。私は調整を始める。十分ほど、待っていてくれ」
十分。
沙耶がここにいられる残り少ない時間だった。
「直樹、一週間だったけど思い出しをしよ!」
虚勢を張っているのだと誰の目から見ても明らかだろう。沙耶はコーラを一口飲んで話を始めた。
「これ嬉しかったよ。大事にするね」
沙耶はヘアピンに触れた。
「映画、面白かったよね。あ、直樹は眠っていたか」
「……」
どうしようも無いのか。無力な自分が嫌になった。
沙耶はコーラを一口飲んだ。半分に減っていた。
「ケーキ、美味しかったな。あたしさ、食べてばかりだったよね。直樹の言うように、あたしは食いしん坊なのかな?」
「……」
沙耶は恥ずかしそうに頭を掻いた。
「靴、慣れていなかったから、ちょっと足が痛いかな。でも、可愛いね。あたし、気に入ったよ」
「……」
沙耶は片足を上げて、靴を見ながら微笑んだ。
「この服も好きだけど、今度はズボンとかはこうかな」
「……」
沙耶は立ち上がり、その場でくるりと回った。
「あたしさ、千石さんに色々料理を教わったんだよ。パラパラチャーハン。卵焼き。きんぴらごぼう。肉じゃが。コロッケ。カレー。あとは、あとは……」
「……」
沙耶はコーラを飲んだ。半分をきった。
「お弁当、一種類しかおかずを入れなかったね。ごめん」
「……」
沙耶はコーラを飲んだ。もう殆どない。
俺はこぶしを握りしめた。手の色が変わっていた。
通り道にある渦は、地中深くから響くような轟音をたて始めた。同時に小さな揺れを生み出した。
終わりが近いのだ。
「一週間か。短かったな。思い出話はあまり出来ないね」
沙耶は最後の一口を飲んだ。
「カップ麺とか、コンビニのお弁当ばかりじゃだめだよ。あたしの食生活も乱れちゃうんだからね。コーラも飲みすぎないように。あたしもテレビの見すぎに気を付けるから。分かった?」
俺は黙ったままで、何も言えなかった。
炭酸水の入った透明なグラスは、表面に水滴を付けている。俺は一口も飲んでいなかった。
「そろそろ時間だ」
千石さんがそう言った。
俺はなるべくゆっくりとした動作で立ち上がった。
「手、繋いで」
沙耶は白く細い指を俺の指に絡め、しっかりと離さないように繋いだ。
震えているが沙耶は悲しみも迷いも無いように、真っ直ぐと行く先を見つめている。
「ここを歩いて行けば、沙耶君の世界に着くよ」
千石さんも浮かない顔をしている。
沙耶の通る道は、水流の乱反射のように光り輝いている。千石さんより高い縦の輪が形作られ、口を開けているように待ち構えている。先に広がる通路は銀色の光により、全く先が見通せない。
眩しくて顔をしかめた。
沙耶はこちらを向いた。
「じゃあ、あたし行くね」
沙耶の手が離れた。温もりが残る。それはすぐに消えた。
このまま行かせて良いのか? 俺が沙耶のことを忘れてしまっても、沙耶は俺のことを覚えていてくれた。たった一人で。
沙耶は一週間のうちに起こったことを楽しそうに話していた。ここに来たことで、少しでも気が晴れるならば良かったと思う。しかし、また元の世界に戻そうとしている。
残酷だ。
目の前に希望をちらつかせ、沙耶が手に取ろうとしたところで奪ってしまう。そういうことだ。
「……沙耶」
俺は手を伸ばした。
沙耶はどんどん進んで行く。まだ間に合う。
一歩、踏み込んだ。
「行くなよ……」
上手く声が出ない。
俺は迷っているのか? 沙耶が帰らないと、異常な事態が酷くなるから。
「だからなんだよ」
小さく、頼りない背中を抱きしめた。
「行くなよ!」
腕の中に納まった沙耶は動かなかった。腕に生暖かいものが落ちた。沙耶の涙だった。一滴、また一滴と止めどなく俺の腕を濡らした。
千石さんは何も言わなかった。
脳裏に、ある光景が蘇る。別れの記憶。
あたしはそろそろ行くね、もっと遊ぼうよ、直樹君のお父さんとお母さんが迎えにくるから、でもすぐに行っちゃうよ、そしたらまた来るね、何でいつもいてくれないの、あたしにも分からないんだ、そっか、うん、すぐに来てよ、すぐに来るよ、また会おうね、うん絶対に。
他愛ない会話。
俺が小さい頃の沙耶は、きっと頭の中だけの存在だったんだ。だから、一人で集中しないと没頭できない。乱されると消えてしまう。それが悲しくて、俺はいつも泣きそうだった。日々沙耶は現実味を帯びて、俺が架空の世界を切り離しても生き続けた。もしかしたら、何気ない空想でも世界は生まれ、沢山の人々が笑ったり泣いたりしているのかもしれない。沙耶のように孤独に生きている人もいるのだろう。
決してこの小さな背中を離したくは無かった。
十八
あたしは直樹に背を向けて歩き始めた。
泣かないと思ったのに、見られてないとすぐに涙が頬を伝った。
「行くなよ!」
暖かい何かに、あたしはくるまれた。直樹だった。痛いくらいに抱きしめられた。
映画みたいだ。あの漫画のセリフと違うけれど、あたしの心は揺さぶられた。
帰りたくないよ。でも、だめ。直樹は後先考えないで言っているけれど、それじゃいけない。
「だめだよ」
あたしの涙は止まらない。
「あたしは帰るから」
「帰りたくないんだろ」
直樹が耳元で呟いた。
「それでも、帰るの」
あたしは直樹の腕を振りほどいた。
「また、会おうね」
直樹が言っていた言葉。あたしが消えるとき、直樹はいつもそう言った。あたしはそう言ってくれることが嬉しかった。
「絶対に」
直樹はそう言った。悲しい目をしていた。体の奥から絞り出すようだ。悔しそうだった。
分かってくれたのかな。
あたしは歩き始めた。眩しい。目が開けられない。体が吸い込まれていった。
十九
沙耶が消えて一週間が経った。
俺は無理やりにでも止めるべきだったと何度も思ったが、沙耶が行ってしまったので何の意味もない。
千石さんは無言で道を閉じた。その後、会いに行っていない。
佐藤は一度、沙耶について聞いてきたが沈んだ俺の顔を見て余計な詮索はしてこなかった。ありがたいことだ。
俺は沙耶の言う通り、毎日ではないが料理を作っている。
月曜日、重い足取りで登校した。
「直樹君、もう聞いた?」
佐藤の笑顔が目に痛い。
「聞いてない」
「まだ何も言ってないから」
佐藤は鼻息が荒い。
「転校生が……転校生が来るんだって!」
最近、佐藤は学校でもやたらテンションが高かった。何か振り切れたようだ。
「ああ、そう」
「つまらない反応だなー。転校生だよ、転校生」
「転校生幻想は持って無いんだ」
「いや、ね。僕も男ならここまで元気にならないよ。ただ、噂では女の子らしいから。そりゃ、期待せずにはいられないよ」
「へー」
ほとんど聞いていなかった。
「美少女だといいな」
佐藤はスキップしながら席に戻った。
担任の教師が入ってきた。
「何人かは知っているだろうが、転校生がいる」
俺は興味が無かった。
教室がにわかにざわめく。
「入りなさい」
ゆっくりと、扉が開けられる。
髪の長い女の子が入ってきた。