チャプター1「就職」その1
着慣れないスーツを身にまとい、僕は人波をかき分けて駅の階段を駆け上がっていた。これだけの人が逆方向に下ってくるということは、ホームに電車が到着したということだ。汗で肌にYシャツがべったりへばりつこうとも、駅員さんに駆け込み乗車を注意されようとも、僕はその電車に飛び乗らなくてはならない。
階段を昇りきりホームに辿り着いた瞬間、プシューという音が響き渡る。最後の力を振り絞り、すぐ目の前のドアへ飛び込もうとした瞬間、ガァンという音と共に額に激痛が走った。無残にもドアは閉まりきり、見事にドアへ激突していた。
「危ないですから下がってください」
駅員さんの注意に軽く会釈しつつも、ドアに激突した恥ずかしさも忘れるほどに頭の中は真っ白だ。音階を上げながら走り出した電車を見送りながら、僕の頭には走馬灯のように大学時代の生活が甦る。
これで終わった…すべて終わった…。
特に頭が良いわけでもなく適当に入った三流大学も、そこそこの成績であっという間に四年生となり、ダラダラと冬を迎えていた。これといって何の取り得もない僕とって、もちろん就職は簡単ではなかった。希望する会社も特になく、何の変哲もない会社をひたすら受けてはみたものの、最終面接ですべて落とされてきた。そして今日は、最後の一社の最終面接だった。その面接に完全なる寝坊、完全なる遅刻。夜明けまで頭に叩き込んだ会社の概要も、面接対策も、すべて無駄になった。というか、これまでの人生がすべて無駄になった。
駅から徒歩10分、ユニットバスながらワンルーム風呂トイレ付きの我が城。仕送りとアルバイトで維持してきたこの一人暮らしとももうすぐお別れだ。春には実家に帰って就職浪人になるんだ。そんなことを考えながら、いつも通りの無意識でポストの中身をもぎ取る。大半はいかがわしいチラシなわけだが、共用のゴミ箱には捨てず、いつも部屋まで持ち帰るクセがある。
部屋に戻り、ポストから取ってきたチラシを年中出しっぱなしのコタツに叩き付け、僕はベッドに倒れ込んだ。自分自身の不甲斐なさに自己嫌悪しながら、午前中だというのにそのまま眠りこけてしまった。
ブーンブーンと、胸ポケットの携帯電話がバイブレーションして目が覚めた。辺りはもう薄暗く、最近隣に建った高級マンションの壁を赤く染めていた。携帯電話の画面を見ると、友達の西村の名前が表示されていた。一瞬迷ったが、僕は電話に出た。
「もしもし?王子?今日面接どうだったよ?」
『王子』というのは僕のあだ名だ。別に王子様のようにかっこいいわけでも乗馬が得意なわけでもない。ただ名字が『八王子』だからそう呼ばれているだけだ。
「え?ああ、ダメだった。聞かれたことに全然答えられなくてさあ。絶対落とされたと思うよ」
何の役にも立たない無駄な嘘をつく。
「えっ!じゃあお前…」
「まあ…確定だろうね。就職浪人」
慰めに飲もうと誘われたけどアルバイトがあると嘘をついて断った。とても酒を飲む気分にはなれない。
何の役にも立たなかったのにしわだらけになってしまったスーツを脱ぎ、家着に着替えた僕は、ベッドを背もたれにコタツに足を入れた。そしてぼーっとコタツを眺めながら、再び自己嫌悪した。なんでいつも僕は何をやっても中途半端なんだろうか。
焦点の合わないコタツの上にはぼんやりといかがわしいチラシが広がっているのが見えた。毒々しい色使いが、この嫌な気分に拍車をかける。チラシに焦点が合うと、いかがわしい女の子の写真と目が合った。好みのタイプではないが美人だとは思った。思ってしまったので、何気なくそのチラシを手に取った。チラシの細部を見ると『1919』という電話番号のゴロ合わせのくだらなさに一瞬ときめいた心も一気に冷め、チラシをぐしゃぐしゃにしてゴミ箱に投げた。しかしゴミ箱にも嫌われたのか、ぐしゃぐしゃのチラシはフチに当たって部屋に転がった。僕は何をやっているんだろうと、更に深い自己嫌悪に陥った。
コタツにもう一度目を落としたとき、毒々しい色の中にひと際地味な色が浮かび上がった。茶封筒だ。今投げ捨てたチラシに隠れていて気付かなかったらしい。
気になって手に取ると、そこには大きくこう書かれていた。
『求人 (株)ビッグスタープロモーション』
僕は何かに取り憑かれたように、封筒を破り開けていた。