10話
たくさんの料理を落とさないよう歩いていたら、銀貨と黒猫亭と思われる看板が見えてきた。
壁の上の方からぶら下がった看板には、厚い木の板に黒猫が銀貨を転がしている絵が描かれていて……なるほど、これはわかりやすい。
絵の下の方に宿屋の名前が書いてあるが、日本語ではなかった。所々違うが英語とかドイツ語っぽい気がする。流石にこの洋風ファンタジーな世界で日本語は使われてないか……まぁ言葉は読めるし話せるし、慣れるのも早そうだ。
そうこう考えていると銀貨と黒猫亭の前についた。三階建ての宿屋の四角い窓は少し曇っていて、中はよく見えないがオレンジの光が漏れていてとても暖かそう。
左手で料理を支えつつ、両開き扉を開けようと右手を伸ばした、すると……
「!?」
ドアノブに触れる直前に、扉の向こう側から何か、恐らく皿やコップなどの食器類が床へ落ちる音や割れる音、他に女性の怒鳴り声と男達の笑い声が聞こえてきた。
……何この宿屋、大丈夫なの?
扉の前から後退り、中に入ろうか他に泊まれる所を探そうか悩んでいると、扉が少しばかり開き隙間から黒い物体が飛び出して来た。かと思うと、凄い速度で足の間を通り抜けて行く。
「うわ、っとと……!」
危ない、びっくりして今日の晩御飯を落とすとこだった。銀貨五枚の価値があるのだ、絶対に落とすわけにはいかない。
「こら! ああもう、逃げられたか……」
黒い物体が通り抜けてすぐ、扉を全開にして息の上がった女の人が出てきた。年の頃は三十代ほど。癖の強くて長い赤毛を後頭部で纏め、シンプルなワンピースにエプロン、手にはお盆を持っている。きっと宿屋の人だろう。
「あら、もしかしてお客さん? 騒々しくてごめんなさいね」
女性は怒った顔をして溜息をついていたが、すぐに目の前の自分に気付き、困った様な笑顔を浮かべ話しかけて来た。
「はい。今日ロイゼンに来たばかりで、泊まれる場所を探しているんです。さっきそこの通りの串焼き屋さん……アマンダさんにここを紹介されて来ました」
「あら、姉さんからの紹介なの! どうぞ、ちょうどお部屋が空いているわ」
アマンダさんからの紹介だと言うと、その女性は納得したように頷いた。
ああ、どうりで見覚えのあるカラーリングとフレンドリーさ。アマンダさんは串焼きを売りながら妹の宿屋へ客を紹介してたのか。
「申し遅れまして、私は銀貨と黒猫亭の女将のアマリエよ」
「えっと……キーアです。旅をしてます、よろしくお願いします」
まだ旅人歴一日だけどな。
挨拶もそこそこに、アマリエさんに促され宿屋の中に入る。
きっと宿泊だけじゃなく酒場や食堂みたいな場所も兼ねてるんだろう、思っていたよりも広いホールにテーブルが複数並んでいて、上には沢山のハムやらパンやらチーズやらパスタやら。所謂酒のつまみといった物から夕飯になりそうな料理まで、絶妙なバランスで積み重ねられていた。
テーブルの周りで楽しそうにお酒を飲みながら談笑する人達。その誰もが鎧やローブを着込み、背に腰に剣や弓や杖といった武器を身に付けている。
如何にも『冒険者』といった風貌の人達を見ると、なんか凄くワクワクする。銃刀法違反? 知ったこっちゃねぇと言わんばかりの大剣が眩しい。
間近で感じた冒険の匂いにそわそわとしながら、カウンターで宿泊の手続きをする。
「今は三階の角部屋とその隣、二階の三号室が空いているわ」
「えっと、じゃあ三階の角部屋の方で」
紹介された空き部屋の中から迷う事なく角部屋を選ぶ。生前はアパートの角部屋を借りていたので、落ち着くというかなんというか……まぁなんとなくだ。
宿泊料金は前払い、朝夕二食付きの一泊で銀貨二枚。
お風呂は残念ながらないらしいが、店員さんに頼むと桶一杯のお湯と体を拭く布がもらえるとの事。ロイゼンには大衆浴場、所謂銭湯もあるみたいなのでお金に余裕ができたらまた行ってみようと思う。
とりあえずは一週間部屋を借りる事にして、合計で金貨一枚と銀貨三枚支払った。今日の分の料金は夕方から、夕食も持ち込みの物があるので利用しないと伝えたら銀貨一枚分まけてくれた! ラッキー!
これで所持金が金貨1枚と銅貨数枚になったわけだ……明日にでも仕事を探さないと、一週間後には宿無しになってしまう。
「さぁ、これが部屋の鍵ね。そこの階段から三階まで上がって、そのまま真っ直ぐ行った奥の部屋が貴方の泊まる所ね。何か困った事があったら遠慮なく言ってくださいな」
アマリエさんから鍵を受け取り部屋へ向かう。
……今日は色々な事がありすぎた。身体はあんまり疲れてないけど精神が疲れた。ご飯食べて体拭いてさっさと寝よう。これからの事を考えるのは明日でいいや……。
階段を上がろうとして手すりを持った瞬間、後ろから声がかかった。
「おい」
低い、少ししわがれた男の人の声。
振り返ると、自分の真後ろに見上げるほどの大男がいた。ごっつい鎧をつけた鳶色の短髪に髭もじゃで、左の額から頬にかけて大きな傷がはしっている。隻眼って言うんだっけか。
ファンタジー物に出てくるようなドワーフに少し似てると思ったが、そんな事はない。サイズが違う、違いすぎる。こんな凶悪なドワーフがいてたまるか。
冒険者らしいこのおっさんは背中に大斧を背負っていて、剥き出しの刃がぎらりと光っている。
ゲームとか漫画とかで見た時も思ってたけど、これ擦れ違った時とか急に振り向いた時とか怪我しないのか!?
「ひぇっ、な、なんれしょうか……?」
噛んだ。ぶっちゃけすごく怖い恐ろしい。
いくらゲーム内のステータスを引き継いで、戦い方がある程度わかっていたとしてもそれはこの身体の話。中身は争いに無縁の平和な日本で暮らしていた一般人だったので、能力はともかく実力は良くて駆け出しの冒険者に毛が生えた程度だろう。
「お前、新入りか」
「は、はい……?」
新入り? なんのですか? と思っていると、おっさんは顔をずい、と近付けてきた。ていうかこの人酒くさっ、髭で分かりづらかったけど顔赤いし……まだ夕方なんですけど。
「この宿屋に泊まんのか」
「はっ、はいっ、あっえっと一週間あの、お世話になります」
これはあれか!? 先に泊まってた俺に挨拶がねぇじゃねえかとか、そういうやつか!? しくじった……最近の日本じゃご近所さんに引越しの挨拶をする事が減ったというが、異世界は違ったらしい。そうですよねマナーは大切ですよねわかります。
「おーい、また新人いびりぃ? ほどほどにしとけよぉ」
大男の後ろの方のテーブルから、一緒に飲んでいたのだろう冒険者っぽい人達の笑い声が聞こえてきた。
ていうか新人いびりって、あれか。異世界名物の、あれか。難癖つけて決闘とかに巻き込まれる、あれか……。
良い人に会って街に送ってもらって、宿屋を紹介してもらえて、やっと一息つけると思ったのに……そうだよね、会う人会う人良い人ばっかりだったから勘違いしちゃってたけど、悪い人もいるよね。残念、自分の幸運はここで尽きました。
ダメだ、これから痛めつけられて身包みを剥がされるんだと思うと、目に涙が溜まってきた。あー、美少年の涙に免じて見逃してくれないかなぁ……と、ちょっとの期待を込めてチラチラとおっさんを見上げる。
「ちょっとこっち来い」
おっさんの大きな手が襟首を掴んだ。くそー! 男に男の涙は効かなかったかー!
美少年の涙作戦は失敗に終わったらしく、襟首を掴まれてテーブルの方に引っ張って行かれた。と思ったら、そのまま空いていた椅子に座らされ、持っていた料理たちをテーブルの上に置かされる。
あれ、外に連れ出されるんじゃないんだ。引っ張ってきたおっさんは向かいの席にどすんと座った。
「あーあー、可哀想に涙目じゃん。ごめんねぇ、うちのリーダー顔怖いからさぁ」
右隣に座っていた盗賊っぽい格好をしたホスト風の茶髪イケメンが話しかけてきた。
リーダーって事は同じパーティーとかなのかな、というかこのイケメン……動物の耳が付いてるだと……!?
よく見れば後ろにはふさふさの長い尻尾が揺らめいている。なんか犬っぽい。やばいめっちゃ触りたい。
「まったく、毎回説明が足りないのよね。怖がらせてどうするのよ」
左隣には露出多めの金髪お姉さんが座っている。傍らに杖が置いてあるし魔法使い系かな。
……ていうかこのお姉さんでかい。メロンだ、超スイカだ。イッツアビッグウォーターメロンってか羨ましいわ。何食べてたらこんなでかくなるんだ。……っと、危ない危ない、ついガン見してしまった。今の自分の性別を忘れてた。流石に変な気は起こしたりしないけど、セクハラ扱いされたら否定のしようがない。大きいお姉さんは大好きですとも! イエスノータッチ!
そんな事をぼんやり考えてたら、いつの間に注文されたのかビールがなみなみと注がれた大きなジョッキが自分の目の前に置かれた。
「ささ、君も持って持ってぇ」
「や、あの」
イケメンがニコニコとしながらジョッキを持たせてくる。
お酒はいいんですけど、決闘は? 身包みは? まず今の自分って飲酒していいの?
混乱していると目の前のおっさんがジョッキを片手に勢いよく立ち上がった。自分と同じサイズのジョッキなはずなのに小さめのコップに見える。ほんとこのおっさんでかいな……。
酔っ払っているせいか少しふらついていたが、ごほんと一度咳払いをして口を開いた。
「それでは! 冒険宿屋、銀貨と黒猫亭の新たな仲間に……」
「「乾杯!!」」
ガチャンガチャンとジョッキ同士を打ち合わせると、全員がビールを煽っていく……なんだこの和やかムードは! 飲み会か!
状況もわからないまま、まるで新人歓迎会な雰囲気に呑まれながら注がれたビールをちびちびと飲んでいると、メロンお姉さんが話しかけてきた。
「いきなりでびっくりしたでしょ、リーダーはここに泊まる貴方を歓迎したかっただけなのよ」
「歓迎会かよ」
怖がって損したわ。
話によるとあの強面のおっさんは、新しくこの宿屋に泊まる人を見かけると毎回強引に酒の席に連れ込むそうな。コミュ力すげぇな。
「冒険宿屋って言うように、ここに泊まる人達って冒険者ばっかなんだよねぇ。だからこそ縁を大事にしたいっていうのぉ? 君も冒険者? ていうか見た事ない顔だよねぇ、名前なんていうのぉ? あ、俺はフィズだよぉ、そっちの金髪お姉さんがメリル」
犬耳イケメン、もといフィズさんによって、やっと半分飲んだジョッキにビールが足される。また飲めと言うのか、あんまり強くないんだけどな。
「あ、僕はキーア、って言います。職業は多分、冒険者……?」
「なんで疑問系なのよ」
メロンお姉さん、否メリルお姉さんが笑う。メロンとメリルって似てるよね。
なぜ疑問形なのかって言うと、まだどこにも冒険に行ってないからです! 果たしてこれで冒険者と言えるのか。
ここで会ったのも何かの縁、どうせなら先輩方に色々聞いてみよう。
「そういえばここってギルド、とかあるんですか?なんていうかあの、ハローワークみたいな感じの……」
どうやって伝えればいいか悩んでいると、フィズさんが汲み取ってくれた。
「ああ、ハローワークとかいうのは知らないけど冒険者ギルドは大きい街に絶対あるからねぇ、もちろんロイゼンにもあるよぉ。もしかして、登録まだ?」
「はい、今日ロイゼンに来たばっかりなんで」
「そかそかぁ、ギルドに登録しないと仕事受けらんないからねぇ。案内してあげたいけど俺らも明日仕事入ってるんだよねぇ」
「場所さえわかれば大丈夫です!」
やっぱりあったかギルド! もうギルドって聞くだけで凄いワクワクするよね!
興奮する自分にメリルさんは簡単な地図を描いて渡してくれた。ありがたい……とりあえず明日は登録済ませて、なるべく早く稼げるようにならないと!
「楽しみだねぇ、そのうちキーアと一緒に仕事受けるようになるのかなぁ」
「あっという間に有名になるかもしれないわよ、『超新星、美少年冒険者!』ってね」
笑うフィズさんとメリルさんに挟まれて頭を撫でくりまわされる。ひええ現役冒険者だけあって力が強い……!
一頻り自分の頭をボサボサにしたフィズさん達は、満足したのか撫でるのをやめておつまみを勧めてきた。
「まぁ、同じ酒を一緒に飲んだ仲間なんだし、これからも仲良くやってこうよぉ。なんか困った事あったら言いなぁ、俺かメリル、そこのガルシュも見掛けは怖いけど助けになるからさぁ」
「フィズさん……」
フィズさんの言葉、うんうんと頷くメリルさんの眼差しが心に沁みる。
異世界に来てから……と言っても一日目だけど、こんなに優しい人ばっかりに会えて、本当に自分は幸せ者だと思う。
なんとかこの世界で生きていけそうな気がしてきた……。
ジョッキ片手にジーンとしていると、突然自分の前のテーブルに影がかかった。
見上げてみると、眼前に広がる髭アンド傷。強面のおっさん、ガルシュさんが自分を覗き込んでいた。
「ひぃっ…!」
良い人だってわかったけど、この強面は心臓に悪い。思わず頬が引き攣った。
「ちょっとちょっとぉ、また怖がらせてぇ」
フィズさんが自分を庇うように前に出て来てくれた。ごめんガルシュさん……! でも異世界初心者の自分にはまだ免疫が……!
「全然……」
「……?」
「……全然飲んでねぇじゃねえか」
ああ、なるほど。
ガルシュさんは自分じゃなく、自分の持つジョッキを見つめていた。
「の、飲んでますよ、これで十分です」
ジョッキを掲げて笑ってみせる。
あんまり酒に強くない自分としてはこの一杯で本当に十分だ。異世界初日で酔い潰れるとかいうのは勘弁してほしい。
「遠慮するな、飲め」
そんな自分の思いを知らないガルシュさんは、ジョッキを持った自分の手ごと掴んだかと思うと、テーブルの上のビール瓶を引っ掴みジョッキの中に瓶の中身を豪快に注いだ。
「わーーーーっ!!」
溢れてる溢れてる!! あー泡で手がベトベトだ、床まで汚れてあーあ、掃除が大変そう……。
勿体無い精神が働いておっとっと、と泡に口をつけると、周りのテーブルから歓声があがった。
「お、いくなぁ坊主!」
「嬢ちゃんみてぇな顔してると思ったがやるじゃあねぇか!」
「よし、俺たちも負けてらんねぇな!」
「あら、可愛い顔していける口なの?」
「お姉さんたちもちょっと混ぜてよー」
あっという間に周りのテーブルの冒険者さん達が、ガタガタとテーブルを移動させて合流してきた。
……これはまずい気がする。
「みんなこの宿屋の頼れる奴らだ。おいお前ら、今日は新しい仲間、キーアが銀貨と黒猫亭に来た素晴らしい日だ。よって今日の代金は、俺が持つ!」
「「おぉおおおっ!!」」
……非常にまずい。これは絶対朝までコースだ。逃げられない。
助けを求める様にフィズさんを見る。
「あちゃー……、こうなったら止めらんないねぇ。まあ、これも経験だと思うよぉ、俺は。」
諦めろと言わんばかりに肩を叩かれた。マジか……!
もう一人に助けを求めようとメリルさんの方を振り向く。
「キーアくん! フィズ! 全部リーダーの奢りですって! これは飲まなきゃ損よ! すいませーんメニュー右の欄のお酒全部下さーい!!」
もっと駄目だった!!
頭を抱える自分の横でフィズさんが自分のジョッキを持って笑いかける。
「んじゃまぁ、改めて、かんぱーい」
「か、かんぱーい……」
ガラス同士を打ち鳴らす綺麗な音が小さく響く。
なるべく、なるべくこの一杯を長引かせよう……口をつけて飲んだふりして、たまーに、たまーに飲めばいい……そのうちみんなが酔い潰れるだろうから、隙を見て部屋に……
「よう坊主! そんなちびちび飲むなよ!」
「男なら豪快に飲めってんだ!」
「ジュースがいい? こっちには甘ぁいお酒もあるわよー」
「度数は今飲んでるこいつの何倍もあるがな! がははは!」
作戦を練っていると、冒険者さん達の手が伸びてきて、あれよあれよと言う間に中心に連れてかれた。
これだけ盛り上がってるのに自分だけ飲まないのは、無理だよな、どう考えても……ええい!
覚悟を決めて片手に持つジョッキをぐいと煽る。もうどうにでもなれ!!
「そうこなくっちゃな!」
「いい飲みっぷりねー、次これいってみて!」
ビールのなくなったジョッキに、待ってましたと言わんばかりにさっそく先程とは違う、青くて綺麗な液体が注がれる。
ああ……グッバイ安眠、ウェルカム二日酔い……。
明日の予定を達成出来るかどうかを頭の隅で考えながら、次々注がれるお酒を胃袋に収めていく。
四杯目を飲み切った時、くらくらとする視界の端に映ったのはメリルさんが頼んだお酒の大量の瓶達だった。
登場人物が一気に増えました。