3疑惑の糸
大学の敷地に面した歩道を、神楽坂を真ん中にして歩いている。下校する学生の波はひと段落していて、通行人はまばらでその中に若者はいなかった。俺たちは、海岸通りへ向かう路線バスのバス停を目指していた。
神楽坂がサイの標的になっている以上、両者が接触するのは避けなければならない。これまでの経験から、サイの殺害衝動は長くても丸二日間のクーリングを設ければ消失する。都合のいいことに、今日は金曜日だ。
「ほんと、暑いねぇ」
自分が命を狙われていることなんて知る由もない神楽坂は、暑さを楽しむように軽い足取りで歩く。白衣を脱いだ彼女は、腰に大きなリボンをあしらった白いノースリーブのトップスに、デニムのスカートという出で立ちだった。突き抜ける青空に遊ぶ白い雲――なんて表現が頭に浮かんだ。
近藤は、引き締まった身体にピッタリフィットする、赤地に黄色でスポーツメーカーのロゴが刻まれたティーシャツの下に、枯れ草色のハーフパンツをはいている。俺の様な痩せっぽちは絶対にやってはならないファッションで、スポーツマンの近藤によく似合っていた。……二人のファッションを褒めても得るものはない。ちょうど、横断歩道で信号機に掴まったので、
「近藤の恰好は、アレみたいだよな」
自動車用の信号機を指差すと顔を真っ赤にして怒ったが、神楽坂が「ほんとだ~」と言ってはしゃぐと、恋愛糸をグネグネさせ始めた。二人にはしばらく、このネタで盛り上がってもらいたい。
頑張れ近藤。
内心でエールを送って会話から外れた。
俺には、他に考えなければならないことがあるのだ。
信号が青に変わったことに気がついた近藤に促され、他に横断者も、俺たちが渡るのを待っている車もいない。ゆっくりと三人は歩き始めた。
何故、サイのターゲットが神楽坂清美なのか。サイが殺そうとするのは、夜野と関係を持った男だけだと思い込んでいたのだが――
「ねえ、ケイ君?」
「――ん?」
横断歩道を渡り始めてすぐ、神楽坂が話しかけてきたので、思考が中断された。
近藤め。何をやってるんだと目をやると、やつは腕を頭の後ろで組んで歩き、チラチラとこっちを見ていた。神楽坂と俺の会話内容が気になるのだろう、頭の人格糸の先端が神楽坂の方に向いていた。服装の話はあまり盛り上がらなかったのだろうか。神楽坂と近藤は出席番号が近く実習班も同じだ。よくメンバーで飯を食いに行っているらしいが、二人で話す機会はあまり多くないのかもしれないな。
「ケイ君はさぁ、生化学の課題、もう提出したの?」
そうだ。神楽坂が俺たちと夕食を共にする条件は――などと言うと、いかにも彼女が打算的な女性に聞こえてしまうかもしれないが――課題に関係する資料だったことを忘れていた。だいいち、資料は俺が持っている。これでは彼女の注意を近藤に向けられない。
ショルダー鞄から課題の資料が入ったクリアファイルを取り出した。
「とっくに。こいつがあれば、楽勝だよ」
課題はすでにメールで提出済みだ。近藤の糸が話しに加わりたそうにしているので、俺はわざとそっけなく答えた。課題の内容は「ヒトの体内におけるⅠ型コラーゲンの利用」というタイトルで、二千~四千字程度のレポートを作成するというものだ。すでに多く出回っている先人たちの知恵が詰まった資料さえあれば、半日もかからずレポートはできた。
そう説明してやると、資料を受け取りパラパラとめくった神楽坂はううん、と唸って眉間を軽く摘まんだ。
「先輩たちは偉大だねぇ。でも、こういうのをまとめられるのって、才能だと思うの。わたしなんか、見てるだけでここんとこが痛いよ。ちゃんと読んでもちんぷんかんぷんだと思うな」
「どれどれ……おわっ! 文字ばっかじゃねーか」
横から覗き込む近藤が、渋面を作って続けた。
「だいたいコラーゲンに型があるなんて、医学部に入るまで知らなかったよな」
「うんうん! そうだよね!」
「清美ちゃんもそう? 俺だけかと思ってたぜ!」
近藤の自嘲気味なセリフに神楽坂が弾んだ調子で合わせると、近藤はそれ以上に弾みをつけて会話を盛り上げにかかる。
横断歩道を渡って右に曲がれば、バス停までは一本道だ。
俺は適当に相槌を打ちながら、思索に戻ることにした。
女性である神楽坂がサイの標的になった経緯は、夜野が落ち着いたら聞き出せばいい。考えられる原因は一つだが、神楽坂に直接「夜野となんかあった?」などと聞けるわけもない。
もう一つおかしなことは、サイがわき目もふらずに校舎を出て行ったことだ。
俺が夜野の殺人糸を目にしたとき、すなわち彼女が教室から出てきたとき、神楽坂はまだ校舎のロッカールームにいた。神楽坂が顕微鏡実習を終えて戻って来たのは夜野よりかなり後だ。学課をそつなくこなしたのは、夜野の内に棲む人格の中でも秀才の麗だろう。冷と麗は二色で一本の人格糸を共有する、いわゆる二重人格者だ。多重人格者の中に二重人格の人格が存在するというなんともややこしい状況だが、少なくとも彼女――彼女らは、自分より先に神楽坂が返っていないことを知っていたはず。
レイによれば、夜野の目で見たものは全ての人格が供しているわけではないらしい。彼女によるとサイは「ひきこもり」らしいので、そうした情報を得られないのかもしれない。基本的に夜野の社会的な立場を守ろうとするレイが、内部でサイに「神楽坂はすでに下校した」などと、嘘の情報を教えたとも考えられた。
「あっ! 今のバス!」
「やべえ! 走れ、糸巻!」
「へ?」
いつの間にか近藤と神楽坂とは距離が開いていたらしい、彼らの鋭い声は、後ろから飛んできた。
と、ほぼ同時に俺の横をバスが通り過ぎていく。
「馬鹿! あれ、乗るやつだって!」
さらに、近藤の罵声がそれに追いすがる。派手なTシャツが矢のように視界を横切った。バス停までは五十メートルもない。バスの停車を予告するウィンカーは点滅しておらず、バス停も無人だった。
「やっべ」
近藤が追い付けなければ、バスはそのまま走り去ってしまうだろう。状況を飲み込めた俺も、慌てて駆け足になる。
「ま、待って~!」
振り返ると、絵に描いたような女走りの神楽坂がいた。スポーツメーカーのスニーカーを履いた近藤と違い、パンプスの神楽坂はとても走りにくそうだったが、運動音痴の俺から見ても、彼女の走りのフォームは酷い。
「ぶはっ」
「えっ? なになに?」
思わず吹き出してしまった。追いついた神楽坂が怪訝と言うよりは、笑われて焦ったような表情を見せた。
「いや、神楽坂の走りって、やべーな」
「ええ、なんでなんで?」
「だってさ、見るからに――」
結局、バスは止まってくれなかった。
汗だくになって走ったが徒労に終わった近藤を労いつつ、俺たちは三十分後のバスを待つ。
レイのまま人ごみに消えていった夜野は大丈夫だろうか。機転を利かせたレイのおかげで神楽坂は守られたが、夜野の中に棲む恐ろしい人格たちの動きを完全に制御することはできない。さっきのことにしたって、どうもうまく行きすぎている気がしてならない。もし、レイとサイ、どちらかが――あるいは両者が――俺に嘘をついていたとしたら。
サイのターゲットは神楽坂ではない別人で、その人物の殺害は、夜野を守るために必要であるとレイも判断していたとしたら――
ふと空を見上げると、根拠のない不安など気にするな、というように、堂々とした入道雲が見下ろしていた。