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2たくさんの糸

 彼女の名は夜野愛。それが彼女の戸籍上の名前であるので、運転免許証や保険証にはこの名前が記載されている。

 夜野は姓を体現したかのような漆黒の髪と瞳をもっている。日本人ならだいたいそうだろうと思うかもしれないが、彼女の身体に発現している黒は違う。彼女の瞳を見ると、底知れない井戸でも覗き込んだような気分にさせられるのだ。いや、もっと深くて、飲み込まれそうな、例えるなら……そう、夜の海だ。見つめられると吸い込まれるような、魂を持っていかれるような感覚に陥る不思議な瞳だが、普段の夜野はそれを半分方伏せてしまっていて、滅多に他人と目を合わせないし口も利かない。

 そんな夜野と俺が出会い、関わりを持ってしまったのは、大学に入学して間もない頃のクラス会という名の飲み会の後の事だった。

 人格糸を見て相手の気持ちの流れや積極性、口に出した言葉と内心の乖離をある程度把握することができる俺は、そうした場に満ちる緊張感や腹の探り合いを見るのが苦手だった。人の命を預かる仕事を志しているとは言っても、俺のような聖人君子ばかりが集まっているわけじゃない。受験戦争を終えて新たなフィールドで、少しでも良い立ち位置を模索している男女の心の内なんて、見えない方がいいに決まっている。

 うわべだけの女たちの互いを褒めちぎる会話、下心を隠した男達が“ノリ”に任せてターゲットの女子に酒を勧める姿、そういった俗っぽい連中から遠ざかり、超然としたフリをした奴らだって、人格糸の動きは隠せない。

 宴会が始まってからずっと、俺はクラスメイト達の注文を取って店員に伝える役に徹していた。

 一次会が終わったら、とっとと家に帰って飲み直そうと思っていた。

 前金制だったので金の心配はしなくてよかった。

 宴もたけなわ。人数を集めて二次会へ行こうとするもの、少人数のグループを形成するもの、恋愛糸を絡めあって、そっと輪の中からフェードアウトしていくもの。彼らの頭の上や腕の周りで蠢く色とりどりの糸を見ていると、いくら酒を飲んでも酔えなかった。


 言わぬが花。


 知らぬが仏。


 内に秘めた想いは口に出さず、本心は知らない方がいい。この二つのことわざは、今でも変わらない俺の座右の銘だ。

 あの日、飲み放題の終了時間を過ぎても長々と居座る連中に、とうとう耐え切れなくなった俺はタバコを理由に店を出た。そこで、見覚えのある人影が二つ、角を曲がって路地へ入って行くのを見てしまった。飲み会開始直後、一人一人自己紹介をしたのでそれがクラスメイトの男女だとわかった。積極的に絡み、腕を引いて歩いていたのが夜野であり、真っ赤な顔でそれに従っていたのは岡本という“がり勉”に見える男だった。

 飲み会の最中に夜野と話す機会はなかった。向こうもこちらに興味がなかったのはもちろんだが、俺は意図的に夜野の近くには座らないようにしていたのだ。彼女はとてもかわいらしい顔立ちをしており、酒をよく飲み明るく笑っていた。それはあどけなさを残す少女のものではなく、男を惑わせて精を吸うという植物の妖怪を彷彿させる姿だった。なぜそんな風に見えたかと言えば、糸のせいだ。彼女は身体全体からピンク色に染まった恋愛糸を生やしていたのだ。

 過去にもナンパ待ちの女やいわゆる「ビッチ系」の女で、複数に枝分かれした恋愛糸を生やしているのを見たことがあるが、あそこまでの大物を目にしたのは初めてのことだった。

 どれが人格糸かもわからないほどの数で恋愛糸を生やしていた夜野。獲物を絡めとろうと蠢くそれに気づかない高校を卒業したばかりの青二才や、二次元でしか女を知らないらしい連中が彼女の周りに群がる光景が、熱帯に咲く食虫花とそれに群がる蝿のように見えた俺は、彼女の触手から逃げるようにして距離を取っていた。


 ついに狙いを定めたらしい夜野が路地の奥へ獲物を引きずり込んでいく光景を、俺は呆然と見送った。その時は、「ああいう男がタイプなのか?」と首を傾げた。

 夜野の周りには岡本よりもよほど遊び慣れていそうな男が多数群がっていた。彼女がそういう手合いと同じ“軽い”女であり、今宵のお相手を探していたのならいかにも野暮ったそうな岡本を選んだのは腑に落ちないことだった。

 しかし出歯亀行為に及ぶつもりはさらさらなかった。俺は二人が消えて行った路地に背を向けて歩き出した。

 直後、小さな悲鳴が俺の足を止めた。

 周囲を見回したが人影はなかった。

 俺の注意は自然と夜野と岡本が消えた路地へ向かった。

 そして、そこからゆっくりと出てきた女の姿を認めて驚愕に目を見開いた。

 暗がりから出てきたのは夜野じゃなかった。

 腰まで伸びた艶やかな黒髪、黒を基調にした裾にレースをあしらった膝上丈のワンピース、そこから伸びる陶器の様に白い手足。

 外見は間違いなく夜野愛のものだった。

 だが飲み屋街のネオンを浴びて、長い髪を左手で掻きあげながら歩いていたのは、先ほどまでとは全く違う人格糸を生やした女だったのだ。







 俺を無視してどんどん歩く夜野の頭頂部には青大将くらいの太さの真っ黒な人格糸が生えていて、その先端は追いすがるこちらを威嚇するように鎌首をもたげていた。今の夜野の身体を支配しているのは、(サイ)と名乗る少年の人格糸だ。本人によれば年齢は十四歳。男女の性行為に対して異常なまでの嫌悪感を持っていて、夜野が男と身体を重ねた翌日に現れることが多い。サイは夜野と関係を持った男に“罰”を与えるために目を覚ます。夜野によれば行為の最中に現れたこともあるそうだが、その時のお相手の気持ちを想像すると同情を禁じ得ない。

 サイの足取りには一切の迷いがなく、彼の右手に絡みつく粘着性の糸はわさわさと急かすように蠢いていて、それは獲物を求める節足動物の足のようにも見えた。サイの視線の先にはキャンパスを出て帰路に就く学生たちの群れが在った。どうやら、その中の誰かに狙いを定めているらしい。


「サイ。待て、待てったら!」


 サイはあっという間にキャンパスを出た。人類の叡智の結晶であるエアーコンディショナーの支配が及ばない外気と気を失いそうなほどの日差しに一瞬たじろいだが、彼を止めないと大変なことになる。


「……うっせぇなあ」


 サイが振り返って無駄に大きい真っ黒な瞳――明らかに瞳孔が開いている――で睨み付けてくる。

 俺はできるだけサイを刺激しないよう、そして彼が隠し持っているだろうナイフが届かない距離を保ったまま慎重に話しかけた。


「ダメだぞ」

「……なにがダメなんだよ」


 サイは右手の小指で、夜野の耳をほじくる。普段の夜野はこんな下品なことは絶対にやらない。


「わかっているぞ。誰かを殺そうとしているだろ」

「んなこたねーよ」


 サイはわざとらしく被りを振った。

 糸が見えているのは知っているだろうに、とぼけた奴だ。俺の目には強い殺意を持つものにしか現れない「殺人糸」がはっきりと見えている。


「お前がそういうやつだってことは分かってるんだ。愛――夜野のためにもお前の自由にはさせない」

「うえっ。ナイト気取りかよ」


 サイは舌を出して嘔吐する真似をしてみせた。舌の粘膜は青白い顔に似合わず健康的なピンク色だった。


「なんとでも言え。とにかく夜野が社会的に不利な立場になるようなことはやめるんだ。奴らに目を付けられてもいいのか」

「っせえな。バレねえようにやるさ」


 未成年だし、と言って首を傾げて舌を出し、肩を竦めるサイ。彼はスカートのポケットを撫でながら――どうやらそこに得物(ナイフ)が入っているらしい――、「こいつがなあ、泣くんだよ。血を吸いてえってなあ」と言った。大げさで芝居がかった動きは何かにかぶれた中学生男子そのものだ。これが夜野の天才的な演技ならよかったのだが。


「無駄だ。この辺りで何かが起きれば、十中八九うちの病院に担ぎ込まれるし、警察はそんなに無能じゃない。加害者のお前が未成年のつもりでも、身体は愛のものだ……捕まれば少女Aにはしてもらえないんだぞ」


 サイは愛の存在を認め、彼女を護ろうとして動いているのだ。彼を含めて知り合ってからは、これ見よがしに殺人糸を撒き付かせて俺の前を通るようになった。


「…………」


 夜野が急に押し黙り、がくりと首を下に曲げた。


「サイ? どうした――あっ」


 夜野は俯くと、長い前髪で表情が覆い隠されてしまう。俺が思わず声を発したのは、その頭頂部から生えていた人格糸が揺らめき、形を変えようとしていたからだ。人格の転換が起こる瞬間だった。


「都合が悪くなるとすぐに引きこもる。成長しない人ね」


 ほんの数秒でそれは終わり、顔を上げた夜野の人格はまたしても別人のものに変わっていた。

 髪をかき上げて嘆息する夜野の頭頂部にあった、太く黒光りする蛇のようだった人格糸は、細く青白いものに変わっていた。柳のようにしなやかで、カミソリのような鋭さを感じる、そんな青だった。


「お久しぶりね。糸巻さん(・ ・)


 彼女はレイと名乗っている。冷静で冷淡。夜の中に同居しながら周囲の人格の情報を集めて分析することを趣味としている。表立って活動することは滅多にない、と自分で語るほどレアな人格だ。


「レイ? どうして君が」

「サイの標的……知りたいでしょう」


 人格が変わるとこうも人相が変わるものか。レイは真夏の暑さを感じさせない、しかし清流のような爽やかさとも違う冷たい微笑みを浮かべ、サイの標的――夜野の内に棲む誰かと関係を持った男の名を告げた。


「それじゃ、ね。糸巻さん」


 レイは言うだけ言うと、踵を返して歩き出した。彼女は滅多に現れないが、俺と同じく夜野を犯罪に巻き込みたくないと思っている。現にこうして、ターゲットから遠ざかるために移動を始めたのだ。


 右の尻ポケットに振動を感じて、そこに携帯電話がしまってあることを思い出した。


『ケイく~ん どこ?? ごはん、いかないの~?』


 無料チャットアプリの新着メッセージは、神楽坂からのものだった。


『わりい! ちょっと急用だった』


 素早く打ち込みながら、レイの姿が人ごみに紛れて見えなくなったのを確認して、俺は振り返った。


『もう、大丈夫』


 キャンパスの出入り口から、神楽坂と健が連れ立って出て、こっちに向かって手を振っていた。

 俺はもう一度、下校していく学生の群れに目をやって、そこに夜野の姿がないことを再確認する。神楽坂の姿を目にしたら、またサイが目を覚ますかもしれないからだ。




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