1三本の糸
俺の名は糸巻慧。
探偵だ。
嘘だ。
じゃあ職業は、と問われれば未来の医者だ、と答えよう。
これは嘘じゃない。
まだ医学部の二年生だから、医者ではない。しかし将来的には医者になる可能性が高いんだからな。嘘は言ってないだろう。ちなみに医学部と言っても、三流私立に三浪してやっとこさ入れたんだ。はっきり言って、俺は頭が良くない。
身長170センチ、体重55キロ、体脂肪率13%、髪の色、瞳の色はともに黒。顔の出来はまあまあだと思う。ただ、ちょいと目つきが悪いのを伊達メガネで誤魔化している。持病はなし。おたふくは小学生の時にかかった。蟯虫検査で陽性だったことはない。
普通の人間だよ。他人には見えないあるものが見えるってこと以外は。
幽霊? まさか。
妖怪? おいおい、マンガかアニメの観すぎじゃないのか。
俺の目に見えているのは、神さまでも悪魔でもないぜ。
糸だ。
糸が見えるんだよ。
皆知らないだろうが、人間の身体には三本の糸が生えてるんだ。
一本は頭のてっぺんから。
国民的雷オヤジよろしく、風にそよいでゆらゆらと。その人の性格や嗜好によって色分けされた糸を、俺は「人格糸」と名付けている。これは本当に人によって様々な色をしているし、人によっては成長過程で変化することもあるんだぜ。
「よお、糸巻! メシ食いに行こうぜ!」
例えばこいつ。医学部に入ってから知り合った連れの近藤健は、頭のてっぺんから黄色い糸を生やしている。彼の糸はどれも力強く、髪の毛十本分はありそうな剛糸だ。それは、授業中は力なく垂れ下がり近藤が舟をこぐ動きに合わせて揺れているくせに、こうして放課後になると勢いよく天を突く。快活な性格の奴は、こいつのように明るい色の糸を発現していることが多いんだな。
「……なんだよ、人の頭をじろじろ見て――まさか!」
近藤がアッシュ系の茶色に染まった髪に覆われた頭頂部を押さえてハッとした。おしゃれに気を使っているこいつは、髪の色を月一で変えているが、組織学実習で皮膚の切片を観察したとき、講義担当の講師が毛髪の脱色等による毛根へのダメージについて話して以来、若ハゲを気にし始めた。ネタにしているだけで本気でないことは、糸の様子を見なくても、カメレオンのごとく髪色を変えるのを止めていないことから想像できた。
「大丈夫だ。禿げてねーから」
とりあえずそう言ってやると、近藤は安堵のため息をついた。頭頂部の糸も緊張を解いて、再び扇風機の風に揺られ始める。
こんな風に、人格糸はその人の性格や精神、肉体の状態を反映している。これが見えているおかげで、俺は今日まで対人関係を大きく悪化させることなく生きてこられた。まあ、糸が見えるようになってからその意味を把握できるまでには色々と苦労もしたんだが、それは置いておこう。
「“風来亭”でいいよな? 早く行こうぜ」
まだ飯を一緒に食うと決めてもいないのに、勝手に行先まで決めた近藤が、脱いだ白衣を丸めてしまい込んだロッカーの扉を乱暴に閉めて歩き出した。苦笑しながら後を追う。
「あ、ケイ君!」
男子ロッカールームを出ると、教科書とノートの束を抱えた神楽坂清美と出くわした。
人懐っこい子犬の様なキャラクターの神楽坂の人格糸の色は、オレンジだ。栗色の髪の間からそれが生えている姿はまったくもって滑稽なのだが、糸が見えるようになってもう十年以上経つ。見ないようにすれば糸は気にならないし、神楽坂のような美貌とスタイルの持ち主なら他に見るべきところはいくらでもある。
くりっとした大きな目、下がり気味の眉がついついかまってやりたくなる彼女のキャラクターによく合っている。ぽってりとした唇はルージュを使っているわけでもないのに艶やかで、そこから紡ぎだされる声で「ケイ君」などと呼ばれると心が躍る。
「清美ちゃん、お疲れ! 今から帰り?」
「あ、タケル君……うん、そう。ロッカーにこれを置いたら、帰るよ」
神楽坂に馴れ馴れしく呼びかけたのは、声をかけられた俺ではなく近藤だった。彼女が使う二人称は基本的にファーストネームだ。いきなり呼びかけられるとそわそわしてしまうが、彼女に悪気はない。誰が誰に好意を寄せているのかがわかる俺は、近藤の左手の薬指から伸びる赤い糸が、必死に神楽坂の身体に触れようともがいているのを見て周囲に気づかれないように嘆息した。
そう、三本の糸のうち二本目がこれだ。
俺が見てきた中では、全ての人が赤だった。太さや表面性状、動きに個人差がはっきりと出るそれを俺は「恋愛糸」と名付けている。
これは、ただの運命の赤い糸というわけではない。
太さは思いの強さを表し、表面の性状はどのような愛情を抱いているか、そしてどんな性生活を望んでいるかを反映している。
近藤のそれはやはり太く、一直線に神楽坂の白衣の上からでも大きいとわかる胸の辺りに突き進んでいった。しかし相手の糸を見つけることができず、近藤の恋愛糸はむなしく空をさ迷う。
好意を寄せている相手を見つけると、左手の薬指からにゅるにゅると伸びてくるのは皆に共通している。相手も同じ気持ちのときは、お互いの糸が絡み合ったりちょうちょ結びのようになったりする。そうなれば相思相愛。カップル成立だ。
得てして糸の性状が似通ったもの同士がくっつくものだが、希に全然違う糸同士が絡み合っていることもある。夜を重ねるごとにマッチングしていくのか、いつの間にか同じような糸になっているカップルを見つけたときは、少々吐き気をもよおした。
「よかったら、“ル・マン”に行かないか?糸巻とメシ食おうって言ってたんだ」
さっきは男子学生御用達の風来亭に行くと言っていたくせに、近藤は学生街から少し離れた海沿いのカフェへと目的地を変更していた。あえて、そこには突っ込まない。近藤のアプローチが成功するように手伝ってやれば、今夜は煮魚定食ではなくバジルソースのかかったフリットとクラフトビールにありつけるのだから。
「ル・マンまで行くのぉ? う~ん」
神楽坂の人格糸がクルクルと回り始めた。こういう時は、迷っているフリをしているのだ。人格糸は正直だ。誘いに乗り気でないときは話している相手から遠ざかるように動く。神楽坂の暖色の糸はゆっくりと、むしろ誘うように動いていた。
「でもぉ、課題があるし」
近藤の人格糸が力なく垂れ下がった。恋愛糸は相変わらず猪突猛進しているが。
俺は近藤のわき腹をつつき、一歩前に出て打開策を展開してやることにした。
「神楽坂、生化学の課題なら先輩の資料がある。行きがけか、帰りにコピーして行くといいぜ」
「本当!? ありがと~、ケイ君! じゃあ、片付けてくるね?」
神楽坂が魅惑のヒップを振りながら女子ロッカールームへと消える。
「助かったぜ」
名残惜しそうな恋愛糸を飼い犬のリードのように垂らした近藤が目配せしてきた。
「一杯おごれよ」
「御意」
やれやれ。
近藤は提灯アンコウの疑似餌に引っかかる小魚のようだ。
しかしル・マンで美女を肴に一杯やれるのは在り難い。神楽坂は化粧でもしているのかまだ出てこない。女子ロッカールームの出入り口に目をやった俺は、ある人物の姿とそいつの身体から生えた見えざる糸を認めて凍り付いた。
「どした?」
「近藤……俺はちっと、急用ができた」
「おい! メシは――!?」
背中にかかる近藤の声が一気に遠くなる。なぜなら俺は走っているからだ。
「待てよ。夜野」
普段俺は、女性の肩を無遠慮に掴んで呼び止めたりしない。しかし、今の夜野にそんなデリカシーは無用だ。
「……さわんじゃねーよ」
振り返りざま、乱暴に俺の手を払った夜野はさらに険悪な目で俺を睨む。女子とは、いや、もはや人間とすら思えない獣のような気配が全身から漂っている。俺は慎重に距離を取りながら諭すように話しかけた。
「夜野……そこにいるんだろ? また殺が動いているぞ」
「ちっ。呼ぶんじゃねーよ。やっと寝かしつけたんだぜ?」
夜野が漆黒の髪とスカートを翻した。
行かせるものか。
彼女の右腕には蔓植物の様な形状の糸が絡みつき、蠢いていた。
三本目の糸。それはめったに見かけることはない、強い殺意を抱くものの利き手に現れる。
俺はそれを「殺人糸」と呼んでいる。