Q
☆当作品はサイトからの転載です。
がしゃん、と何かが割れる音が聞えた。キッチンからだ。
前日から続いていた右肩の酷い肩こりがふっと軽くなった。やれやれと貼り付いたトクホンをそろそろと剥がしていたときのことだ。まさか泥棒? 俺は恐る恐るキッチンを覗きこんで蛍光灯のスイッチを入れた。
信じられないことに皿が数枚、ちょうど一メートルほど向こうに俺の目の高さで宙に浮いている。初めは何だかマジックでも見ているみたいな現実感の無さに頭の中がまっ白になった。これって何なんだ? まさか幽霊? 冷静にそう考えた途端、急に怖くなった。心臓がばくばくして身体が熱くなり、逃げ出したいのに足が床に張り付いたように動かなくなってしまった。
突然、皿の一枚が壁目掛けてUFOよろしく突進した。派手な音がして皿が粉々に砕け落ちる。飛び散った破片が弾丸のように俺の右腕を掠る。一直線に出来た傷口から血が滲み、流れ出した。
「い、いててててて!」
突然襲ってきた痛みに恐怖心が薄れ、傷口を押さえて後ずさりした途端、棚の上にあった胡椒の瓶が宙に浮いた。おいおい、何なんだよ、これ。ひょっとしてポルター何とかって奴かよ。冗談じゃねえよ、何で俺の部屋に出るんだよ!
慌ててキッチンから走り出た時、頭の上にこつんと軽い衝撃を感じた。目の前を茶色っぽい雲が覆う。次の瞬間、目と鼻を強烈な刺激が襲った。
「ぶあああくしょ―――ん!」
涙とくしゃみと咳に苦しんでいるうちにわずかに残っていた恐怖の感情が消えうせて、代わりに激しい怒りが湧き上がってきた。
「てめえ! いい加減にしろ!」
思わず大声で怒鳴った途端、空気がびくっと震えた気がした。
「何の権利があって俺のものを壊すんだ! 掃除だって大変なんだぞ!」
床の上に散乱していた胡椒の粉がアメーバーのように動いて床の上に字を作った。
『SORRY』
英語? まさか……。俺はこいつが何処から来たのか、ようやく見当がついた。
そっとキッチンを覗くと皿は棚に戻り、ゴミ箱には皿の破片が入っていた。
ポルターガイスト。騒霊。そんなものは外国の大きなお屋敷に出るべきものだ。東京のアパートにふさわしい存在じゃない。そう、まさにそれだ。外国の幽霊だ。だとしたら、原因はひとつ。姉貴だ。
前日の土曜日、イギリス旅行から帰ってきたばかりの姉貴が、お土産を持ってやってきた。齢三十をはるかに超えた姉貴はいわゆるキャリア・ウーマンで、大学生の俺の部屋に時々押しかけてくる。顎の線できっちりと切りそろえた濃い茶色の髪、いかにも頭の切れそうな銀縁の眼鏡を掛けた姉貴の七緒(実際、別の意味でよくキレるのだが)のお土産はギラギラ光るピンクのハートがプリントされた真っ赤なランニングだった。
「いいでしょ? これ。すんごくポップで」
「いや、そういう問題じゃないだろ。ってか、こんなの俺、着れねえぞ!」
「あ~ら。もしかしてせっかくのお土産を着ないなんて、まさかそんなことしないわよねえ、和哉くん?」
姉貴の上目遣いの視線が突き刺さってくる。しまった。もし着なかったらお土産代の倍のお金を請求される。姉貴はそういう奴なのだ。
「……判ったよ。着ればいいんだろ、着れば」
「そう。今すぐ着なさい。着ないとシャツを脱がせるわよ!」
冗談じゃなく、姉貴はこういう場合、俺を押さえつけて本当にそうするのだ。抵抗をしようにも学生時代に空手をやっていた彼女には絶対敵わない。俺はしぶしぶ着ていたシャツを脱いだ。
「あら、似合うじゃない。マクレーン刑事みたいよ」
「それってどんなダイ・ハードだよ」
でかすぎるランニング。何だか自分が超派手な裸の大将になったような気がした。こうなったら麦藁帽とおにぎりが欲しい。
「いいじゃない。たまにはファッションも冒険しなくちゃ。ああ、やだ。それにしてもなんか肩が重いのよね~。夕べはしっかりトクホン十枚貼って寝たのにまだ重いのよう」
姉貴はしきりに肩を揉みながら顔を顰めた。そういえば強いメンソールの香りが部屋中に漂っている。
「それって単なる疲労でしょ? 遊びすぎなんだよ」
「なによ~。今じゃなきゃ一人旅なんて絶対ムリなんだからね。結婚しちゃったらそうはいかないんだから」
「結婚できれば、の話だろ?」
「こら! 言ったな!」
姉貴が笑いながら掴みかかってきた瞬間、ふっと部屋の灯りが消えたのだ。と、同時に俺の肩が強く押さえ込まれたように重くなった。
「嫌~、何よ~」
「いや~じゃねえよ。止めてくれよ、姉ちゃん!」
俺は手で探りながらようやくスイッチを探し当てて灯りをつけた。
「何だったんだ? 停電かな?」
「ねえ、何だか急に肩がすーっと軽くなったみたい」
「……ほんとかよ! 俺は今、肩が急に重くなったんだよ。姉ちゃんの肩こりがなんでこっちに移るんだよ~!」
「さあ~。ま、とにかく気持ちよくなったわ。よかった~」
それから姉貴は旅行中のどうでもいい出来事を延々と喋り始め、肩こりの話はあさっての彼方に飛んでしまっていた。
俺はすぐさま姉貴に電話を掛けた。
「ねえ、和哉。まさかあたしをからかってんじゃないわよね?」
「違うよ。本当だってば!」
「怖いわねえ。まるで映画みたい。でも……あ、もしかしたら……そうよ。きっとそうだわ!」
姉貴は旅行の最後に泊まった宿について話し始めた。そこはロンドン郊外の小さなインで、気ままな一人旅だった姉が旅行会社で予約した安宿だった。古ぼけた石造りの建物で、姉貴が泊まった部屋は嘘みたいに宿賃が安かったそうだ。泊まった翌朝、何となく肩が重くなった姉貴は、満面に意味ありげな笑みを浮かべた宿の主人に「サンキュー」とお礼を言われたそうだ。
「持ってきちゃったんだわ。あの髭面の出っ腹野郎。私に憑いてるのが分かってたんだわ!」
「ち、ちょっと待ってくれよ。持ってきたって何の話だよ!」
「地縛霊よ。あたしが泊まった部屋にいたに違いないわ」
「ええ―――!」
冗談じゃない。そんな馬鹿なことってあるもんか!
「じゃあ、なにか? イギリスのど田舎のポルターガイスト野郎が俺んちに来たってのかよ! おい! 姉ちゃんが持ってきたんだから責任持ってどうにかしてくれよ!」
「あ、ごめん。ちょっと急用が出来ちゃった。じゃね」
ぶちっと電話が切れた。と同時にがつん、と頭に何か硬いものが当たった。
「いて! 何だよ!」
ぶつかったのは洗面台に置いてあったはずのシェービングクリームだった。床に落ちたクリームを頭を擦りながら拾う。ふと見ると先ほどの胡椒がまた別の文字を形作っていた。
『Give me a lipstick』
口紅? 口紅が欲しいのか? っていうことはこいつは……。
「アーユーウーマン?」
何とも情けない英語だ。だが、床の上の文字は変化しなかった。
俺はすぐにコンビニに行って濃いローズの口紅を買ってきた。
そのまま包装を取ってテーブルの上に口紅を置くと、やがてそれはふわりと浮き上がって、バスルームの方へゆっくりと移動していった。洗面台の上の鏡に近付くと、キャップが外れ、色鮮やかな紅が繰り出される。鏡の上を紅が滑る。やがてひとつの文字を書くと口紅はぽとり、と下へ落ちた。
『Q』
Qって、いったいどういう意味なんだ。
その晩はもう、それ以上そいつが暴れることはなかった。
翌日、俺はまた肩が重くなったが、かまわずに本屋で世界の妖怪について書かれた事典を立ち読みした。その結果分かったのはあの迷惑な奴は「クイックシルバー」という女のポルターガイストだということだった。家中のものを撒き散らし、甲高い笑い声を上げ、鏡に口紅で『Q』の文字を残していくのだという。笑い声以外はぴったり当てはまる。まったく姉貴はイギリスから、とんでもないお土産を持って帰ってきてくれた。
どうしたら追い払えるだろう? だが、その方法みたいなものはどの本にも書かれていない。仕事で香港に行っている母さんに聞いてみようかと思ったが、止めておいた。
軽く舌打ちして本を戻そうとした時、俺の横に誰かがひょいっと顔を出した。
「あんたが本見てるなんて珍しいわね、和哉。ポルターガイストはどうなった?」
黒いタンクトップにジーンズ。姉貴だ。
俺は急いで本を戻すと出口の方へ歩き出した。
「まだいるよ。俺の肩に乗っかってるよ。それより仕事はどうしたんだよ、姉貴」
「昨日、休日出勤したから今日はお休みなの。で、本屋に来てみたらあんたがいたってわけ」
姉貴は俺の前に回ってくると、真剣な顔で俺を見つめた。
「とにかく、早く祓い落としたほうがいいわね」
「まったく迷惑な話だよ。何かいい方法がねえかな? 姉貴。やっぱり霊能者とかに頼まないと駄目かな」
「そうねえ。ポルターガイストなんてモンスターみたいなものだもの。やっぱり素人には無理よねえ」
その時だ。突然、肩が軽くなったかと思うと書棚にあった本がいっせいに飛び出してきて、空中を鳥の群れのように飛び交い始めたのだ。そのうちの数冊が矢のように俺達の方に飛んでくる。俺は姉貴の手を取って走り出した。
「きゃ!」
姉貴が後ろで悲鳴を上げた。振り向くと、彼女の頭から血が流れているのが見えた。店内のあちこちから悲鳴が聞えてくる。ちくしょう。またあいつだ!
「止めろ! 馬鹿やろう! もうお前なんか無視してやるからな!」
立ち止まり、そう叫んだ途端、本は一斉に床に落ちた。
「ねえ、これ、何? もう、冗談じゃないわよ!」
今にも泣きそうな声で姉貴が叫んだ。頭から流れた血が顔に真っ赤な筋を作っている。俺は慌てて携帯で救急車を呼んだ。
姉貴の頭の傷は幸い、それほど酷くなかった。怪我の治療をしてもらって病院を出た後、俺達は近くのコーヒーショップに入った。俺は鏡に書かれた文字のことや本屋で読んだクイックシルバーのことを姉貴に話して聞かせた。姉貴はコーヒーを啜りながら真剣な顔で聞いていたが、やがて俺の肩を指差して呟いた。
「じゃあ、今、そこにいるのは女の霊なのよね?」
「そういうことになるね」
「外国人だし、日本語は分からないんだろうけど、何かやってる時にあんたが怒って叫ぶと止めるのよね?」
「そういえば、そうだね」
「だったら、無理やり祓い落とさずに優しくしてあげたほうがいかもね。女ってデリケートなものなのよ」
「優しくしたら、出て行ってくれるかな?」
「さあね。それは判らないけど。あたしももう少し調べてみる。後で連絡するわ」
さっさと席を立って出て行こうとする姉を俺は呼び止めた。
「姉貴」
「え? 何?」
「怪我させちゃってごめんな」
「あんたのせいじゃないでしょ。気にしなくっていいわよ」
そう言いながら、姉貴は考え込んだような顔で俺の肩を見つめる。
「さっきあたしが余計なことを言ったから、彼女は怒ったんだと思う。きっと生きてる人間の女の子と同じ感情を持ってる。そう考えた方がいいわよ、和哉」
アパートに帰り、階段を上りきった時、俺の隣の部屋のドアが開いたのが見えた。出てきたのはグレーのスーツの中年男。そいつは俺のほうを不機嫌そうな顔で睨むと足早に階段を降りていった。ドアは開け放したままだ。隣はOLの高梨さんの部屋。彼女は一人暮らしのはずだ。自室のドアの前でふと振り返ると、隣から高梨さんが出てきた。俺の顔を見るとちょっとバツが悪そうな顔で微笑んで会釈した。俺も軽く頭を下げる。ドアを閉め、鍵を掛けてさっきの男の後を追うように階段を駆け下りていく。あの男は彼女の恋人だろうか。何だか嫌な感じの奴だ。
部屋に入りソファに腰を下ろすと、ふっと肩が軽くなった。優しくしてやれだって? 冗談じゃない。相手は霊じゃないか。
コンビニで買ってきた弁当を食いながら、テレビを見た。つまらない純愛ドラマだ。これからどうしようか。霊能者とか、悪魔祓い師とか、姉貴が見つけてきてくれるんだろうか。いや、却って高くつくかもしれないから自分で探して頼んでみたほうがいいか。
画面ではお洒落な二人がお洒落なカフェテリアでコーヒーを飲んでいる。淹れたてのコーヒーのいい匂いがする。
え? 匂い? ふと見るとテーブルの上には湯気のたったマグカップ。ひょっとして……彼女が淹れてくれたのか。思わず上を見上げた。馬鹿だな、俺。見えるわけがないじゃないか。
「……ありがとう」
小さく呟くと、空気が頷くように震えた。俺はふと思いついてバスルームに行き、洗面台の前に立った。鏡に向かって語りかけてみる。
「ホワッチャーネイム?」
怪しい英語で聞いてみると、口紅が宙に浮き文字を書き始めた。『Q』と。
本当にそれが名前なのか? なぜか俺は違うような気がした。
「フー・アー・ユー?」
一語、一語、ゆっくりと語りかけると、口紅はしばらく躊躇うように宙にとどまり、やがて一気に文字を綴り始めた。びっしりと鏡を埋め尽くした文字。口紅がぽとりと床に落ちると、俺はノートを持ってきて、その文字を書き写した。その晩、辞書を睨みながら翻訳した文章を俺は何度も読み返した。
彼女はイギリスの小さな村に住む平凡な少女だった。だが、十三歳の頃、不慮の事故で顔の半面を火傷してからは学校にも行かなくなり、家に閉じこもってしまった。十八歳になった時、彼女は窓の外を通る近所のハンサムな若者に恋をしたが、ある日、窓から首を出した彼女の顔を見た若者は化け物でも見たかのように叫び声をあげて逃げてしまったのだ。その夜、彼女は家の中で首を吊った。自殺した彼女は天国に行けず、クイックシルバーという精霊になって彷徨うことになった。もう八十年も前の話らしい。自分の名前は思い出せないそうだ。
「可哀そうに」
そう呟いた時、俺の周りの空気が少しだけ湿り気を帯びたように感じた。肩が軽くなり、俺は急いでバスルームに向かった。床に落ちていた口紅がまた浮き上がる。鏡にゆっくりと書かれた文字。
「I'm not a monster」
そうか。今日、彼女は姉貴の「モンスター」という言葉に傷ついたのか。
それから、俺とシルビィ(名前がないので俺が勝手につけたのだ)との奇妙な同居生活が始まった。
シルビィは普段はただ漂っているだけなのだが、時々、俺にコーヒーを淹れてくれたり、部屋の中の欲しいものを取ってきてくれたりした。一日一度は口紅を使い、語り掛けてくる。彼女は何でも知りたがった。日本という国のこと。故郷のイギリスのこと。一緒に見たテレビのこと、そして、俺自身のこと。口紅が減ってしまうとまた別のやつを買いに行って取り替えた。俺は英語が得意じゃないので結構大変だったが、彼女の方も俺の身振り手振りを混ぜた簡単な日本語なら分かるようになってくれていた。言葉で伝えられない複雑なことは紙に下手糞な英語で書いて見せた。通じないと鏡に『?』の文字が書かれる。まあ、いいじゃないかと笑って誤魔化すと、彼女はちょっと不満そうに軽く俺の頬を突付いた。
夏休みが終わると、俺が大学へ行っている間はシルビィは部屋の中で待っていてくれた。でも、とびきり天気のいい日には彼女を肩に乗せて大学に行った。授業が終わると、待っていたシルビィを肩に乗せてキャンパスの木々の間をのんびりと歩く。風の匂いが鼻をくすぐっていく。さやさやと聞えてくる葉ずれの音。それらをどの程度感じているのかは分からないが、彼女がとても喜んでいるのが肩から伝わってきた。
冷たい雨の降る日には、彼女は俺にそっと身体を摺り寄せてきた。実際、身体なんてものはないのだが、彼女の気配を感じ、か細い手を握ることさえ出来たのだ。
時々彼女を繁華街に連れて行った。ショーウィンドーを彩る服や靴やバッグを、肩から離れた彼女はいつまでも眺めているようだった。
ある日、ちょっと可愛い感じの女の子が前を歩いていた時、彼女は素早く女の子の周りをぐるりと回った。服や髪が強風に煽られたようにはためいた女の子はびっくりして立ち止まり、きょろきょろと辺りを見回している。肩に戻ってきたシルビィは悪戯っぽく俺の頬を突付いてきた。か細く、頼りなげな指にそっと手をやると手の甲にぽつり、と水滴が落ちてきた気がした。だが濡れてはいない。これは雨なんかじゃない。
「もう帰ろうか」
シルビィがこくり、と頷いたのが気配で判った。
彼女はどんな顔をしているんだろうか? きっとここに歩いている誰よりも美しいに違いない。その晩、俺は彼女の夢を見た。シルビィは普通の女の子みたいに綺麗なワンピースを着て俺に手招きをしている。早く傍に行こうと足を速めても、彼女は全然近づいてこない。顔が見たい。声が聞きたい。焦れば焦るほど彼女の姿は遠ざかり、そして消えてしまう。まるで、もともと存在していなかったかのように。
シルビィとふたりで花火大会にも出かけた時のことだ。夜空に咲き誇る色とりどりの花火を、彼女は俺の右肩の上で微動だもせずに眺めていた。花火大会の会場は大勢の見物客でごったがえしていた。大きな花火が上がるたびに歓声が上がる。彼女もきっと小さな歓声を上げているのだろう。その時、誰かが俺の背中を強く蹴ってきた。振り向くとそこにはだらしなく浴衣を着た金髪の目付きの悪い男と、化粧が派手で脳みそがなさそうな女のカップルがにやにやしながら立っていた。
「おい、おめえ、そこどけよ。怪我したくなかったらな」
俺はシルビィの為に何時間も前から広い公園の中でも一番眺めのいい丘の頂上にシートを敷いて、夜が来るのを待っていたんだ。こんな奴らに取られて堪るもんか。俺は立ち上がると振り返って男の方を睨みつけた。
「いやだね。自分で探せばいいじゃないか」
「だから、見つけたんだよ。わかんねえ奴だな!」
男はいきなり俺の顔を殴りつけたので、俺はその場で尻餅をついてしまった。
「おらおら、さっさとどけよ!」
そう言いながら、周りの人間を睨みつける。周囲の人は係わり合いになりたくないのか、目をそらすばかりだ。
「やるじゃん、ケイジ」
空いた場所に女がさっさと座ってしまい、男は俺の横っ腹を思い切り蹴飛ばしてきた。あまりの痛みに声も出ないが、このまま引き下がるわけにはいかない。悔しさに涙が出そうになった時だ。肩がふっと軽くなり、笑いながら花火を見ていた女が突然、悲鳴を上げてあお向けに引っくり返った。驚いた男が女を起こそうとした途端、男の髪がぱかっと外れてロケットみたいな凄い勢いで地面を転がっていった。どうやらヅラだったらしい。突然スキンヘッドになった男は泡を食い、女を置き去りにしてヅラを追いかけようとしたが足元の見えない何かに躓いて転び、顔面を硬い地面にしたたかに打ちつけた。女が慌てて立ち上がろうとすると今度は蹴飛ばされたようにお尻が跳ね上がった。二人は悲鳴を上げながらヅラの後を追って走り去っていく。周りはもう爆笑の嵐だ。俺はほっとして元の場所に座りなおす。
「やったな。ありがとう、シルビィ」
ちょっと親指を立ててウインクすると、誇らしげに、でもちょっと恥ずかしそうに彼女が震えた。
シルビィは天国に行くことが望みだった。その為には、死んで浮かばれない魂を天国に送らなければいけないのだと言う。そうすれば、自分の名前も思い出せるらしい。俺は彼女を連れて暇を見つけては街中を歩き回ったが、そうそう浮かばれない魂なんて転がってるもんじゃない。いや、むしろ見つからない方がいいとさえ思った。もう彼女を追い払う気はなくなっていた。別れたくなかった。いつまでも傍にいてもらいたかった。
「どうしたの? 顔色が悪いわよ」
冷たい風の吹き付ける公園で三ヶ月ぶりに会った姉貴は、寒そうに肩を竦めながら俺の顔を見て心配そうに顔を曇らせた。姉貴はなにかと忙しいらしく、ずっと会ってはいなかったが俺に時々電話やメールをくれた。
なんだかとても疲れやすくなった。食欲もないし、自分でも明らかに身体が弱って痩せてきていると感じていた。十月三十日。
「ひょっとして、あの霊のせいじゃないの? まだ追い払ってないんでしょ?」
「違うよ。シルビィは何もしていない」
「あのね、和哉。あんたのことは気になってたんだけどあれから仕事が忙しくなってね。ごめんね。で、最近、ようやく落ち着いてきたから霊のことをいろいろ調べてみたんだけど、『牡丹灯篭』って話、知ってる?」
「いや。聞いたことあるような気もするけど、よく知らないな」
「江戸時代の話なんだけどね、死んだ女の人の霊が恋人に会いにきて、最後には恋人をあの世に一緒に連れて行っちゃうの」
「それって作り話だろ?」
「そうかもね。でも、もうこの世のものでない霊はあまり近付きすぎると、本当に生きてる人間の生気を奪ってしまうんだって。『実話・悪霊の恐怖』って本に書いてあったのよ。あたしもそんなこと実際にあるわけないと思ってたけどね。今日、あんたに会うまでは。ねえ、このままじゃ、ほんとに死んじゃうよ、和哉!」
死ぬ? 俺が?
「そんな……俺が死ぬわけないじゃん。それにシルビィは悪霊なんかじゃないよ」
はは、と笑って誤魔化そうとしたが、姉貴は真剣な顔で俺を見ている。
「あんたは優しいから追い払えないのよね? だったら、あたしが追い払うわ」
「な、なんでだよ! 関係ねえだろ! シルビィは……」
「可哀そうだっていうの? 彼女はもうとっくに死んでるのよ!」
喚く姉貴を無視して俺は歩き出した。頭がふらふらする。死ぬなんて……そんなことあるはずがない。
翌日。世間ではただのカボチャ祭りと思われているハロウィンの日。コンビニに買い物に行って帰ってきた俺は、部屋に入る直前、強烈な眩暈がして廊下に倒れこんでしまった。気分が悪い。どうにか手をついて立ち上がった時、「大丈夫ですか?」と声を掛けられた。ブルーのパンツスーツに長い髪の女性。高梨さんだ。一緒にいるのは例の中年男だ。彼女の顔は少しだけ疲れているように見える。
「ええ、大丈夫です。ありがとうございます」
「そうですか。よかった」
そう言うと、俺の返事を待たずに部屋のドアを開けた。バタン。ドアが閉まる音が強烈に頭に響いてくる。ゆっくりと自室のドアを開け、中に入った途端、キッチンの床にへなへなと座り込んでしまった。疲れた。まるで登山でもしてきたような疲れ方だ。大きく深呼吸をして冷蔵庫を開け、コーラを飲んでいると、シルビィが俺の傍に近付いてきた。心配そうに俺の周りをぐるぐる回っている。
「心配しなくていいよ、シルビィ」
居間に入り、ベッドに倒れこんだ俺はそのまま眠り込んでしまった。
どすん、と何か大きな音が聞えた。またシルビィが暴れているのだろうか?
俺のベッドは隣の部屋との境の壁にぺったりとくっつけて置かれている。その壁に耳を押し付ける形で眠り込んでいたらしい。どすん。まるで斧で薪を叩き割っているような音。
眠い目を擦りながら目を覚まし、時計を見る。午前一時。こんな時間に高梨さんは何をしているのだろう?
気が付くと、シルビィが狂ったように俺の周りを飛んでいる。
「どうしたの?」
俺はシルビィに引っ張られるように鏡の前に立った。
『Next door』
「隣? 隣がどうかしたの?」
『Wandering spirit』
「魂? ああ、浮かばれない霊魂のこと?」
答えた途端、俺の肩にシルビィが乗ってきた。いつになく強い力の彼女は俺の足を無理やり動かした。
導かれるままに外に出て、高梨さんの部屋のドアの前に立つ。俺の手が他人の手のように勝手にドアノブを握る。がちゃり、と鍵の開く音がした。やばい。どうしよう。シルビィに操られるままドアを開け、キッチンに足を踏み入れた。居間の方に高梨さんはいなかった。
右手のバスルームの方から、水の音がする。どすん。音がまた聞えた。そっとバスルームに近付く。開け放たれたドアの陰から覗くと灰色のジャージを着た高梨さんのしゃがんだ後姿が見えた。俺はどうしたらいいか分からなかった。もし、高梨さんに気が付かれたら、警察に突き出されてしまう。その時、高梨さんが右手を振り上げた。その手には血にまみれた鉈が握られている。俺は悲鳴を上げ、後ずさった。高梨さんが俺に気付き、立ち上がって振り向いた。返り血を浴びた顔で山姥のように歯を剥き出し、彼女はニヤリと笑う。鉈を構えてゆっくりと近付いてくる。彼女の背後には流しっぱなしのシャワーとバスタブ、血まみれの死体が見える。切り取られた腕が無造作に転がっていた。
殺される。逃げなくちゃ。ただでさえ弱った身体は、凄まじい恐怖に縛られてしまったように動かない。肩がふっと軽くなる。何かが高梨さんの後ろで動いた。そいつはぐにゃりと立ち上がり、ぎくしゃくとした歩き方で近付いてくる。男だ。さっきまで切り刻まれていた男の死体だ。顔は奇妙に歪んで見え、大きく見開かれた目玉はあらぬ方向を見ている。首には大きな裂け目が入っていて、ほとんど皮一枚で胴体と繋がっているようだった。血を絵の具に使った不気味な網目模様がワイシャツ一面に描かれ、血みどろの下腹は裂けて腸が飛び出している。俺は声も出せずにそいつを凝視していた。
高梨さんは俺の視線に気が付いたのか、後ろを振り向いた。彼女は大きな叫び声を上げて、逃げようとした、が男は彼女の肩に手をかけ、強引に振り向かせると片手を腰に回した。男の腸がぐにゅぐにゅと生き物のように動いて彼女の腰に巻き付く。CDプレーヤーのスイッチが入ったのか、突然、部屋の中に『美しく青きドナウ』が響き始める。バスルームを出た二人は居間に入ると緩やかに回転しながら不気味なダンスを踊り始めた。高梨さんの顔は恐怖に凍りつき、男の首は彼女の肩に乗りかかり、ゆらゆらと揺れている。俺は目を離すことすら出来ない。音楽が終わり、身体の動きが止まった瞬間、じゅぶっと気味の悪い音をたてて男の首が高梨さんの背中を滑り落ち、どすんと床に転がった。一瞬の静寂。俺はあらん限りの声で悲鳴をあげた。高梨さんは無表情で首の断面を見つめている。と、断面から明るい光の球のようなものが飛び出してきて天井に上り、ふっと消えてしまった。俺の肩に重みが戻ってくる。高梨さんがへらへらと笑い出し、死体が床に倒れた。彼女は笑いながら鉈を拾い上げて自分の首に押し当てた。その時、誰かが凄まじい雄叫びと共に部屋に飛び込んできて、彼女の手から鉈を蹴り落とした。高梨さんがへなへなと床にへたり込むと同時に俺の意識も遠のいた。誰かが俺を懸命に呼んでいる声が聞えたような気がした。
気が付くと、俺は自室のベッドに寝かされていた。警察の人に事情を聞かれた時、どう誤魔化したのかよく覚えてはいないが、かなり身体が弱っている状態なので、そのまま入院ということになった。姉貴には本当のことを話した。姉貴は胸騒ぎがして夜中に目が覚めたのだそうだ。急いで俺のアパートにやってきて隣の部屋の騒ぎに気が付き、あの最後の場面を目撃したらしい。姉貴はシルビィが俺を助けてくれたのだと言った。確かにそうだ。あのゾンビが出なければ殺されていたに違いない。高梨さんはあの男と不倫関係にあり、別れ話を持ち出されて逆上したらしい。警察に連行される時、もう彼女は目も空ろで、何を聞かれても虚空を見つめたまま笑い続けていたそうだ。
姉貴は茶饅頭やらみたらし団子やらを持って毎日嬉しそうに見舞いに来た。母さんには心配かけたくないので、入院したことは絶対に内緒にして欲しいと姉貴に頼んだが、黙っていられるかどうかはかなり怪しい。
肩が軽い。シルビィは何処へ行ってしまったのだろう。
「本当にもう大丈夫? 具合が悪いようだったらすぐに連絡しなさいよ?」
「大丈夫だよ。今日はありがとう」
退院の日、姉貴は夜遅くまで一緒にいてくれた。彼女が帰った後、俺はそっとシルビィの名を呼んだ。すると、肩に懐かしい重みを感じたのだ。
「シルビィ! 居てくれたんだね!」
空気が嬉しそうに震えた。だが、それも束の間、ふっと肩が軽くなる。バスルームから聞える音に、俺は彼女が何かを告げたがっているのに気付いた。
知りたくない。重い足を引きずるようにして鏡の前に立つ。口紅が震える文字を鏡に描く。
『My name is MIRANDA』
「ミランダか。素敵な名前だね」
『Thank you KAZUYA.I love you』
「俺もお前のこと、大好きだよ、ミランダ。一緒に居たいんだ。天国に行かないで、ここに居てくれよ」
『I want to be together with you.But I have to go』
胸が引きちぎられる様に痛んだ。でも、仕方がない。これ以上引き止めるのは、彼女を苦しめることになる。
「……それじゃあ、せめて最後に君の顔を見せてほしい」
彼女は少し躊躇っているようだったが、やがて鏡の文字が消え失せ、表が水面のように揺らめいた。うっすらと現れた輪郭は次第に形をなしてゆく。長く淡い茶色の髪に縁取られた卵形の顔。その右半面は皮膚が歪み、目は縫い合わせてしまったかのように閉じられていた。彼女はもう片方の目で私を見つめる。まつげの長い、青緑色の瞳。薄いピンク色の唇は不安げに震えている。
何て綺麗なんだ。俺は思わずその唇にキスをした。冷たい鏡の感触が次第に温かみを帯びてくる。
そっと唇を離す。彼女の頬に一筋の涙が伝う。
俺は宙に浮いた口紅を手に取ると、鏡に映った彼女の唇に紅を乗せた。悲しげな表情がほんの少し和らいだ。
「とても綺麗だよ」
ふっと微笑んだ彼女の瞳から涙が溢れ出した。震える唇が初めての言葉を紡ぎだす。
一番聞きたかった声。でも一番聞きたくなかった言葉を。
「……サヨナラ」
綺麗な声だった。彼女の姿は次第に薄くなり、やがて消えてしまった。
そっと鏡を撫でてみる。人差し指についた口紅に、彼女の温もりが残っている。ほんの少し。
「ミランダ……」
もう戻っては来ない。俺は溢れ出す涙を止めることは出来なかった。
ミランダは天国で幸せになれただろうか。
鏡の前にはあの時の口紅がそのまま置いてある。鏡に残った紅の後もそのままだ。
時々、俺はすっかり軽くなってしまった肩を撫でながら考える。
これを片付けることが出来るようになるまで、いったいどれだけの月日がかかるのだろうかと。
<END>




