第九章 前哨戦
センター試験の当日がやってきた。この日は晴れていたが、道端には少し前に降った雪が残っていて、雪解け水が道という道を濡らしていた。家族の激励に見送られ、直人は地下鉄やバスを乗り継いで試験会場に向かった。会場は山奥にある古い大学の校舎であり、周辺に近づく程雪が多く残っていた。
直人がバスを降りると、試験会場となる大学の校門は目の前であり、その中に沢山の受験生がぞろぞろと入っていくのが見えた。直人は吐き気を催した。こういう群衆を見ると、直人は眩暈の如き劣等感を煽られるのである。群衆の一人一人が自分を嘲笑している様な気がする。一人として自分を人間と認めていない気がする。尤もこんな気持ちを直人は普段から少なからず持ち歩いているのだが、この時ばかりは彼らと同じ条件で戦わなければならなかった点で常ならぬ状況であった。戦いを常に避けてきた直人は、こうして精神的には既に戦わずして負けているのであった。
受験票を見ながら指定された教室に入っていくと、既に席についている受験生が黙々と参考書やらノートを読み返している。最後の最後まで悪あがきを続ける事も、この空間においては美徳であった。偶然が微笑みかける事を祈り、待つ姿は人間の生という営みの根源的な部分の表象であった。直人も窓際の席に座ると、何ら逆らわずにそれに従った。しかしこの悪あがきを続ける傍らで、直人は昔読んだ本の話を思い出していた。何の本かは思い出せないが、とある天才が大学入試の始まる寸でのところに会場に到着し、試験には余裕をもって来ないといかん、と試験官に叱責されたところ、試験開始まで待たされるのが嫌だ、と飄々と答えたという、他愛も無い場面である。そんな男がこの国の何処かにいるのだろうかと考えると、直人は彼を羨ましく思った。
やがて教室が受験生達で一杯になると、試験官と思しき中年の男性が現れて、筆記用具以外のものをしまうように指示した。試験問題や解答用紙が配られる間、直人はふと疑問に思った。果たしてここで配布されている問題は皆同じなのだろうか?自分だけに奇問難問が満載されている問題用紙が配られたとしても、誰も気付かないではないか?等と仕様も無い事を考えている間に、試験が開始した。
試験時間中、直人は殆ど考える事が出来なかった。記憶と思考がモルモットの様に空回りし、役立つ事が無かった。隣に座った男の鼻を啜る音、何処かでしゃっくりをする音、窓の外に広がる風光明媚な景色などが気になって仕方が無い。しかしこの静謐の中にあって、直人は初めて堪え難い孤独を忘れられる様な気がしていた。人間所詮は一人であると皆が認識した時、世界はこんなにも静寂に包まれるのだ。常日頃身の回りに溢れる喧噪は全て嘘なのだ。人間は誰もがこんなにも孤独に一つの意思を指向して生きているのだ。直人は他人の嘘を見破ったときの余裕ぶった表情で、試験問題に羅列する無味乾燥な記号を眺めていた。その時の直人にはもはや焦燥を突き抜けた開き直りが生まれていた。
そんな直人の試験の出来が芳しくなかったのは言うまでもない。おおよそどのくらいの出来だったか思い出す事すら出来ない。直人には自己採点などする気はさらさらなく、試験会場を出たところで配布される解答速報をあっさりと拒絶した。
そこから直人は真っすぐに自宅には帰らず、予備校の自習室に向かった。この日の自習室はいつもと打って変わって空いていた。皆試験を終えた安堵感で、勉強する気になどなれないのであろう。しかしその点直人は冷静だった。自分の本番はあくまで一ヶ月後の私大入試だから、今日の試験が終わった段階で安堵などしてはいけないと肝に銘じていた。言い換えれば、今日の試験の結果で落胆する必要など全くないと分かっていたのである。恐らく以前の直人であれば、目の前の結果に一喜一憂し、自習する気力など失せていたに違いなかった。この変化は特筆すべきものである。人間は誰しも現在置かれている状況から未来を予測しようとする。しかし現在と未来の聯関は思う程強くない。それらの間に偶然が介在している事を理解した人間はそれが分かっている。この意味で、直人には心の強靭さが備わっていた。エレベーターホールの辺りで、立ち話をしている浪人生の姿が見える。
「今日の試験どうだった?」
「ヤバいかも。このままだともう一年…」
「ああ、それだけは絶対嫌だ!」
そんな彼らを尻目に、直人は静かに自習室に向かい、伽藍とした室内の隅にある席に座った。
(何も考えるな。考えるだけ無駄だ)
直人の自習はもはや努力ではなかった。偶然に祈りを捧げる行為。名前の無いこの行為は言ってみれば偶然に肖る確率を上げる為の敬虔な行為であった。
自宅に帰ると、直人はすぐさま家族から質問攻めにあった。
「どうだったの?試験の方は」
「手応えは?」
「うまくいったんだろ?自信満々だったし」
こうした質問を直人は難なく一蹴した。
「ああ、駄目だったよ」
唖然とする家族に、直人はこう付け足す。
「俺は私大志望だから。本番は来月だよ」
すると家族は不安げな表情を残しつつも、
「そうだな、今落ち込んでもしょうがない」
と無理に納得する。ただこの直人の諦念とも思える態度は日を改めるに連れて家族を言いようの無い苛立ちに陥れた。家族は次第に口うるさく直人の日頃の呑気さを責める様になった。直人は全てを諦めてしまったのではないか?家族はそんな疑念を抱き始め、それを自分の力でどうにも出来ないもどかしさは彼らの胸を掻きむしった。ある日、たまりかねた信人が直人に詰め寄った。
「おい、何故もっと必死にならない?もう本番は目の前なんだぞ」
すると直人は当たり前の様に兄を去なした。
「必死になったってしょうがないだろう。やれる事をやるだけさ」
すると信人は吐き捨てる様にこう言った。
「ふん、全く鈍い奴は気楽で良いよな!」
信人の苛立ちは弟を思う気持ちから来るのであろう。直人はそれを忖度し、何の反論もしなかった。
そうして何一つ変わる事無く、直人は遂に本番たる私大入試の時期を迎えた。直人は家族の無言の圧力を内心気ぶっせいに感じつつも、気楽に試練を迎え撃つ事が出来た。