第八章 頭が悪い人の芸術
いつの間にか年が明けた。浪人生に年末年始はない。「俺たちの正月は四月だ!」という予備校講師の掛け声が皮肉にも彼らに正月を思い出させてしまう。授業も勉強も元旦から何一つ変わらずに行われる。皆初詣もしない。因みに直人は高校受験の頃に学問の神様と言われる菅原道真を祀る天満宮に初詣をしに行った。しかしその甲斐なく第一志望には不合格だった。以来直人は願掛けというものをしなくなった。そして自分の無能さを以てすれば神ですら無力であることに、直人は自分の無能さの絶対性を思い知った。しかし今では直人の神は偶然であった。自分の無能ですらこの偶然の所産であり、己の無能の絶対性は偶然の絶対性の象徴であった。ただし目の前に立ちはだかる試練を乗り越えるのに無能は禁物である。してみると直人にとって偶然は仇敵でもあった。にも拘らずその先をこの偶然に身を委ねて生きる事を決心した直人は、余りにも強大な力を持つこの仇敵がいつの日にか味方につく事を期待して生きる事を望んだ事になる。神とは仇敵の裏に隠れた自己の未来の姿である。この仇敵にそっぽを向かれたとき、人間はこの仇敵の残酷なまでの強大さに身震いする。
センター試験まであと二週間である。私大志望の直人には余り関係のない試験ではあるが、それでも私大にはセンター試験利用受験というのがあるため、念のため受験する事にしていた。予備校の空気はいよいよ殺伐とし、密閉された空間の粘土の様な重苦しさと息苦しさは内部にいる人間のあらゆる感情を歪めていた。直人も例外ではなく、自分の中で張りつめた緊張状態がぷつんと切れて、発狂したまま脱兎の如く何処かへ逃避してしまえればどんなに良いかと思った。だが直人は不本意にも正常を保ち続けた。人間は自分でも嫌気がさす程に強く出来ているものである。
いつもの様に予備校の自習室で缶詰になっていた直人が、休憩の為に部屋の外に出た時である。直人は部屋を出てすぐ脇にある大きな窓から外の景色を眺めていた。ビルの最上階から眺める景色は遥か遠くまで拓け、青く霞む地平線を望む事が出来た。無機質なビル群に覆われた地上を見下ろして、直人は一つ大きな溜め息をついた。見慣れた景色とは言え、もうすぐこの景色とも決別する事を思うと、何となく名残惜しい様な気もした。一年前ここに来た時は、直人がどれほどこの景色を憎んだか知れない。一年間も望みもしない景色を見続けるであろう事は、それだけで当時の直人を絶望させるには十分だった。だがこの愛おしさは何だろう?最も憎むべき対象とは時が過ぎれば最も愛すべき対象に変わるのかも知れない。それは直人の神と同じ様に。しかし直人はこの景色を未だ手放しで愛する事は出来なかった。なぜならもうすぐここから抜け出せるという確証はどこにもなかったからである。仮にもう一年ここに居続ける事になったら?恐らくこの景色は一変して憎悪の対象となるであろう。景色だけではない。直人は自分の神たる偶然を、彼の創造した森羅万象を憎む事になるだろう。それは想像するだに恐ろしかった。全てを愛する為にも、今一時は神に逆らわねばならない。直人はそう決心していた。
そうしていると、背後から聞き覚えのある東北訛りが聞こえた。
「何や、黄昏れでんのが?」
振り向くと、秀作の青ざめた赤ら顔があった。とても疲れている様に見える。
「やあ、久しぶりだね。どう?調子は」
直人は忠司との一件があってからあの集団に顔を出してはいない。直人は既にあの集団を見限っていた。だが根が気弱な直人は本人を目の前にして邪険に扱う事も出来なかった。
「どうってことねえっちゃ。いづもと変わんねぇよ」
だがそう言って前髪をかきあげた秀作の額は、以前より広く、憔悴している様に見えた。
「そうだよな。ここまで来たらもう結果なんて待つだけだよな」
無理に笑顔を作った直人は、皮肉の意味も込めてそう言った。勿論秀作にはその意味は伝わらなかった。
「んだ。俺はもう結果なんて気にしてねえ。やれるだげのこたぁやっだんだ。それで充分だ」
直人は意に反して秀作の言葉に励まされた。そんな事は全てが終わってから言うものだ、と心では思いつつ、こんな甘言につい縋りたくなる様な精神状態だったのである。
「ああ、その通り。頑張ったよな、俺ら」
直人は再び窓の外を眺めて言った。直人はこんな謙抑に余念がない。すると秀作は感傷的になったのか、堰を切った様に話し出した。
「うん、それだげは間違いねえ。俺は自分を誉めでやりでえ。それによ、何も結果だげが全てじゃねえ。結局は入試なんてえのは要領のいい奴が得なんだ。必ずしも頭の良さが測られる訳でねえ。それで駄目だったって自信失う様なこだぁねえ」
このとき直人は反射的に
「そうだな」
と返答したが、内心では秀作に嘲笑を浴びせていた。
(馬鹿め。こいつは一体この禿げた頭で何を考えているのやら。頭の良さなどというものははなから存在しないのだ。そんな迷妄を具現化させる為に結果が存在するのだ。故に結果が全てだ!もし真の頭の良さというものがあったとして、それが結果として現れないのであれば、そんなものに何の意味がある?そんなものは存在しないのと一緒だ!頭の良さは結果で現れる。いや、結果として現れたものが頭の良さと呼ばれる。それ以外の意味は全くない!)
直人は今度こそ完全に仲間を見限った。
「じゃあな、頑張れよ」
と言い残して、直人は自習室に戻った。直人の皮肉はやはり秀作には通じないのであった。
自習室に戻ると、直人は試しにセンター試験の過去問を解いてみる事にした。腕時計のストップウォッチをスタートさせ、直人は無我夢中で鉛筆を走らせた。
やがて制限時間が来て、直人は採点をした。結果は二百点中百十点。直人は途方に暮れた。とても志望校合格に届くレベルではない。去年同じ様に過去問を解いた時は百点だった。つまり一年かけて十点しか上がっていないことになる。
(この十点に意味があるんだ…)
等と言う言い逃れは先ほどの直人自身の言葉によって遮られた。直人はただ絶望し、静まり返った自習室の一隅で一人頭を抱えるしかないのであった。
(俺、本当に頭悪いんだなぁ…)
家に帰る道すがら、直人はコンビニでシュークリームと缶コーヒーを買った。そしてふらふらと歩きながら、人目も憚らずシュークリームを一口で頬張り、それを甘い缶コーヒーで流し込んだ。溢れたクリームが口の周りを覆う。直人はそれを手の甲で一掃する。甘いもので腹を満たすと、いくらか気分が落ち着いた。すると今度は不気味な笑みを浮かべて酩酊した様に夜道を歩くのであった。
「んふふふふ…」
鬱蒼と茂る街路樹の下、裏返った笑いが谺する。最寄りの駅から家まで、永遠の距離がある様に思われた。このまま一生歩き続ける事になれば、どんなに良いだろう。この道程においてはどれだけ無能な人間でも何ら咎められる事はないだろう。等と考えながら直人がぼんやり歩いていると、横から来た車に轢かれそうになる。急ブレーキを踏んだ車はヘッドライドに照らされた虚ろな目の直人に向かってクラクションを鳴らす。直人は運転手を睨みつけると、ゆっくりとそこを立ち去った。
自宅で一人食事をしながら、直人はなお虚ろであった。食欲が無い。シュークリームのせいだろうか?それとも…?食卓の天井から吊るされた橙色のランプは直人の後頭部を照らし、直人の眼前に陰を作る。この乾いた暗闇の世界に視界を覆われ、直人は陰の世界の支配者として君臨しているのだった。
突如として横から信人の声が直人を現実に引き戻した。
「おい、そろそろ試験近いだろ?大丈夫なのか?」
すると直人は先刻までの酩酊を冷まされ、即座にこう言った。
「おう、それはもう大丈夫さ。バッチリだよ!」
こんな快活の欺瞞は直人の自分に対する皮肉だった。直人にはもはや自らを嘲笑する事が快かった。
「そうか。これさえ乗り切れば楽しい学生生活が待ってるから。もう少しの辛抱だ」
「ああ、大学生になったら何をしようかな?じゃ、俺勉強するから!」
直人は颯爽と席を立つと、自室に向かった。
自室に戻った直人は、息も継がずにベッドに俯せになり、枕に顔面を押し付けた。
(神は俺を救う前に俺を殺してしまった。俺は神ですらもはや救いようの無い程神自身によって見放されているのだ。もうおしまいだ。俺には何も残されていない。偶然すら俺を見捨て賜うた。俺は何も愛する事が出来ず、愛される事も無い。俺は俺が嘲笑を浴びせた人間と何の変わりもない。とは言え…)
直人はごろんと寝返りをうつと天井を見つめ、呟いた。
「もうどうでもいいや…」
考えてみれば、こうなる事は最初から分かりきっていたのである。何を悲嘆にくれる事があろうか?直人がそんな自暴自棄に陥っていると、見つめる天井に失地王の大きな輪郭が少しずつ浮かんできた。やがてそれらは光彩を帯び、直人を優しく見守る微笑に変わった。
(そう、どうでもいいんだ。なぜなら偶然は君を突き放しはしたが、見捨ててはいない。偶然は常に君と共にある。それはいつか君を救うかも知れない。あるいは更に突き落とすかも知れない。神のみぞ知るというやつだ。誰にも分からない。だから今日はゆっくりお休み)
直人は目尻から横一線に涙を流した。翻弄される者は無力である。しかしこの無力な上に感じる柔らかさは何であろう?絶対の存在に包含され、全てを委ねるこの安心感は。まるで母胎に眠る胎児の様な恙無さは。もう悪あがきをしなくて良い。強がらなくて良い。全て受け入れよう。真面目に生きるだけ馬鹿らしいのだ。なるようになるさ。逆説的な話だが、直人には不意に生きる勇気がわいてきた。
「おやすみなさい…」
直人が抱いていた心の靄が蒸散し、それに連れて体から力が抜けていった。自意識に縛られて生きる事はこれほどまでに体力を濫費することであったらしい。すなわちこれまで直人が現実から逃避していたその先には更に過酷な現実が待っていたのである。直人はこの時初めての逃避を完遂出来た。その先にはなお身を委ねて然るべき偶然があると信じて。