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第六章 モテない人の芸術

 ある金曜日の午後、直人は耳を疑った。

「だから、明日は午前中で授業が終わるだろ?午後ちょっとだけ付き合って欲しいんだ」

裕二は紙コップのコーヒーを啜りながら事も無げに言う。

「何で俺がお前のデートに付き合わなきゃいけない?大体今の時期にそんな事してる時間があるのか?」

直人の言う事はもっともで、時は既に十一月である。センター試験を二ヶ月後に控えている時期。周りの予備校生は皆凌ぎを削って知識の最終確認に勤しんでいる。

「少しは息抜きも必要だって。大して時間かかる訳じゃないしさ。気晴らしに皆で遊びに行こうっていうだけじゃないか」

「しかし何故俺なんだ?他にも暇そうな奴が沢山いるだろう?」

直人がそう言うと、裕二は哀れむ様な視線で直人を見た。

「俺はさ、お前が高校時代から何の女っ気もなしに生活しているところをずっと見てきている訳だろ。折角女と一緒に遊びに行く機会ができたんだから、友人としてはお前を連れて行ってやりたいわけよ。お前だって満更嫌な訳じゃないだろ?」

こんな同情を受けた時、普通の人間であれば憤怒するのかも知れない。だが直人の場合こういう同情にすら飢えていた。己の弱さを認めきった人間というのはこんな日常の慰藉を食い扶持にして生きていると言って良い。のみならず直人は正直に言って女に飢えていた。その欲求を最後まで満たす事は出来ないにしても、ほんの一欠片の悦びを心に宿す事に直人が何の興味も示さない筈は無かった。僅かな躊躇の後、直人は裕二の誘いを渋々、しかし密かな期待と興奮を以て承諾した。

 翌日、空気は冷たく、冬の柔らかな日光が南中から地上に降り立っていた。直人と裕二の二人は首尾よく十分前に待ち合わせの場所で待っていた。街中にある市役所の噴水前である。裕二の友人だという女は一人で来るらしく、まだ高校生であると言う事だった。この日の直人は柄にも無く髪の毛を撫で付け、お気に入りの外套を着ていた。尤も傍から見ればそんな姿はいつにも増して滑稽だった。肥満を隠す為に外套のベルトが必要以上に引き絞られ、胴回りが笹団子の様なくびれを成していた。噴水が時折勢いよく吹き上げられる。その白い飛沫が直人の目には射精された精液の様に映った。この年頃の男というのは性を通してしか美しさを認識できぬものである。増してこの状況下では押さえ付けてきた劣情が瀑布の如く理性を決壊せしめ、暴発するのも無理の無い事であった。

 暫くすると、向こうから紺色のブレザーを着た女子高校生が小走りにやってきた。しかし直人の存在を認めるや、僅かに表情を曇らせた。直人はそれを見逃さなかった。顔のバランスを損なう程目が大きい。その目をより大きく見開いて、直人と裕二を交互に見比べている。

「やあ、紹介するよ。俺の友達の直人っていうんだけど」

「よろしく」

直人はぎこちなく笑顔を作ったが、少女は表情一つ崩さない。

「え?はあ…」

怪訝な、睥睨とさえ言える眼差しで少女は直人を見据える。直人は一瞬たじろいだ。

(俺が来る事は伝わってないのか?)

直人がそれに気付いても、もう後には引けない。久しく使っていなかった顔の筋肉を強ばらせて眉間に皺を寄せ、両手をポケットに突っ込み、ダンディーを装う他なかった。

「裕二にはいつもお世話になってます」

直人は何とか場を繋ごうと努めた。緊張すると自然に敬語が出てくるらしい。しかしこんな他人行儀が場の空気を残酷なまでに凍り付かせた。白昼の平和の中、場違いに不穏な空気が漂う。

「とりあえず行こうか」

裕二は慌てて蓋をするように先立って歩き出した。

 それから三人は暖色の灯る枯葉並木を延々と歩いた。丈の短いスカートを履いた少女と、彼女と楽しげに談笑する裕二と、それから二人の後方で俯く直人と。直人は少女の手にぶら下がる鞄を見つめていた。シド・ヴィシャスやら髑髏やら、その他禍々しいデザインのステッカーが貼られている。

(品性の欠片も無い、つまらん女だ)

直人は心底そう思うのだが、それでもこれ以上襤褸を出したくないという虚栄心が根を張っており、会話に入る事が出来ない。それ以前にこの微妙な距離を隔てては二人が何を話しているのかすら聞き取れないのである。

「何で付いてくるの?」

と時折囁く少女の寸鉄の様な不平以外は。しかしだからといって突然帰る訳にもいかない。この時直人は首輪をはめられた卑屈な愛玩動物であった。男女の交わりという権高なご主人様の顔色を伺い、逃げる事も襲いかかる事も出来ず、ただ上目遣いに舌を出して歩調を合わせていた。

 直人は過去を回想していた。それは直人が中学生の頃の事である。直人にはたった一人の親友がいた。名を武大と言った。近所のよしみで、直人は武大と毎朝一緒に登校していた。他に友人のいなかった直人にとってその時間だけが唯一孤独を癒せる時間であった。ところが武大はある時から同級生の女子と交際を始め、朝も一緒に登校する様になった。当然直人は一人で登校せねばならなくなった。とぼとぼと力なく歩く孤独やそこから来る嫉妬は直人の中で憎悪となり、その矛先は自然と女一般に向けられる様になった。そんな感情の疾しさから、直人はいつしか女を直視する事すら出来なくなっていった。尤もこの時にあってはそんな自己憐憫すら直人に居心地の悪さを幾分忘れさせた。

 三人は街中を抜けて郊外に出た。すると寒々しい空の下、遠くの山裾から穏やかに流れ来る河川が見え、それを跨ぐ石橋に辿り着いた。柔らかなせせらぎに、直人は心を洗われた。自然を愛することは疎外された人間の特権である。不意に冷静な思考を取り戻し、直人は恐る恐る眼前を歩く二人にこう言った。

「俺、もう帰るわ」

すると二人は揃って直人を顧みた。直人の存在を初めて思い出したかの様なとぼけた顔が線対称に二つ並ぶ。心持ち残念そうな顔をしてみせているが、直人を引き止める気配は全くない。

「おう、そうかそうか」

「じゃあね」

そう言うと二人は颯爽と石橋を渡りきった。二人の背中を見送ると、直人は踵を返し、何も考えずに全速力で走った。息を切らしたまま予備校の自習室に向かうと、がむしゃらに問題集を解き始めた。

 その夜、直人は早めに帰宅した。昼間の出来事のせいか、酷く疲れていたのである。お陰で家族と共に夕飯を摂る事が出来た。しかし兄の信人は外出していて不在であった。父と母、それに母方の祖父と四人で食卓を囲んだ。食事中、祖父が唐突にこんな事を言った。

「直人、おめえまだ彼女できねえんか?」

直人は

「ああ、浪人中だからな」

と事も無げに言った。しかし認知症の祖父に意味が伝わったかどうかは定かでない。

「大丈夫よ、直人も大学生になれば彼女くらいできるわよ」

「そうだ。今はやるべき事に集中するんだ」

両親は直人を慰めるが、直人はこんな哀れみを受ける度に惨めな気持ちになっていく。第一、大学生になったからといって何が変わるだろう?浪人生だろうが大学生だろうが、自分が自分である事には変わりない。他人が何の苦もなく営む日常茶飯事も、自分にとっては到底不可能な様に直人には思われるのだった。

 直人が黙々と食事を口に運ぶ度、食卓の空気が重くなる。そしてそんな空気を破るかの様に信人が帰宅した。何ともタイミングの悪い事に、信人は恋人を連れてきていた。信人はビニール袋一杯に買い込んだ酒を持っていた。連れの彼女はきらびやかなアクセサリーを身にまとい、白い毛皮のコートを着ていた。二人は家族に軽く挨拶をすると、二階に上がって行った。信人の部屋に向かったのだろう。

「全く直人がいるっていうのに何を考えているんだ信人は」

「本当ね。直人の受験勉強の邪魔になるじゃないの」

両親は直人に同情していた。しかしその同情は直人をやり場の無い怒りに陥れた。直人は裕二の事を思い出していたのである。

(裕二は何故俺を誘ったのか?兄は何故家に恋人を連れてきたのか?俺が浪人生である事を知っているにも拘らず。彼らは自己の優越性を確かめたかったに違いない。考えてみれば人間とは常にそのようなものだ。幸福が欲しいのではない。自らの幸福たる確証が欲しいのだ。現に俺は憤怒している。自分の傍らに女がいない事、これからも一人として寄ってこないであろう事を平然と予見していた筈の俺は、他人の女を見たとたんに不幸を感じた。人間は他人の不幸を比較対象にしなければ幸福を感じる事が出来ない!つまり彼らは目論見通り、俺を踏み台にして幸福になったのだ!)

直人は女がいなくても平気だったが、女を見せつけられる事には耐えられなかった。その恥辱はまたしても直人を妄執へと誘った。

「ごちそうさま。部屋で勉強するよ。なに、ちょっとぐらい五月蝿くても平気さ」

と言って、直人は立ち上がった。

 二階の自室に向かう階段を上る途中、直人は兄の部屋から漏れる話し声を耳にした。兄の声は女の声と淫靡に絡み合って、とても卑猥に聞こえた。それは直人の知っている優しい兄の声ではなく、獣の唸り声にも似た太く粗っぽい声だった。こうして自分は友人も、兄も、女に奪われていく。自分に残されるのは孤独と嫉妬と怨念と、そんな醜悪な感情に蝕まれた自分自身の亡骸のみ。直人にはそんな気がするのだった。直人は黙って廊下を進み、兄の部屋と隣接する自分の部屋のドアを開けた。真っ暗な自室は淀んだ空気と漆黒の妄執が遍満していた。直人は部屋の明かりを点し、ドアを閉めた。それから遮光カーテンを閉めて、完全な自分の世界を作り上げようと努めた。それから冷えきった木の床張に正座した。

(そうだ!こんな時だ!芸術が必要なのは正にこんな時だ!全てを奪われた貧者の精神にこそ美を愛する権利が与えられるのだ。なぜなら美とは例外無く偶然の所産であり、偶然はともすると貧者を救いもする神なのだから。貧者の不幸の認識を覆す救世主なのだから!富める者は偶然を恐れる。故に芸術を蔑視する。貧者の幸福は富者の幸福を相対的に奪うから!豪商が王家を恐れる様に、秀才が天才を恐れる様に、富める者は俺を恐れなければならぬ!)

こんな妄執を抱いていると、再び直人の頭上には失地王が現れた。失地王はもはやこの部屋の住人になっていた。彼は直人に向かって優しく語りかけた。

「そんなに心配しなくても大丈夫だよ。直人は俺に似て頭がいいんだから。そんなに心配する事ないって」

その声の主は、実は壁を隔てて隣の部屋にいた信人の声だった。大方直人の存在を知り自分の来訪を心苦しく思った恋人に言っているのだろう。しかし妄執に取り憑かれた直人にはその声が壁面に尊大な姿を映す失地王の慰めに聞こえた。そしてその慰めは直人の反抗心を刺激した。

(そんな慰めは不要だ!俺は馬鹿で良い。あなたもきっとご存知の筈だ。馬鹿は一生馬鹿だと。モテない奴は一生モテないと。でも俺はそれで良いのだ。あなたもそれで良かったのだ!だから俺を慰めないでくれ。俺に前を向かせようなどと思わないでくれ。俺は常に後ろ向きに生き、前を向いている奴らを嘲って生きる。そしてそうしているうちに皆は気が付くのだ。世に前後ろの概念など存在しない事に!俺の向いている方角が前である場合も往々にしてあり得る事に!つまり善悪の概念など超えたところに芸術があるのだ。尤も俺がそんな生き方をするにはもう少しの努力が必要だ。俺はそこに至るまで暫しの間前を向いて生きる。そして大学に入ったら、改めて身の振り方を考える)

すると失地王は何も言わず静かに微笑し、真っ白な壁に染み入る様にその姿を消した。直人は一人になった。

(身を真紅の血に染めて生きるには、美しい涙を流して生きるには、まず健全な肉体が不可欠だ。そしてそれは必ずしも健康的な生活を志して作り上げられるものとは限らない)

直人は立ち上がると、颯爽と勉強机に向かった。口元は引き締められている。

 信人が彼女を送りに家を出た時も、直人の部屋の明かりは煌々と灯っていた。


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