第五章 面白くない人の芸術
ある昼休みのことである。直人はいつもの友人達と予備校の地下にある食堂で昼食を摂っていた。十月の中旬、外で飯を食うにはさすがに寒くなってきていた。予備校の食堂は薄暗く、沈痛な面持ちの予備校生で混雑し、埃っぽい空気が充満していた。厨房から朦々と湯気が上がる。まるで予備校生達の溜め息を代弁した様に。時折場違いな集団が狂った様に笑い声を立てる。全てを諦めた者のけたたましい哄笑。すると側で食事していた予備校生が突き刺す様な憎悪の視線で彼らを睨みつける。
五人はそれぞれの食事を気怠く口に運びながら、予備校講師の話題に花を咲かせていた。普段一切の娯楽を禁じられている彼らにとって、予備校講師は唯一の偶像であった。五人は講師について授業の質だけでなく、雑談の面白さ、容姿、業界での階級、その他の噂などあらゆる点を品評する。その内容についてはあまりに下世話で一々取り上げるまでもないのだが、最後にこんなやり取りがあった。
「あいつの話はほんとに面白くないよな!」
忠司が大声で叫ぶ。とたんに周囲の予備校生達の視線が集まる。
「んだから。面白ぐねえ授業は眠ぐなっからやあ」
方言には親近感と共に村社会的閉塞感が存在する。故に悪態をつくと殊更陰険に聞こえる、と直人は秀作についていつも思う。
「面白さというのは結局頭の良さなんだよ。面白くないと生徒も集まらないし、女の子にもモテないからね」
裕二の言い分には一理あるように直人には思われた。少なくとも男の場合、ビジネスにおける成功者は恋愛における成功者でもある確率は高そうである。ただこの二つの成功が裕二の言う様に同じ能力の成果であるのか、それともビジネスの成果である金銭が恋愛を成功に導くのか、直人には分からなかった。
(女は金を稼ぐ遺伝子が欲しいのか?それとも金自体が欲しいのか?)
女に無知な直人は浅薄な女性観で考えねばならなかった。が、そのどちらも自分の手に入らない事を察知してすぐに諦めた。
「人間何をするにもユニークさがなきゃな。個性が大事だよ」
平たい顔に崩れた笑みを浮かべる耕平は話に同調しているつもりらしかったが、直人にとってみればまるで見当違いの発言であった。
(馬鹿め。俗に言う「面白い」というのは如何に平凡であるかということであり、如何に没個性であるかということだ。なぜならコミュニケーションというものは同調の連続だからだ。空気の流れに追従の出来ない人間は面白い人間になどなれないのだ。増してこいつの頓狂な個性を理解できる者などいやしまい)
直人は箸を置いた。
「じゃあ、俺宿題残ってるから」
直人は冷然と席を立ち、ゴミ集積所の様に雑然とした食堂を後にした。残された仲間達の冷ややかな視線を背中に感じながら。
(俺は不器用だ。全く面白くない人間だ)
直人は銀色のエレベーターの扉に映る醜い姿を眺めつつ、一人考えた。
(面白くないし、さりとて個性も無い。だがだからこそ偶然の所産である芸術は俺を見捨てていない。なぜなら偶然の存在は才能を過信する者には見えにくいからだ。しかし俺は偶然を受け止めるだけの環境を得なければならない。だから俺は大学に行かなければならない)
直人が勤勉になったのは偏にこういう動機付けが生まれたからであった。それは直人にとって唯一の可能性であった芸術と寝食を共にする為の土壌を築くことであった。つまり直人は芸術の為に生きる人生の閑暇を得ようとしていたのである。妄執が鳴りを潜めた様に見えた直人の実直さの底意はやはり妄執であった。実直を纏った妄執は、言わば人間の姿をして白昼堂々と街を徘徊する妖怪である。そんな一種の韜晦に、直人程長けている者も少なかったであろう。事実直人が懸命に単語集を繰っている姿を見て、一体誰がその事に気付いたであろうか?
結局夜の十時頃まで自習を続けた後、直人は予備校を出た。夜の風は外灯の冷たい光に木の葉を舞い上げる。直人は今日一日を振り返る気力も無く、ただ呆然と地下鉄に繋がる階段を下りる。人気の無い地下道には自分の靴音だけが遠くまで響く。そういう孤独を遮るため、直人はイヤホンを両耳に突っ込み、大音量で音楽を聴いた。ビートルズの『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』である。
(一曲として有名な曲の入っていないこのアルバムが何故ビートルズの最高傑作と呼ばれているのか?それは芸術性故ではない。最も売れたからだ。つまり純粋な芸術そのものを測る指標などというものははなから存在しないのだ。あるのは経営手腕、そして芸術家、つまり偶然の主だけだ!)
サイケデリックで難解な音楽には果たして万人に向けられた価値があったろうか?直人はそこに思い至ると、そもそも価値を測る事の出来ないものが芸術ではなかろうかという結論に達したのである。これまで価値という巻き尺に緊縛され、苦悩し続けた直人は狂喜した。
(俺には価値など要らぬ。芸術さえあれば良い)
これは芸術に取り憑かれた者特有の自己欺瞞であろう。測る事の出来ない価値程いかがわしい価値は無い事に、直人は心の奥で気付いていたのである。しかしそのいかがわしさがまた直人の救いでもあった事は前述の通りである。
とまれ直人は自宅前に辿り着くと、鳴らしていた音楽を止めた。とたんに静寂が波の様に直人を襲った。気付けば何一つ変わらぬ現実は直人の先刻までの高揚を幾分か冷ました。
家に帰ると、直人は一人遅い夕食を摂った。無言で冷たい焼きそばをかき込むのは何ともやりきれない。だが直人は黙々とそれを遂行する。
「直人、勉強は順調か?」
兄の信人が火燵に入って本に目を落としたまま直人に話しかけた。
「ああ、順調だよ」
「あまり無理するなよ。この時期じゃしょうがないけど、体を壊したら元も子もないからな」
「ああ、分かってる」
信人は優秀であり、かつ浪人中の弟を気遣う程に優しかった。しかしこの優しさは直人にとって新たな劣等感を生むものでしかなかった。
(俺は自分の事ばかり考えている。しかも何だ、この気の利かない返答は。もっと機知に富んだ事が言えなかったのか?やはり俺は機転の利かない、面白みのない、無能な人間だ)
直人にはこんな些事をもってして自己否定に繋げる自嘲癖が身に付いていた。だがこの自己否定はまた直人の自己防衛でもあった。常に自己否定をしておけば、外界からのあらゆる侮蔑を免れるという摂理を利用していたのである。
直人は風呂に入って、寝室で一人今日の授業の復習をしていた。家の者は既に寝静まり、直人の勉強机の明かりだけが煌々と灯る。直人がノートを捲る音と鼻を啜る音が交互に響く。家族の眠りを妨げてはならないので、ストーブは付けられない。冷えきった部屋の中、眼鏡をかけ寝間着に赤い半纏を着込んで机に向かう姿はいかにも苦学生といった風貌である。直人は汚い文字で書きなぐられた世界史のノートを別のノートに無心に清書していた。色とりどりのカラーペンを使って小綺麗に纏めている。勉強の出来ない者程こういう作業にかけては几帳面なものである。直人は中でもお気に入りの緑ペンで、ジョン王の名を記した。
(彼も恐らく面白みのない人物だったろう。面白い人物は世間から白眼視されたりしないものだ。面白さとは世間に追従する能力だから。そういう人間は例え無能でも「そこが憎めない」等と言われて結局は善玉として扱われるに違いない。彼はそんな人間とは対蹠的に白眼視されるしかなかった。然るに彼は王家に生まれた。この一点を以て彼は歴史上の人間たり得た。願わくば俺も…)
溜め息をつき、部屋の明かりを消すと、直人はベッドに横になった。暗闇に失地王のとぼけた顔を思い浮かべる。縮れたその頭髪は絶えず他人のジョークに揺らされていた事であろう。そうする事でしか自己表現できないもどかしさを胸中に秘めて。