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第四章 失地王

 直人が世界史の授業を受けていたときである。隣には耕平がいた。耕平の選択科目は政経だが、何でも世界史への未練が捨てきれないらしいとのことで、直人も呆れて好きにさせた。

 直人は最初のうちこそ予備校講師の巧みな話術に聞き惚れていたが、飽きてくると目だけをきょろきょろと動かして辺りを眺め始めた。一点の洒落っ気も無い白い煉瓦に囲われた教室、「日々是決戦」「親身の指導」等と書かれた張り紙、暗鬱な蛍光灯の青白い光、曇りガラスの窓に隔てられて潤んだ街の輪郭。ここは社会から隔絶された刑務所だ。ここに自分は無能の罪で投獄されたのだ。延々と生徒達を啓蒙する講師、チョークが黒板に叩き付けられる無機質で乱雑な音の響き、波の様に浮き沈みする生徒達の黒い後頭部、講師のつまらないジョークに反応する不気味な笑い声、プロパガンダと盲信。ここはナチスだ。直人は思う。一体自分は何の為にこうして人生の貴重な時間を、この不本意な、下らない営為に捧げているのだろうか?未来への投資?しかしこの先にあるのは何だろう?大学に行って、就職して、結婚して(出来るのか?)、そこそこの幸せを掴んだ末に死んでいくことだろうか?そんなものの為にこの若葉の季節を犠牲にしているのだろうか?

(つまらないなあ…)

直人は頬杖をついたまま、鼻で溜め息をついた。きっと誰もが同じ気持ちなのだろう。芸術やスポーツの分野においては、自分と同い年、あるいは年下の人間でも既に成功を収めている人間が少なからずいる。それに比べてこうした惨めな姿を晒す自分がいる。大器晩成なんて大嘘で、自分がこうした苦悩の果てにやっと掴むものは色褪せた、実に無味乾燥な幸福なのだ。よしんばそれが手に入ったとしても、そんな小さなものを守り抜く為に必死になって我が身を削り、気が付いたら老いさらばえて死んでしまうのだ。不本意だがそれが自分にとっての精一杯の生き方なのだ。と、ここにいる誰もが思っている。しかもそれを知悉した上で、

「それでも自分に今出来る事はこれしか無いんだ」

と余りにも健全な決意(諦念?)を抱いてここに集っているのだ。本当は皆己の生に絶望しているのだ。なのに何故だろう?この迷い一つ抱かぬかに見える勤勉さは。必死でノートをとり、講師の言う事を一言一句聞き逃すまいと努める愚直さは。彼らの筆の音は緩慢に自殺を遂げようと少しずつ手首を削っていく音に聞こえる。もっと潔く絶望しようではないか?そうすればこの世の価値観だって何か変わるのかも知れないのだから。いや、待てよ。この心情は革命家のそれではないか?革命とはこうした民衆の鬱憤の爆発ではないか?そうした民衆の鬱憤を理解し、鼓舞できるのは自分しかいないのではないか?やはり自分には革命家の気質が備わっているのではないか?

 と、直人が例の妄執に取り憑かれ、ワーグナーの『ヴァルキューレの騎行』を脳内に流し始めていたときであった。直人の耳に講師の声が響いた。

「ところが、このリチャード一世の死後、とんでもなく無能な奴がイングランド王位に即位した。それがリチャードの弟、ジョン王!」

直人は我に返って授業に意識を戻した。直人には「無能」という言葉に敏感に反応するセンサーが備わっている。

「このジョン王が悉く駄目だった。彼は末っ子という事もあって、父親のヘンリー二世に溺愛され、甘やかされて育った。そのせいかとてもぼんやりした性格で、常に周囲から馬鹿にされていた。そんなこともあって、周囲を見返してやりたいと思ったんだろうね。まあ気持ちは分かる。リチャードの生前、ジョンは一度当時のフランス王フィリップ二世にそそのかされてイングランド王位簒奪を企てた。しかしこれは重臣や諸候に反対されて結局頓挫した」

直人はその時絶望とも安堵ともつかぬざわめいた気持ちを抱いた。

(何だ、俺にそっくりじゃないか。こんな奴でも歴史に名を残しているのか?)

両親に溺愛され、過保護にされて育った駄目人間の直人は、瞬時にジョン王に親近感を覚えた。しかも直人には兄がいた。優秀な兄と比べられて、常に肩身の狭い思いをしてきた。そして直人はこの兄をいつか一発逆転して打ち負かす事を心密かに夢見ていたのである。悪名高き異国の王は直人の心に一縷の希望を与えた。こんな者でも歴史に名を残す事が可能だと。勿論この場合王家に生まれたが故の、しかも汚名であろう。だが直人にとって重要なのは、必ずしも有能な者だけが歴史上の人間として認識される事を許される訳ではない点であった。歴史に名を刻むか否かを決定するものはたった一つ。偶然である。すなわち偶然を我が物にした者だけが歴史上「人間」として取り扱われ、その他の者はどれだけ有能であろうとも「時代」として一括りにされるのである。若い予備校講師は板書をしつつ、饒舌に続けた。

「ジョンはその後リチャードに屈服し、和解した。この辺りは何とも腰抜けだよね。ところがリチャードが戦死すると、ジョンは掌を返した様に態度を変え、一時はリチャードの後継者と目されていた甥のアーサーを押しのけて即位する。ここからはもう転落の一途だ。アーサーを擁立していたフランス王フィリップ二世に攻め入られ、ジョンを見限っていた諸候達はこれにいとも簡単に降伏し、イングランドは広大な領地を喪失する。更にその後ローマ教皇と対立して破門され、それを解いてもらう見返りにイングランドの土地を教皇に寄進し、ジョンは遂にヨーロッパ大陸における自国領土を失う。ここから付いたあだ名が失地王だ。その後ブーヴィーヌの戦いで再びフランスに破れ、国内に渦巻く不満の中マグナ・カルタによって王の権限を限定され…」

正に清々しい程の駄目人間ではないか!直人はノートも取らずに妄想に耽っていた。気が付けば意識は中世ヨーロッパにまで飛躍し、時代も国境も超えた孤独な舞台に立つ失地王と固い握手を交わしていた。尤もこの握手は直人にとって妄執との決別を意味するものではなかった。しかしながら直人の芸術志向の羽を伸ばす役割を担った。すなわち直人に芸術の偶然性に身を委ねる事を許したのである。その上であらゆる価値を無意味化する事を成功させた。つまり直人は疎外を恐れなくなったのである。この時から直人は善悪の概念を一掃し、世の残酷なまでの偶然性に身を委ねる心の強靭さを得た。

「それからというもの、暫くジョンという名前は不吉な名前として民衆から忌避されるようになった」

予備校講師の漫談はもはや直人の耳に届いていなかった。

(世の中を支配するものは偶然だ!それ以外に何も無い!必然ですら偶然の産物なのだ!俺に必要なのはその偶然を幸運に昇華すべく準備をしておく事だ。それは他でもない芸術だ!芸術程偶然を昇華しきれる手段があろうか?そうでなければ俺は時代の藻屑として寄る辺も無く永久に歴史を彷徨う事になるだろう!)

人間は歴史から何を学ぶのか?人類の叡智、痴愚、あるいは…。とまれ直人はこの時、仮入場券を手にした。芸術という王家に婿入りする為の仮入場券を!直人は深く安堵の溜め息をつくと、隣に座る耕平を見やった。耕平は丸い頭を風船の様に左右に揺らしていた。


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