第十一章 それから
その年の春、直人は晴れて大学に入学した。それも第一志望の、兄の信人と比べても遜色の無い程の有名大学である。予備校時代の友人達は全員二浪が決定した。予備校に張り出される合格者一覧、そこに載る自分の名前、それを見上げる彼らを想像し、直人はほくそを笑んでいた。
入学式の始まる前、直人は一人街道を自転車で通り抜けた。春の柔らかな微風が心地よい。通りの桜は丁度見頃を迎えており、雪の様に眩しい花々が乱れ咲いていた。直人は自転車を止めて、ふと頭上を見上げた。桜吹雪は直人の眼前で小さな渦を成し、乾いた風をはらませて舞い降りてくる。
(美しいな…)
それまで生きてきた中でこれほどまでに美しいものを、直人は見た事が無かった。この一種の悲壮感を帯びた花弁の涙は、自尊心の克服によって解放された直人の心に素直に沁みた。同時に失地王の影は直人を祝福する花々の撩乱のあわいに、静かに消えていった。人生で最も深い喜びに満ちた季節を、直人は噛み締めていた。耳元で飛び交う虫の羽音が五月蝿いので、直人は勢いよくペダルを踏みしめ、再び自転車を走らせた。
入学式の日、直人は着慣れないスーツを着て大学へと向かった。大学には大勢の新入生が集まっていた。そこには直人は一人気恥ずかしそうに歩いた。直人の心に根を張った劣等感は未だ拭われていなかったのである。だがもはや周囲に対する激しい憎悪は無かった。周囲の人間の姿が皆美しく、晴れがましく感じられた。尤もこんな心の高揚は、早くもサークル活動のしつこい勧誘によってかき消された。知らない者に声をかけられるなどという事は、直人には未だ恐ろしくてたまらないのであった。直人は式典が終わって早々、自宅へと引き上げた。
次の日はシラバスやその他の資料を受け取りに大学に行った。その日は直人を含め皆私服であったから、直人は自分の垢抜けない服装が何よりも気になった。こんな風に劣等感も人見知りも未だ払拭されない直人であったが、それでも勇気を振り絞った。
(俺はこれから芸術をするのだ)
と自分に言い聞かせ、サークルの部室が集まる、大学の敷地の隅にある廃れた薄暗い建物に一人乗り込んだ。割れた窓ガラスがガムテープで粗雑に修復されている。砂埃にまみれた廊下を恐る恐る進むと、脇の部屋から学生のけたたましい叫び声が聞こえた。直人は驚いて声をあげそうになった。
(大丈夫、大丈夫)
と心で何度も唱えて、胸に手を当てて直人は歩を進めた。
直人はやっとの事で目的の部屋の前に辿り着いた。ある音楽系サークルの部室である。部屋のドアは開いていたので、すぐさま中の者が直人を見つけて誘い込んだ。
「入部希望?とりあえず話だけでもしてみない?」
気さくな男子学生は直人を部室に招き入れると、プラスチックのカップに緑茶を入れ、直人に勧めた。そして穏やかな調子でこう話しかけた。
「どんな音楽がやりたいの?何か考えてる?」
直人は一瞬の躊躇の後に、吐き出す様に答えた。
「自分で作詞作曲して、歌を歌いたいです。それからギターもやってみたいと思っています。バンド形式でもデュオでも独唱でも良いです。学内の活動もやってみたいとは思いますが、大学の外でも活動してみたいです。それから…」
その時、優しげな男子学生は直人の余りの熱弁と、それに見合わぬ直人の貧相な容貌の相剋に思わず吹き出した。
***
この話には後日談がある。直人は結局芸術をする事が出来なかった。確かに直人は自作の曲を歌いもしたし、ギターも弾ける様になった。その意味では直人の願いは叶ったのである。が、それはかつての直人が渇望した芸術などではなく、単なる娯楽、遊戯に過ぎなかった。物質的価値観における成功が直人に訪れた瞬間に、彼はもう芸術を必要としなくなったのである。従って直人はそれ以降妄執に取り憑かれて生きる事も無ければ、王になる事も無かった。芸術とは貧者にとっては妄執で終わり、富者にとっては遊戯に過ぎぬという甚だ取り扱いの難しいものであるらしい。
筆者はこの成り行きが直人に取って良かったのかどうか分からない。いや、正直にいえばこの一時の成功によって直人の貧相な形質は何ら変わる事が無い訳であるから、ここで直人が慢心してしまうのはいささか危険な気もする。とは言え芸術はこんな形でも人間を救い、また堕落させる事があるのだと思う。