第十章 決戦
直人が願書を出していた大学は五つあった。その内の一つは第一志望の大学で一際偏差値が高い。その他の四つの大学はおしなべて同じくらいの偏差値である。直人はまず後者の四つの大学を受験し、最後に第一志望の大学に臨むというスケジュールを立てていた。
最初に受験する大学は都心に超高層ビルを持つ大学で、その殆ど最上階が直人の受験会場であった。例によってビルの前の広場は受験生でごった返しており、喧しい事この上なかった。何より猥雑な人混みで感じる孤独を、直人はここでも感じていた。こんな大人数の輩と一つのものを巡って勝負する等、全く無謀な所行に思われた。それは目の前に聳える高層ビルを見ても言える事であった。こんな巨大で威圧的な組織に力づくで加入を承諾させる事等、自分にはあり得ない事の様に思えるのであった。直人はそのビルに恐る恐る入っていくと、これまた巨大なエレベーターの前で整然と並ぶ受験生の列の最後尾に並び、やがて他の受験生に混じってエレベーターに飲み込まれていった。エレベーターの一番奥に押し込まれた直人はたいそう窮屈な思いをしたが、シースルーのエレベーターからは都会の街並が眼下に小さく一望でき、見晴らしが良かった。尤もこの景色さえも大学という組織の力を直人に思い知らせるのに一役買っており、直人は逃げ出したい様な圧迫感を覚えた。
教室に入ると、そこにいる受験生達はやはり最後の悪あがきで、参考書を広げてぶつぶつと何か呟いている。直人は内心嫌気がさしながらも、かといって他にする事も無く、仕方なく単語集等を開くのであった。
やがては試験問題が配られ、試験が開始された。一科目目は直人の得意科目である世界史であった。が、直人は問題を見て思った。
(選択肢が多すぎる)
語群の中から正解を選択して答える問題はよくあるが、語群が多すぎて正解を見つけられない。解答を知っていてもこれでは解答するのに時間がかかる。焦れば焦る程答えが見つからない。これに直人は苦戦し、時間内に全てを解答できずに終わった。そんな訳で直人は得意科目を失い、やる気が失せた。
そんな風にして気付けば全科目の試験が終わっていた。直人はとぼとぼと帰路についた。
(駄目だった…)
ビルを出て一人歩いていると、何やら派手な身なりの女が煙草をふかしながら携帯電話で話し込んでいる。
「あれチョー簡単じゃね?でしょでしょ?あんなん馬鹿でも出来るって」
声が大きいので否応無く聞こえてしまった。
(俺はあんな奴より出来が悪いのか)
等と直人が考える事は無かった。
(どうでもいい、どうでもいい)
直人はなおも偶然の力を信じていた。
家族の前で、直人は正直に試験の手応えを報告した。
「あれは多分駄目だね」
家族はここに来て、もはや直人を責める事はしなかった。責めたところで逆効果である事を知悉していたのである。家族は直人を励まし、飯を沢山食う様に勧めた。直人には家族の気遣いがありがたかった。
そんな直人の元に、思いがけぬメールが寄せられた。予備校のかつての友人達であった。彼らも直人と同じ大学を受験していたのである。
「お疲れ!どう?調子は。俺は苦戦した(泣)」
「今日の試験難しくなかった?過去問と全然違うし。ありゃ駄目だな(笑)」
「今日のはやけに難しかったなぁ。まあ俺らが難しいなら皆難しい訳だし、結果はわからんぞ」
「俺今日調子悪かったかも。でも明日は頑張ろう!」
皆手応えは芳しくないが、いやに前向きである。
「元気出せ。もう少しだから、頑張ろうぜ」
直人は一斉送信で返事を済ませた。自分もしくじった事はおくびにも出さなかった。その日の試験問題を復習して、直人は早めに床に就いた。
翌日、直人は繁華街にある大学を受験した。電車を乗り継ぎ、降りた事の無い駅で降車した。改札を出ると目の前に商店街や学生街が華やかに広がっており、そのくせ線路に沿って流れる川が煌めいて、人工と自然の調和を成していた。
(悪くないな)
直人は何となくこの環境が気に入った。が、ビル街の小径を縫う様にして辿り着いた大学の校舎を見て愕然とした。古びて黒ずんだコンクリート製の外壁は酸性雨によって溶かされ涙を流している様で、鬱蒼と蔦が這っている様は廃墟さながらであった。そこは直人の思い描いていたキャンパスというものの心象とかけ離れていた。
(ここには来たくないな)
と、明確にではないものの心の奥でそんな気持ちが過った。人間の選択的行動等所詮このような好悪によるものである。そういう気持ちが災いしたか、直人はまたしても試験をしくじった。モチベーションの低下が原因か、それとも単なる実力不足か、そこは明瞭でない。しかし落胆すら出来ぬ程、気の抜けた試験であった。
家に帰って首尾を報告すると、家族は相変わらず直人を元気づけようと努めた。
「気にするな。他が駄目だって一校にさえ引っかかれば良いんだから」
「そうよ。ここで気落ちしたらアウトよ!」
こんな家族の声援を、直人は上の空で聞いていた。勿論ありがたくは思うのである。が、今一つ現実味が湧かない。彼らがそれほど必死になって声援を送る事に対して、一種の哀れみの情すら湧いてくる。一方直人の携帯電話には友人達からのメールが相変わらず届いていた。
「どうしよう。また駄目だった」
「何だか今年難しくないか?」
「またもや撃沈だよ…」
「もうやる気無くしちゃったよ」
皆昨日よりも何だか後ろ向きである。さすがに二度続けて失敗すると危機感が迫ってくるのであろう。直人はこれには返事を書かなかった。傷の舐めあいなどしたくはなかった。直人は携帯電話を放り投げて布団を被った。
次の受験は、郊外にある大学であった。郊外と言っても、そこは完全な山奥だった。直人もこんな山腹に寂しく佇む大学とは予想だにしていなかった。怠惰な事に、直人はオープンキャンパス等に参加した事は皆無だったのである。直人はこうして出鼻をくじかれた上、大学の試験会場まで来るのに二時間近くかかり、剰え雨まで降っていたため、会場に到着した時点ですっかり疲弊していた。戦意喪失していた直人は、ここでも試験に失敗した。真に欲しないものは与えられないのであろうか?確かに直人は目の前に聳える壁の向こうを欲していなかった。そんなものはたかが知れていると、心の何処かで思っていた。尤も芸術と共に暮らしたいという意思はあった。けれどもそこに至るまでの道のり、まして芸術が自分を認めてくれるまでの長い長い道のりを思うと、足がすくんだ。どこまで行っても超えるべき壁の連続。人生に立ちふさがる壁の連なりを俯瞰し、直人は鳥肌を立てた。
家族の励ましはもはや苦し紛れと言って良い程最高潮に達していた。
「大丈夫だ。最後まで諦めるな!」
「そうだ。人生何とかなるもんだ」
「そうそう、何が起こるか分からないよ!」
直人はもはや家族の態度を白々しい嘘八百だと思った。彼らが奮い立とうとする度に、悲愴な空気が色濃くなる事を否めないのであった。
そしてまた友人達のメールは先日にも増して悲愴なものだった。
「もう駄目だ!もう終わりだ!」
「助けて!どうしよう。親に報告できないよ」
「あんなに頑張ったのになぁ…。来年もよろしくね」
「俺やっぱホームレスになるわ」
しかし直人はやはり返事を返さなかった。
しかしどうだろう。家族の、友人達の必死の形相。業病に取り憑かれた者の喉を掻きむしる様な喘ぎ。一方では励まし、祈り、信じ、そのくせその全部が嘘で、また一方では堕ち、諦め、呪っている。彼らの阿鼻叫喚は醜く、見るに耐えない。彼らは奴隷的幸福狂だ。幸福を指向する奴隷がこんなにも醜いとは!直人は全てが馬鹿らしくなった。とは言え一抹の罪悪感を感じて、試験問題の復習だけはして、早々に寝た。
次は都心にある大学である。立地もよく校舎も綺麗だ。緑豊かで居心地も良い。しかし心なしか直人には敷居が高い様に感ぜられた。厳めしい校門の鉄格子はまるで西洋の監獄のようであり、大学の敷地内に赤煉瓦が敷き詰められて、赤絨毯の如き気品を醸していた。そうかと思えば敷地の片隅には古めかしい寺院の様な荘厳な建物があり、名前の分からぬ神様を鹿爪らしく祀っているのである。地味な直人はそこにいるだけで面映かった。極めつけは守衛であった。直人が側にいた守衛に試験会場までの道を尋ねると、警官の様なぴったりとした制服を着た年老いた守衛は丁寧に道を説明してくれた。ところが直人が礼を言ってその場から立ち去ろうとすると、守衛は警制帽を脱ぎ、深々とお辞儀をして直人を見送ったのである。守衛の禿頭は神々しく輝いていた。直人はこれに圧倒された。故に例の如く試験に失敗した。いや、ここまで来るともはや本人の実力不足と言う他無い。ただ失敗してもやはり危機感が薄かった。
これで既に四校の受験が終了し、直人はその全てに失敗した訳である。無論合否は未だ発表されていないが、もはやそれを待つまでもなかった。直人には後がなくなったのである。しかも残る一校は直人の第一志望たる難関であった。これに望みをかける事はもはや絶望的である。
家族はもはや失望し、誰も口をきくものはいなかった。どんな励ましも夢も希望もなくなった家族の食卓は、静止画の様に動かず、無音であった。食器の擦れあう鋭い音だけが無闇に耳介に響く。
また、友人達からのメールも遂に途絶えた。悲劇は他人と共有する術が絶たれた時に初めて本物となる。皆大方直人と同じ結果に終わったのであろう。
周囲の人間の暗澹たる絶望と魂の抜けた様な眼差しに居心地が悪くなり、直人は自室に籠った。しかし直人の心中には密かに不可思議な希望が産声をあげていた。
(周囲は既に未来を諦めている。誰一人として俺に、自分に対して期待をかける者はいない。皆が皆俺の失敗をもはや当然と思っている!こんな中で周囲の予想を裏切って大成功を収めたらどうなるだろうか?ふふふ…何と快い事か。俺は周囲に、俺の人間性を蹂躙し、絶えず嘲笑を浴びせてきた人間どもに吠え面をかかせてやることができる!俺を見くびってきた連中を出し抜ける!のみならず俺は偶然の力を周囲に見せつけ、かつ偶然を心から信じる事ができる!偶然の主、すなわち、俺は王になる!)
直人が天の邪鬼だったのではない。妄執は他人の期待を裏切る事を夢見ていた。そしてそれはこんな形で発露した。であるから、直人にとってそれは不自然ではなかった。奮起する直人は、今までとは一変して生気に満ちた瞳を輝かせた。天井の失地王の双眸は複雑な思いでそんな直人を見つめていた。
その翌週、直人は燦々と晴れた空の下、生き生きと志望校に向かった。そんな直人の溌剌とした表情の意味を読み取る者はいなかった。