第一章 凡俗な妄執
おれの五体のなかには地獄がある。そこでは毒が閉じ込められた悪魔のように暴れまわり、救いようのない呪われた血を責めさいなんでいる。
ウィリアム・シェイクスピア『ジョン王』
第一章 凡俗な妄執
直人は今日もイヤホンを耳に突っ込み、死んだ様な目をして満員電車に運ばれてゆく。周りはスーツを着たサラリーマン、それに制服を着た学生で混み合い、息も継げぬ程の人口密度である。疲労と倦怠の混濁した空気の中に身を置く直人は表情を無くし、肩は垂れ下がり、焦点が定まらずに視界がぼかされていた。訳も無く、直人は自嘲的な笑みを浮かべている。
と、直人の足を踏んだ者がいる。
「すみません!」
と慌てて謝ったのは何故か直人であった。
降車駅に着き、直人は人混みを遠慮がちにかき分けて電車を降りようとする。が、出入り口の前の手を繋いだカップルが邪魔になり、降りるに降りられない。
「降ります!」
の一言が直人は言えなかった。結局ドアが閉まる寸前でやっと降りる事が出来た直人は、ホームに躓いて転びそうになった。誰かの失笑が漏れる。直人の自嘲はいよいよ激しくなり、そのせいか直人は頗る早足で駅のホームを歩き出した。
退屈な人生は妄執に取り憑かれて過ごす他ない。こんなある種絶望的な真理を、直人は既に熟知していた。大学受験に失敗し、浪人生として予備校に通う毎日を送る直人にとって、妄執のみが身にまとわりつく退屈を振り払う唯一の手段であったのである。こんな輩の取り憑かれる妄執は決まって突飛なものであり、直人のそれも「大学生になった自分」等という平凡なものではなかった。全くの笑い話だが、直人は子供の頃から何とはなしに自分が歴史に名を刻む程の大人物になる様な予感がしており、またそれを信じて疑わなかった。それは例えば坂本龍馬の様な勇猛な変革者であり、ヒットラーの様な暴虐極まりない独裁者であり、あるいはどこぞのミュージシャンの様なスキャンダラスな放蕩者であり…。要するにそういう誇大妄想を抱いている事が直人の退屈な人間たる第一の証拠であった。実際、直人は客観的に見れば凡庸と呼ぶにも足らないくらい冴えない男であった。色白で背は低く、小太りで猫背でなで肩という蛙の如き珍奇な体型に加えて、顔は童顔で目尻が垂れていた。おまけに髪の毛はくせ毛で縮れていたし、近眼で牛乳瓶の底の様な度の強い眼鏡を四六時中かけていた。もとより勉強も運動も苦手で、そういう境遇のせいか友人も少なく、今となっては対人関係など直人の最も避忌するところとなってしまっていた。学校でいじめにあった記憶もないではないし、増して女になど当然の如く縁がなかった(お陰で彼の中で女という人種は半ば神格化されており、到底この世のものとは思われなく、自分の母親が女であるという事実すら今もって信じる事ができないのであった)。そんな自分の持って生まれた形質の残酷なまでの貧相さとそこから生ずるみすぼらしい人生を、直人自身よく分かっているのである。しかしそんな現実を目の当たりにすればする程、直人の妄執は甘美な光芒をたたえたオアシスの様に彼を誘い、彼の生の渇きを癒し、慰めるのであった。
青雲の志は得てして人を目標に正しく導くものであるが、こうした心密かに抱いた妄執というのは心の逃げ道であるので、常に自己を正当化する作用を持つ点で似て非なるものである。直人の様な人間の青春時代というのは大体皆同じ様な筋道を辿るもので、直人はその典型と言うべき悲惨な青春を送ってきた。常に人間集団の中では暗黙の階級意識の最底辺に位置づけられ、周囲からは何かにつけて叩かれ小突かれ嘲笑を浴び、両親からは廃れ物として扱われ、女からは空気の様に無視され、友人といえば同じ様な出来損ないばかりであった。そんな現実に慣らされてきた直人と言えど、それで悔しくない筈は無い。だがいくら地団駄を踏んだところで、知力、体力、容貌、人望等のうちどれ一つとして他人に勝ったところの無い直人にはなす術も無く、
「いつか他人を見返してやれ」
という甚だ無責任な戯れ言の下、無駄な努力を強いられる他無いのである。こんな現実を鑑みれば、直人が妄執の中に身を潜めて生きざるを得なかったというのも分からないではない。
実際、直人の場合この妄執の恩恵に大いに与ってきたとも解釈できるのである。直人には常に根拠の無い自信が満ち溢れていた。その理屈はこうである。自分は劣っているのではなく理解されないだけなのだ。これは優劣の問題ではなく種類の問題なのだ。「大功を成す者は衆に謀らず」と言うではないか。真の成功者は例外無く孤独であったではないか。従って理解されない自分こそが真の成功者たる資格を持つのだ。こうして直人は弱いもの程夢見がちであるという凡庸さの中に自分もまたすっぽりと収まってしまっている事に気付かずに、その日その日を意気揚々と生きる事ができるのであった。
加えて直人の家はどちらかと言えば裕福な家であった。父親が大銀行の幹部であり、そこそこの成功者であったのである。従って直人は幼少の頃より、苦労知らずの世間知らずで育ってきた。そういう生い立ちが直人の妄想癖を育んできたのかも知れなかった。つまり直人は世間一般で言う「幸福」というものにおよそ興味が無かったのである。有名大学に入学し、一流企業に就職し、出世して、結婚して、子供を作り、温かな家庭を築いて…。そんな俗に言う「幸福な」人生が所詮取るに足らないものであるということを、直人は父親の背中を見て痛い程噛み締めてきた。であるから、直人の過剰な自意識は一種のエディプスコンプレックスと言えるかも知れなかった。そんな訳で、経済的余裕の無い家庭の子供が勤勉であるのとは逆に、直人は世俗における成功モデルを軽蔑し、それを遥かに超えた将来像を抱きながら漫然と生きてきたのである。確かに先に挙げた様な坂本龍馬やヒットラーの様な例はそんな人間の典型であったかも知れない。いずれも生家が裕福であったし、その割には不遇な少年時代を送ったという話もある。彼らがいかなる人物で、いかにして歴史に影響を与え、それが善か悪か、という議論は別にし、彼らの生い立ちが直人に
(ひょっとすると自分もそんな種類の人間なのではないか?)
という妄執を与えていた。