円満な婚約解消を目指します。完璧な悪役令嬢なはずなのに、王太子殿下は嬉しそうです
王太子妃教育を修了したのは、十五歳の春のことでした。
歴史に外交、礼法、領地経営、それから刺繍。山ほどあった課題がすべて片づいた日、家庭教師の先生に「もう教えることはございません」と言われたわたくしは、嬉しいような、ぽっかりしたような気持ちで、しばらく空を眺めていました。
困ったのは、その後です。
妃教育のあいだは「授業のため」という立派な理由があったので、堂々と王宮に通えました。授業の合間に、廊下で殿下にお会いできることもありました。けれど教育が終わってしまえば、その理由もなくなります。
お忙しい殿下のもとへ、用もないのに押しかける婚約者なんて、きっとご迷惑でしょう。
そう考えて、わたくしは半年ものあいだ、王宮から足が遠のいていました。夜会やお茶会でお会いするときの殿下は、いつも優しくて、完璧で、「会いに来てくれなくて寂しい」などとはおっしゃいません。それが答えなのだと思っていたのです。
ですが、今日は違います。殿下がもうすぐ王立学院をご卒業なさるので、お祝いに、殿下のお好きなレモンのクッキーを焼いてきたのです。手作りです。三回失敗して、四回目でようやく焦げなかったものです。
(渡すだけ。渡したらすぐに帰る。ご迷惑にならないように)
小さな箱を抱えて、執務室へ続く廊下を進みました。
執務室の扉は、少しだけ開いていました。取り次ぎをお願いしようと息を吸ったとき、中から殿下の声が聞こえました。
いつもの落ち着いた声ではありません。絞り出すような、切羽詰まった声でした。
「もう無理だ。婚約者なんてやめたい!」
……時間が、止まりました。
側近のハロルド様の低い声が、何か返したようでした。けれど、わたくしの耳には、もう何も入ってきませんでした。
気がつくと、わたくしは来た道を引き返していました。取り次ぎも頼まず、衛兵の方に会釈だけして、背筋を伸ばして、令嬢らしく、静かに。
帰りの馬車の中で、クッキーは全部、自分で食べました。少ししょっぱかったのは、きっとバターのせいです。
* * *
その夜、わたくしは自室の窓辺で、ずっと考えていました。
殿下は、悪くありません。
それだけは、はっきりしています。殿下はいつも優しくて、わたくしを一度も軽んじたことがありません。ただ、それは婚約者への務めとして、完璧な王太子として当然の振る舞いだったのでしょう。
わたくしだけが、好きだったのです。
茶色の髪に、茶色の瞳。どこにでもいる、地味な令嬢。そんなわたくしが、殿下の理想の相手でないことくらい、本当は分かっていました。
(……でも)
胸の奥が、ちくりと痛みます。けれど、泣くのは後です。
愛する方が望んでいらっしゃるのなら、叶えて差し上げたい。それが、わたくしにできる唯一の恩返しではないでしょうか。
問題は、方法です。
この婚約は、王家とわたくしの家との約束事。殿下のほうから「やめたい」と言い出せば、角が立ちます。お優しい殿下は、きっとそれを避けて、お一人で悩んでおられるのでしょう。
ならば、わたくしにできることは一つです。
殿下が罪悪感を抱かずに、堂々と婚約を解消できる理由を、わたくしが作ればよいのです。たとえば、婚約者のわたくしが、殿下に愛想を尽かされるほど、どうしようもない令嬢であったなら。
……我ながら、筋は通っています。
とはいえ、嫌われる令嬢とは、具体的にどうなればよいのか。
翌朝、わたくしは侍女のメリルに、真剣に相談しました。
「メリル。婚約を解消した方のお話って、聞いたことがあるかしら?」
メリルは目を丸くして、それから、ぱあっと顔を輝かせました。
「まあ、お嬢様! ついに読む気になられたのですね!」
「……読む?」
「今、王都の令嬢たちのあいだで大流行の恋愛小説です!『薔薇の恋と、私だけの王子様』! ちょうど、そういうお話なんですよ。お嬢様が恋愛小説に興味をお持ちになるなんて、メリルは嬉しゅうございます!」
何か食い違っている気がしましたが、メリルは分厚い本をわたくしの手に押しつけて、うきうきと部屋を出ていってしまいました。
まあ、いいでしょう。参考になるかもしれません。
そしてその夜、わたくしは一晩で読み切りました。
王太子殿下の婚約者である公爵令嬢が、殿下の気にかける平民の特待生、つまりヒロインをいじめ抜く物語です。けれど、わたくしの目を釘づけにしたのは、ヒロインではありませんでした。
その公爵令嬢です。
彼女は、王太子殿下の寵愛を独り占めすることに、執念を燃やしているのです。傲慢で、嫉妬深く、殿下の隣に立つのは自分だけだと信じて疑いません。巨大な宝石を身につけ、殿下をわがままに振り回し、舞踏会では「ほかの女性と踊ってはいけません」と独占する。さらには、殿下が気にかけるヒロインをお茶会に招き、身分の違いを見せつけて、皆の前で恥をかかせる。
そうして悪女として振る舞い続けた彼女は、ついに殿下に愛想を尽かされ、見事、婚約を解消されるのです。
わたくしは本を閉じ、立ち上がりました。
「これだわ! わたくし、悪役令嬢になります!」
ちょうど朝のお茶を運んできたメリルが、扉の向こうで「お嬢様、感想はそれだけですか!?」と叫んでいましたが、わたくしはもう、手帳に計画を書きつけ始めていました。
* * *
作戦その一は、「宝石」です。
小説の悪役令嬢は、拳ほどもある宝石を毎日身につけていました。浪費家で、贅沢好きで、王子様のお金をいくらでも使う女。まずは、そう思われなければなりません。
わたくしは久しぶりに堂々と王宮へ向かい、殿下とのお茶の席で切り出しました。
「殿下。わたくし、宝石が欲しゅうございますわ」
殿下は、紅茶のカップを持つ手を止めて、わたくしを見ました。
「宝石を?」
「ええ。それも、今あるどんなものより大きくて、お高いものを。殿下のお金で、遠慮なく買っていただきたいのです」
(言ったわ。言ってしまったわ。なんて強欲な婚約者でしょう)
殿下の青い瞳が、すっと見開かれます。口元が、わずかに震えています。
きっと呆れていらっしゃるに違いありません。わたくしは内心でほくそ笑みました。
「……クラリス」
「はい」
「君が私に何かを欲しがってくれたのは、初めてだね」
「ですから、そう申し上げて……」
「分かった。すぐに宝石商を呼ぼう」
殿下は勢いよく立ち上がりました。けれど、すぐに何かに気づいたように動きを止め、何事もなかったかのように座り直します。
「……こほん。ハロルド、宝石商を呼んでくれ」
ハロルド様が、深々と頭を下げました。その肩が小刻みに揺れていたのは、なぜでしょう。
半刻後、王宮御用達の宝石商が、黒い天鵞絨の箱をいくつも抱えて現れました。わたくしは迷わず、最も大きな石を指さしました。
「これにしますわ。一番大きくて、一番お高いもの」
鶏の卵ほどもある、深い青のサファイアでした。ペンダントにするには、少し重すぎるくらいです。
宝石商が、恭しく言います。
「さすがは未来の妃殿下。こちらは、殿下の瞳のように澄んだ青でございまして――」
「余計な説明はいい」
殿下が、いつになく早口で遮りました。見れば、殿下は窓のほうを向いていて、その耳が、ほんのり赤くなっています。
(一番高価な宝石をねだったから、お怒りなのかしら)
「……君が望むなら、そうしよう。それは、君のものだ」
二日後、サファイアは天鵞絨の箱に収まって、わたくしの屋敷に届けられました。丁寧なことに、殿下の直筆のカードが添えられていました。
『気に入ってくれたら嬉しい』
(ふふふ……これで、浪費家だと思われたはず)
それから、わたくしは毎日、そのサファイアを身につけました。朝食の席でも、庭の散歩でも、花壇の水やりでも。メリルが「お嬢様、土いじりにそれは……」と悲鳴を上げましたが、悪役令嬢とは、宝石を普段使いするものなのです。
もちろん、王宮へ行くときも。
その日、廊下でばったり出会った殿下は、わたくしの胸元に目を落として、一瞬、息をのみました。
「……着けてくれているんだね」
「ええ、毎日ですわ。外す理由がありませんもの」
「毎日」
殿下は復唱して、口元を手の甲で隠しました。耳が、また赤いのです。
「そうか。……よく似合っているね」
その背後で、ハロルド様が激しく咳き込んでいました。お風邪でしょうか。
* * *
作戦その二は、「デート」です。
悪役令嬢は、婚約者の都合などお構いなしに、自分の気が向いたときに振り回すものです。そこでわたくしは、殿下が一番お忙しい、午後の執務の直前を狙いました。
「殿下! 今すぐ、王都へ参りますわよ! わたくし、街を歩きたい気分なのです!」
執務室の入り口で、わたくしは扇を突きつけて宣言しました。机の上には、書類が山のように積まれています。
(さあ、困りなさい!)
殿下は、羽根ペンを置きました。ゆっくりとわたくしを見て、ふわりと微笑みます。
「もちろん、構わないよ」
あっさりと返事をする殿下。お忙しいはずでは?
「ハロルド。午後の予定は、すべて明日以降に」
「……かしこまりました」
ハロルド様は、眼鏡を押し上げて、深いため息をつきました。
その後の殿下の手際の良さは、驚くほどでした。お忍び用の外套を一瞬で用意し、馬車を手配し、気がつけばもう、王都の大通りにいました。
「あの角のパン屋の蜂蜜パイが、評判らしいよ」
「……よくご存じですのね」
「あ、いや。人から聞いたんだ。たまたま」
「向こうの通りには、リボンの専門店もあって――」
「殿下」
「聞いただけだよ」
(殿下は、情報通でいらっしゃるのね)
わたくしは負けじと、悪役令嬢らしくわがままを重ねました。あれも買って、これも買って。荷物は、全部殿下に持たせます。王太子殿下に荷物持ち。完璧な嫌がらせです。
ところが殿下は、紙袋をいくつも抱えて、どこまでも楽しそうに歩いています。
「あの、殿下。重くはありませんか。お疲れでは」
「少しも。……ねえ、クラリス」
「はい」
「一度、君と、こうして街を歩いてみたかったんだ。ずっと」
春の風が、殿下の金髪を揺らしました。青い瞳が、ほんの少し照れくさそうに細められます。
わたくしは、一瞬、言葉に詰まってしまいました。
(……なんてお優しい)
本心では、振り回されてご迷惑でしょうに。それでも、そうおっしゃって、わたくしに恥をかかせないでくださる。その優しさに、胸がいっぱいになりかけて――いえ、いけません。気を引き締めなくては。今日の目的は、嫌われることなのですから。
「で、では次は、あちらのお店ですわ!」
「喜んで」
夕方、馬車に乗るとき、殿下は小さな声で「また、行こう」とおっしゃいました。きっと、社交辞令でしょう。
* * *
作戦その三は、お茶会です。
小説の悪役令嬢は、殿下が気にかけているヒロインをお茶会に招き、身分の違いを見せつけて、皆の前で恥をかかせていました。嫉妬深い悪女の、まさに見せ場です。
わたくしも、さっそく招待状を書こうとして――ペンを止めました。
(……ヒロインが、いませんわ)
殿下が特別に気にかけておられる女性など、思い当たりません。小説のヒロインは、平民の特待生でした。けれど、現実の殿下のお側には、そのような少女はどこにも見当たらないのです。
これは困りました。
ヒロインがいなければ、お茶会でいじめることもできません。ヒロインのいない悪役令嬢なんて、主役のいない舞台のようなものです。
しばらく考えて、わたくしは手を打ちました。
「そうですわ。ヒロインがいないのなら、平民の特待生を招けばいいのでは?」
身分の違いを見せつけるという目的は、変わりません。しかも、一人より三人のほうが、人数が多い分、嫌がらせの効果も高そうです。
(我ながら、冴えているわ)
こうしてわたくしは、王立学院に通う特待生の少女を、三人、屋敷の庭に招待しました。リーネ、ミナ、そしてフェナ。みな、わたくしより少し年下の、真面目で成績優秀な子たちです。
準備には、全力を尽くしました。
白い薔薇のアーチ。三段重ねの銀のティースタンドには、苺のタルト、薔薇の砂糖菓子、蜂蜜を染みこませた焼き菓子。茶葉は、東の国から取り寄せた最高級のもの。給仕は使用人総出で、ついでに、わたくしの昔のドレスも数着、さりげなく並べさせました。庶民には手の届かない品々を前にして、使用人たちが見守る中で恥をかかせてやるのです。
三人は、ひどく緊張した面持ちでやって来ました。
「こ、このたびは、お招きいただき……」
「ご挨拶は結構ですわ。さあ、お座りなさい」
わたくしは扇を広げ、優雅に――いえ、傲慢に微笑みました。
「どうぞ召し上がれ。こんなお菓子、あなた方は一生に一度も口にできないでしょうから。今のうちに、たっぷり味わっておくことね」
(決まったわ。嫌味のお手本のような台詞だわ)
三人は顔を見合わせ、おそるおそる、苺のタルトに手を伸ばしました。そして、一口。
ぱあっと、三人の顔が輝きました。
「おいしい……!」
「なんですか、このタルト! 苺が宝石みたいです!」
「クラリス様、お菓子って、こんなに美味しいものだったんですね……!」
……ふふふ。顔を赤くして、ふるふると震えて悔しそうですわ。
わたくしは畳み掛けるように第二段階に移りました。
「ふん。お菓子の食べ方すら、ご存じないのではなくて? 貴族のテーブルマナー、皆の前で、わたくしが教えて差し上げますわ! ほら、ナイフは外側から! 背筋を伸ばして!」
これで、きっと恥をかくはずです。
「なるほど! ナイフは外側から……!」
「クラリス様、カップの持ち方もご教示いただけますか!」
「お辞儀の角度は、これで合っていますか?」
最初は、嫌がらせのつもりでした。けれど、せっかく教えるのですから、中途半端はよくありません。わたくしは、つい本気になって、姿勢、視線、会話の運び方まで、丁寧に指導してしまいました。
日が傾くころには、三人の所作は、見違えるほど美しくなっていました。
「……お上手ですわ。その調子です」
思わずそう口にしてから、はっとしました。
(い、いけない。悪役令嬢は、人を褒めたりしないのだわ)
わたくしは慌てて扇で口元を隠し、冷たい声を作りました。
「か、勘違いなさらないで。教養のない子を見ていると、イライラするだけですわ!」
「はい! ありがとうございます、クラリス様!」
「…………」
お開きの時間、三人は並んで、深々と頭を下げました。ミナが、頬を赤くして言います。
「あの……クラリス様。私たち、貴族の方は怖い人ばかりだと思っていました。でも、クラリス様は、こんなに素敵な方だったんですね」
「憧れます!」
「わたくしも、いつかクラリス様のようになりたいです!」
三人は、帰りの馬車の窓から、いつまでも手を振っていました。
屋敷の門の前に残されたわたくしは、扇を閉じて、うなずきました。
(……あの子たち、本当は悔しいのを、必死に隠していたのですね。礼儀正しくて、いじらしいこと。でも、わたくしには分かりますわ。目が真っ赤で、涙目でしたもの。あれは悔し涙です)
きっと今ごろ、馬車の中で「あんな意地悪な人には、もう二度と会いたくない」と泣いているに違いありません。
「ふふふ……これで、嫌われたはずですわ」
後日、メリルが「お嬢様、学院でのお嬢様の評判が、すごいことになっておりますよ!」と興奮していましたが、悪評のことでしょう。計画どおりです。
* * *
作戦その四は、金色のドレスです。
もうすぐ、王宮で舞踏会が開かれます。悪役令嬢にとって、舞踏会は最大の見せ場。ここで、誰もが目を疑うほど派手な装いで現れ、殿下に呆れていただかなければなりません。
わたくしは、再び殿下とのお茶の席で、おねだりをしました。
「殿下。次の舞踏会のために、新しいドレスが欲しゅうございますの」
「ドレス? いいね。どんな色が――」
「金色ですわ! 全身、金色。誰よりも豪華で、誰よりも目立つものを。もちろん、お代は殿下のお支払いで」
(さあ、どうです。なんて図々しい婚約者でしょう)
殿下は、静かにカップを置きました。
そして、ふっと目を細め、本当に嬉しそうに微笑みました。
「金か。君の瞳の琥珀色にも、よく合うだろうね」
「……え」
「分かった。王宮お抱えの仕立て屋に、最高の職人を集めさせよう。生地も、君が好きなだけ選ぶといい」
「そ、そんなに……よろしいのですか? 金貨が、山のように飛びますわよ?」
「君が着るものに、惜しむものなどないよ」
あまりにあっさりと、そして楽しそうにおっしゃるので、わたくしのほうが拍子抜けしてしまいました。
(……お優しすぎます、殿下。もう少し、怒ってくださってもいいのに)
数日後、仕立て屋の一団が、わたくしの屋敷にやって来ました。
「お嬢様のご希望は、『誰よりも金ピカで、派手に』と伺っております」
「ええ。リボンは三十個。フリルは百枚。肩にはクジャクの羽根を」
「かしこまりました。……腕が鳴りますな」
白髪の親方が、きらりと目を光らせました。
それから三週間、試着のたびに、わたくしは「もっと派手に!」「もっとキラキラ!」と注文をつけ続けました。ところが、できあがってくる試作品は、日に日に洗練されていくのです。
布の流れは、柔らかな波のよう。金糸の刺繍は、陽だまりのように控えめに輝き、裾には、さりげなく小さな琥珀が縫いつけられていました。
「あの、親方。わたくし、もっと派手にと申し上げたはずですが」
「ご安心ください、お嬢様。王国で一番、人の目を奪う一着に仕上げます」
親方の目は、本気でした。職人の矜持というものでしょうか。
そして、舞踏会の夜。
支度の手伝いに来たメリルに、わたくしは言いました。
「メリル。今夜は、悪女らしい髪型とお化粧にしてちょうだい。きつくて、冷たくて、近寄りがたい感じよ」
「悪女、でございますか?」
メリルは真剣な顔でうなずくと、眉をきりりと吊り上げ、目尻に黒い線を引き、髪を高く結い上げました。
鏡の中のわたくしは、たしかに、いつもより強そうです。ただ、結い上げきれなかった毛先が、頭の上でふわふわと揺れています。
「……お嬢様。これは、その、子猫が背伸びをして威嚇しているようで、大変愛らしゅうございます」
「威嚇? ならば成功ですわね」
「いえ、そうではなく……」
メリルは何か言いたげでしたが、時間がありません。わたくしは完成したドレスをまとい、大広間の扉の前に立ちました。
扉が開くと、ざわめきが、ぴたりと止みました。
(あら? 皆様、驚いていらっしゃる? 成功だわ!)
そのとき、人垣の向こうから、殿下がこちらへ歩いてくるのが見えました。白と金の礼装が、きらびやかです。けれど、わたくしの前で足を止めると、殿下は何もおっしゃらないのです。
ただ、わたくしを見つめて、瞬きもせず、動きません。
「……殿下?」
「…………あ。ああ」
我に返った殿下は、こほんと咳払いをして、いつもの笑顔を作りました。
「よく似合っているね。本当に」
その声が、かすかに震えていたことに、わたくしは気づきました。
(呆れて、声も出なかったのね!)
作戦は、成功です。では、仕上げに参りましょう。
わたくしは、ぐっと胸を張り、殿下の目の前で、扇をぴしゃりと閉じました。
「殿下! 今夜は、わたくし以外の女性と踊ってはダメですわ!」
周囲が、どよめきました。ご令嬢たちが、目を丸くしています。これは、さすがに殿下も――。
「もちろん、構わないよ」
殿下は、満面の笑みで、手を差し出しました。
「最初の一曲も、最後の一曲も、君と踊ろう。その間の曲も、全部」
「ぜ、全部……?」
「だめかな?」
「い、いえ……ですが、それでは殿下が、他のご令嬢方にご挨拶を……」
「構わないよ。今夜は、君を独占していたいんだ」
わたくしのほうが、顔が熱くなりました。
(なんというお言葉。本心を隠した、大人の対応というものね! わたくしが無茶を言っているのですから、そうおっしゃるしかないのでしょう)
音楽が始まりました。殿下に導かれて、わたくしはくるくると踊ります。一曲、二曲、三曲。足がもつれても、殿下がさりげなく支えてくださいます。
四曲目の途中、殿下が、わたくしの耳元で囁きました。
「ねえ、クラリス。二年というのは、長いね」
わたくしは、はっとしました。
二年。わたくしが十八歳になって、結婚する日までの時間。
(そうよね。婚約者として、二年も我慢して、わたくしと付き合い続けるなんて、長すぎますわよね)
胸が、ずきりとしました。けれど、顔には出しません。
「ええ、本当に。長すぎますわね。ですから――どうか、ご安心くださいませ」
「……え?」
「いいえ、こちらの話ですわ」
殿下は首をかしげましたが、すぐにまた、嬉しそうにわたくしの手を引きました。
その夜、殿下は十曲すべてを、わたくしと踊られました。広間の隅では、ハロルド様が、遠い目をして飲み物を口にしていました。
* * *
帰りの馬車の中は、静かでした。
車輪の音と、蹄の音。窓の外を、王都の灯りが流れていきます。
わたくしは背もたれに身体を預け、金色のドレスの裾を見下ろしました。
(成功したわ。成功したのよ、クラリス)
宝石をねだり、街を連れ回し、特待生のお茶会を開き、金色のドレスを着て、殿下を独占した。小説の悪役令嬢と、ほぼ同じことをやり遂げたのです。そして殿下は、お喜びでした。ええ、とても。
思い返せば、サファイアのときも、デートのときも、ドレスのときも、殿下は見たこともないくらい嬉しそうでした。
わたくしが、地味に、遠慮がちにお茶を飲んでいただけの頃の、あの穏やかな微笑みとは、まるで違って。
(……そうか。殿下は)
(華やかな女性が、お好きだったのね)
すとん、と腑に落ちました。
殿下が本当にお望みだったのは、わたくしのような控えめな女ではなくて、こういう、きらびやかで、自分の望みをはっきり口にできる女性だったのです。
それなら、殿下の願いは叶います。悪役令嬢計画は、大成功なのですから。嬉しいはずなのです。
それなのに、胸の奥に、小さな石がひとつ、ころんと落ちたような気がしました。
首にかかったサファイアが、ひやりと重く感じられます。
窓に映るわたくしは、金色に輝いているのに、どこか知らない人のようでした。
(……いいえ。これでいいの)
殿下が、お幸せなら。
わたくしは、窓の外の夜空を見上げて、小さく息を吐きました。
あと少しで、殿下の王立学院のご卒業。その祝いの夜会が、最後の場になるでしょう。
そのときは、悪役令嬢はお休みして、いつものわたくしで出席しよう。
最後くらい、殿下の知っているクラリスのままで、お別れを言いたかったのです。
* * *
卒業パーティーの日が来ました。
わたくしが選んだのは、淡い薄桃色の、飾り気のないドレスでした。髪は、いつものようにゆるくまとめるだけ。耳元には、小さな真珠。サファイアは、箱にしまってきました。
王立学院の大広間は、花と灯りで飾られ、卒業生たちの笑い声に満ちています。
(殿下は……あちら)
お友達や後輩の方々に囲まれて、卒業生の礼装に身を包んだ殿下が、穏やかに微笑んでいました。やはり、誰よりも気品のある、わたくしの王太子様。
これが、婚約者として隣に立てる、最後の夜かもしれません。
深呼吸をして、人垣へ近づきました。
「殿下。ご卒業、おめでとうございます」
殿下が振り向きました。そして、わたくしの姿を見て――ふわりと、笑ったのです。
それは、宝石や金のドレスのときのような、はじけるような笑顔ではありませんでした。もっと、ほっと力が抜けるような、静かで、あたたかな笑みでした。
「いつもの君も、やっぱり素敵だね」
「…………ん?」
思わず、令嬢らしからぬ声が出ました。
(……いつもの、わたくし?)
(それに、「やっぱり」?)
おかしくありませんか。殿下は、華やかな女性がお好きなのでは。
「サファイアは、今日はお休みかい? ……いや、あれも似合っていたけれど、今日の君は、見ていて落ち着くよ」
殿下は、嬉しそうに、わたくしの薄桃色のドレスを見つめています。いつまでも見ていたい、とでもいうような顔で。
わたくしの頭の中で、これまでの出来事が、ぐるぐると回り始めました。
サファイアのときの、赤い耳。デートの日の、「ずっと」。金のドレスのときの、震えた声。十曲の、ダンス。
そして、あの廊下で聞いた、一言。
(……わたくし、何か、とんでもない間違いをしているのでは)
それを確かめるには、たったひとつ、聞かなければならないことがあります。
「殿下」
「ん?」
「少しだけ、バルコニーで、お話をさせていただけませんか」
* * *
夜風の吹くバルコニーには、わたくしたち以外、誰もいませんでした。
背後から、舞踏曲が小さく聞こえます。わたくしは手すりの前で、ぎゅっと両手を握りました。
「殿下。一つだけ、おうかがいしたいことがございます」
「なんだい? 君の頼みなら、何でも」
「…………婚約を、解消したいのでしょうか」
世界から、音が消えた気がしました。
殿下は、微笑んだ形のまま、凍りついています。まるで彫像のようです。
「…………え」
「もし、そうでしたら、わたくしは受け入れる覚悟ができております。殿下のお幸せが、わたくしの何よりの――」
「えっ!? なんで!? どうしてそうなるんだ!?」
殿下が、叫びました。
わたくしは、ぽかんと口を開けました。あの完璧な王太子殿下が、目を見開き、顔を真っ青にして、わたくしの両肩をつかんでいます。
「ま、待ってくれ! 婚約を解消したい!? 誰が!? 私が!? 誰が言った、そんなことを!?」
「で、殿下……? お、落ち着いてくださいませ」
「落ち着いていられるか! 君を失うかもしれないんだぞ!?」
「で、ですが。殿下が、執務室で、おっしゃっていたではありませんか」
わたくしは、しどろもどろに説明しました。
半年ぶりに訪ねたあの日、扉の前で、殿下の声が聞こえたこと。「もう無理だ。婚約者なんてやめたい」と、はっきりおっしゃっていたこと。
話しているうちに、殿下の顔色が、青から白、白から赤へと、めまぐるしく変わっていきました。
「あ、あれを聞いて……!? 続きは!? 続きを、聞かなかったのか!?」
「続き……?」
「違う、違うんだ! クラリス!」
殿下は、がばっと手すりに両手をついて、頭を抱えました。
「私は君と結婚したいんだ! 今すぐにでも結婚したい! あと二年も待てない! 毎日会いたいし、ずっと一緒にいたい!」
……。
…………。
「……はい?」
わたくしの思考が、完全に止まりました。
「君と会えなくて寂しかった! 毎日だって来てほしかったのに!」
殿下は、ようやく少し息を整えました。そして、それまでの勢いが嘘のように、小さな声で言いました。
「……だから、君が宝石をねだってくれたとき、本当に嬉しかったんだ。君が初めて、私に何かを望んでくれた。デートに誘ってくれたときも、独占したいと言ってくれたときも。頼ってもらえた気がして、私は舞い上がっていた」
「で、ですが、殿下は、華やかな女性が」
「華やか? 私が?」
殿下は、きょとんとして、それから、ぶんぶんと首を振りました。
「違う。私が好きなのは、豪華な宝石でも、金色のドレスでもない。クラリスだ。君が笑って、私の隣にいてくれることが、好きなんだ」
殿下は、そっと、わたくしの髪に指先を触れました。
「この髪は、木漏れ日を溶かしたようだと、ずっと思っていた。君の瞳は、琥珀みたいにあたたかくて、見つめられるたびに、私の心臓が持たない。何を着ていても、何も着けていなくても、君は君のままで、いちばん素敵なんだ」
……え。
えっ。
顔に、一気に血が上りました。
「で、でん、殿下。そ、そんな、わたくし、あの」
そのときでした。
「殿下。お声が、大広間まで響いておりますが」
バルコニーの扉の陰から、ハロルド様が、疲れきった顔で現れました。
「ハ、ハロルド!? いつから……!」
「『えっ!? なんで!?』の辺りからです。ちなみに、会場の皆様には、おそらく『あと二年も待てない』まで聞こえておりました」
「…………」
殿下は、顔を覆ってうずくまりました。
ハロルド様は、わたくしに向き直り、深々と頭を下げました。
「クラリス様。誤解の原因は、私にもございます。あの日の執務室での、殿下のお言葉の全容を、補足させていただいてもよろしいでしょうか」
「は、はい。お願いいたします」
「殿下はあの日、こうおっしゃいました」
ハロルド様は、遠い目をして、淡々と暗唱しました。
「『もう無理だ。婚約者なんてやめたい! 婚約者のまま、あと二年も待つなんて耐えられない! 今すぐ結婚して、毎朝クラリスと朝食をとりたい!』」
「…………」
「つまり、やめたいのは婚約ではなく、『婚約者』のまま待たされる期間のほうでございます。クラリス様が訪ねてこられなくなってからの半年間、殿下は毎日、窓の外を眺めては、『嫌われたのかもしれない』『会いたい』と、ため息をついておられました。私は、毎度それをお聞きしております」
「ハロルド、もういい……!」
「ちなみに、サファイアの日以来、殿下は毎朝、『今日はクラリスは来るだろうか』と、私に二十回ほど尋ねられます」
「やめろ、ハロルド!」
わたくしは、ふらりと、手すりにもたれかかりました。
では、あの日、わたくしが聞いた「やめたい」は。
あの言葉の、続きは。
全部、全部。
「……わたくし、とんでもない勘違いを」
「いや、私が悪い! 私が、ちゃんと言わなかったから! 君に、好きだと、ちゃんと言ったことがなかったから!」
殿下は、顔を上げました。耳まで真っ赤で、涙目で、いつもの完璧な王太子の面影は、どこにもありません。
けれど、これまで見た中で、いちばん愛おしい顔でした。
わたくしは、ふっと、肩の力が抜けるのを感じました。
「……殿下」
「な、なんだい」
「実は、わたくしも、ご報告しなければならないことがございます」
わたくしは深呼吸をして、すべてを打ち明けました。
殿下が婚約を解消したがっていると思い込んだこと。嫌われるために、恋愛小説の悪役令嬢を真似たこと。宝石も、デートも、お茶会も、ドレスも、独占宣言も、全部、全部、殿下に嫌われるための作戦だったこと。
話し終えたとき、殿下は、ぽかんと口を開けていました。
そして、肩を震わせ、堪えきれなくなったように、笑い出しました。
「ふ、ふふ……あはは! あれ、全部、悪役令嬢だったのか!」
「わ、笑わないでくださいませ! わたくしは、真剣でしたの!」
「分かってる、分かってる……すまない。だって、君があんなに一生懸命、私に嫌われようとして」
殿下は目尻の涙をぬぐい、それから、穏やかに微笑みました。
「でも、ごめん。作戦は、ひとつも成功していないよ。私は、全部、嬉しかった」
わたくしは、がっくりと肩を落とし、それから、くすりと笑ってしまいました。
「……そのようですわね。わたくしの計画は、大失敗でした」
「ああ。大失敗だ」
「でも」
わたくしは、顔を上げました。
ちゃんと、殿下の青い瞳を見て、言わなければなりません。ずっと胸の奥にしまっていた言葉を。
「わたくし、殿下をお慕いしております。ずっと、ずっと前から。……これからも、あなたの婚約者でいたいのです」
殿下の目が、大きく見開かれました。
やがて、その青がゆらりと潤んで、殿下は、わたくしの手を両手で包み込みました。
「……ありがとう。やっと、聞けた」
わたくしたちは、同じ顔で、ほんの少し泣きそうに笑いました。
* * *
その後のことを、少しだけ。
殿下は翌日、国王陛下に「結婚を半年でも早められないでしょうか」と直談判に行き、陛下に大笑いされたうえで、ハロルド様に連れ戻されたそうです。結婚は、予定どおり二年後。そのかわり、わたくしは、毎日のように王宮へ通うことになりました。
メリルには、あの小説をお返ししました。
「お嬢様、あれは、最近流行の恋愛小説のお話をされているのだと……! まさか、本気で参考にされていたのですか!?」
「ええ。おかげで、とても勉強になりましたわ」
メリルは「何がですか!?」と叫んでいましたが、それは内緒です。
今日も、わたくしは王宮の廊下を歩いています。手には、レモンのクッキー。今では、焦がすこともなくなりました。
首元には、あのサファイア。もう、嫌われるためではなく、贈り物として、大切に。
執務室の扉の前で、わたくしは深く息を吸いました。そして、胸を張ってノックします。
「殿下。わたくし、お願いがございますの」
「何でも」
扉が開き、殿下の顔が、ぱあっと輝きました。
悪役令嬢計画。結果は、大失敗。
けれど、そのおかげで、わたくしはいちばん欲しかったものを手に入れました。
愛する人のあたたかな笑顔と、「欲しい」と素直に言えるようになった、わたくし自身を。
失敗の先で、わたくしは殿下と今日も笑っています。




