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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

水の音

作者: 松川あきら
掲載日:2026/08/14



 水の音がした。

 ぱしゃん、と。何か柔らかいものが水面で戯れるような、そんな音。

 そしてその音で私は午睡から目覚めた。

 目が覚めてすぐは、自分がどこにいるのかわからなかった。ソファの上でうたた寝をしていたのだと気がつくまでにしばらく時間がかかった。


 長い髪を束ねていたヘアクリップが、枕代わりにしていたクッションの上に落ちている。額に落ちかかる髪をかき上げて、もう一度そのクリップで髪を留めた。

 遅い午後の日差しが白いレースのカーテン越しに部屋に届く。

 ――何時だろう。

 時計を探す。テーブルの上に置いたままのスマートフォンがあった。軽く触れて時刻を表示させる。


 ――4時18分。


 スマートフォンの画面を見て、自分が眠っていた時間を数えてみた。

 ……ほんの数十分。確か、買い物から戻って、バッグから出したスマートフォンをテーブルに置いて……その時は3時半だった。その後にコーヒーを淹れて、雑誌を開いて……。

 そう計算して、スマートフォンと同じく置きっぱなしだったコーヒーのカップを手に取ってみる。もちろん冷めてはいるが、まだほんのわずかに温かさが残っている。どうやら雑誌を読んでいる途中に眠り込んでしまったらしい。


 夢を……見ていたような気がする。

 まだぼんやりとした頭で、目覚めた直後のことを思い返してみた。

 かすかな夢の残滓。それは水音だ。

 それきり、何のイメージも湧いてこない。ただの、水音。現実の水音で目覚めたのか、それとも夢の中で聞いた音なのか……。

 ――夢の中だとしたら、どんな夢を見ていただろう。……思い出せない。

 わずかに眉を寄せて、私は溜め息をついた。夢の内容を思い出せないことがさほど重要とも思えない。なのに気にかかる。


 それにしても、と思う。雑誌を読もうとして、ほんの数分で眠りこけてしまうとは幼児並みの寝付きではないかと。

 自身に向けてわずかに苦笑する。

(水音も、やっぱりただの夢よね。今、耳を澄ませても何も聞こえない)

 そう納得することにした。

(考えてもわからないのだから気にしないほうがいい。それに、もう時間もない。うたた寝なんてしてしまったから……もうすぐあの人がここに来ちゃう)


 テーブルの上のコーヒーカップと、床に落ちていた雑誌を片付ける。

 冷蔵庫の中を覗いて、夕食のメニューを考えつつ、私の頬はわずかにゆるんだ。

(あの人はグラタンが好きなのよね。ふふ、子どもみたい。そう言うと、照れちゃって怒るふりをするけれど。でも知ってるわ。うん、私だけは知ってるの。今日だってあの人に電話したら、あの人は怒った。もうかけてくるなよ、なんて言ってたくせに……その後にすぐあの人のほうから電話がきて……)

 私の頬が思いだし笑いの形を作る。


(大丈夫、私は知ってる。照れてるだけなのよね。ほら、今日だってちゃんとあなたの好きなグラタンを作るから。あなたがどんな冷たい言葉を放っても、私だけは知ってる。あなたは私を愛してる。あなたが好きなグラタンを作る私を愛してる)

 冷蔵庫から取り出した玉ねぎをキッチンのシンクに置いた。シンクの中で転がる玉ねぎを見ながら、包丁を取り出す。銀色の刃がLEDの光の下できらりと光った。

 私の右手が蛇口をひねる。


***


 水の音がした。

 ばしゃ、と。液体が何か硬いものにぶつかって跳ね返ったような、そんな音。

 そしてその音で私は眠りから目覚めた。そうだ、今まで夢を見ていた。自分の部屋のソファでうたた寝をしている夢を。そうして、夢の中で夢から覚めていた。

 二重構造の夢だったのかと、あたりを見回しながら苦笑する。そして、こんな時に夢を見るほど眠り込んでいた自分にも苦笑する。


 だが、なぜそんな夢を見たのか。なぜ夢の中でそんな音を聞いたのか。音を聞いた以上はそれを想起させる何かが現実の自分の身に起こったのではないだろうか。

 私はそう考えた。そして、以前何かの本で読んだ、夢の仕組みについての記述を思い出してみる。


 起きてから覚えている夢は、眠っている間の外的要因が原因だという説があるらしい。目覚める寸前の、ほんのわずかの間の出来事。たとえば電話の音だったり、頬を撫でる風の動きだったり。その外的要因がまずあって、そこから遡って夢の場面が構築されるという説だ。ならば自分が夢の中で水音を聞いたのだとしたら、現実でもその音を聞いたのかもしれないと思う。眠りと覚醒の境にあるわずかな時間に。眠りからまどろみへ、まどろみから目覚めへ、意識が揺らぐその隙間に、自分の耳はその音を捉えたのだろうと。


 だが、今この場所でそんな音が聞こえるわけはないと思い直す。そして腕に巻いている時計で時刻を確認してみる。


 ――4時18分。


 不安定に明滅する非常灯の下で、私は文字盤を確認した。

(私と、ここにいる人たちがこの箱の中に閉じ込められてから、まだ1時間は経っていない。このエレベーターに乗る前に見た時計は3時半だった。ああ、夢のほうが現実だったらよかったのに。こんなところにいるより、自分の部屋でうたた寝をしているほうが幸せに決まっている)


 50分前、突然の衝撃音とそれに続く暗闇。私の他にも数人乗っていたエレベーターはそのまま停止してしまった。備え付けられたインターフォンで外部と連絡はとれたものの、突然の停電で、ビル側としても今は業者と連絡をとっているところらしい。

 乗客の中にはスマートフォンで誰かと連絡を取っている者もいた。とはいえ、今は待つより他にすることもない。


 頼りなげな灯りを投げかける非常灯が時折明滅する。一向に安定しようとしない光は、闇よりも焦燥感を煽るのだと気がついた。闇ならばまだいい。それ以上は暗くならない。闇は闇のままで安定しているのだから。

 けれど今、金属の箱の内部を照らしている灯りは違う。実際の冷気よりも確実に寒気を連想させる、古い蛍光灯。LEDのような安定感はまるでない。何の前触れもなく、その光は唐突に途切れる。そして、瞬きのような明滅のあとに、不意に闇が訪れる。そして、闇に慣れ始めた瞬間に、何かがちらつくような音をさせてまた蛍光灯は命を取り戻す。


(いっそ、どちらかに決めてくれればいいのに)

 私はそう思った。苛立ちは隠せない。

 一緒にいる他の乗客もそう思っているのだろう。空気が苛立ちの色に染められていくのがわかる。

 非常灯が明滅するたびに。

 じじじ、と、耳障りな音がその蛍光灯から聞こえるたびに。


 だが、苛立ちをそのまま外に出すわけにはいかない。ここで変に動き回れば宙吊りにされた金属の箱は微妙に揺れ動く。足もとの定まらない感覚は、容易く恐怖に変わる。だからこそ、誰もがほとんど動かなかった。時折、顔見知り同士でささやくような会話が交わされるだけだ。

 奇妙な焦燥感から逃れるように。

 下腹から湧き上がるものが怯えに変わらぬように。


 エレベーターの上部に取り付けられた換気扇は幸いにも非常電源で動いている。

(そうだ、確かこんな映画があった気がする。あの人と一緒に観たわ。確か、フランスの映画で……人を殺して、完全犯罪のはずが、逃げる途中でエレベーターが止まるの)

 職場から託されたA4サイズの封筒を持ち直して、私は思いだし笑いの形に頬をゆるめた。このエレベーターに乗る原因になった封筒だ。エレベーターを降りた先には、この書類を届けるべき取引先の会社がある。


(ふふ、おかしい、別のことも思い出しちゃった。あの人ったら、意外と気が小さいのよね。……なんだっけ、あのホラー映画。タイトルは思い出せないけれど、血がたくさん出てくるやつで……あの人ったら顔をしかめて。私の部屋で一緒にネット配信の古い映画を観ていたんだったわ。あの人の好きなグラタンを私が作って、その後に2人でワインを飲みながら映画を観たの。でもどうして男の人って血に弱いのかしら。作り物の血なんか、たいしたことないじゃない。それにもし本物の血だとしても……)


 私は小さく微笑んだ。その額に汗が伝う。8月の終わり、まだまだ外は暑い。エレベーターの中は生温かい空気が換気扇によってかき回されているだけだ。それに、この小さな箱の中に私も含めて5人が閉じ込められている。他人と密着するほどの距離感ではないが、それでも額には汗が流れる。

 私は額にかかった前髪をかき上げた。前髪の先を伝った汗は、そのまま床へと落ちていく。


***


 水の音がした。

 ぴちょん、と。小さな滴がどこかへ向けて落下したような、そんな音。

 そして、その音で私は意識を取り戻した。

 夢を……? 私は眠り込んでいたの?

 夢……薄暗く、狭く、暑い。そんなイメージだけが残っている。

 あとは、水音。ああ、水とは限らないかもしれない。たとえば水に近い液体なら、水のような音はする。たとえば、汗とか……。


 何気なく思い浮かんだその言葉で、私はそれまで見ていた夢を思い出した。マンションのリビングでうたた寝から覚めて、そうかと思えばそれは夢に過ぎなくて。そんな夢を見ていたのは、焦燥感と恐怖感が微妙に綯い交ぜになった狭い空間で。

 そうして、さらに思い出す。不安そのものとも言える狭い空間の中で、見ていた夢の世界をうらやましく思ったことを。こんな箱の中にいるよりは、自室のソファで穏やかなうたた寝に意識を奪われていたかったと。


 くすり、と笑みが漏れる。

 それこそ、だ。周りには同じ境遇の人がいて、さしあたっての命の危険などなくて。

 ――それなら幸せだわ。たとえ投げかけられる灯りが不安を煽るものでも。


 周囲に立ちこめる空気の匂いに現実感と浮遊感を同時に覚えながら、私は考えずにいられなかった。

 夢から覚める夢。そしてその夢からも覚めて、これが現実かと。選べるものならば、一番最初の夢の中がいい。

 自分の顔が歪むのがわかる。誰かが見れば、微笑みの形に見えるかもしれない。……それならそれでいい。どうせどちらもたいして変わりはないのだから。

 何を期待してか、私は壁の時計を見上げた。


 ――4時18分。


 ああ……それなら、私の腕の中であなたが生を終えてからまだ数分ね。私が意識を手放したのは、ほんの数分。

 だって、私の腕にはまだ……そう、血に濡れて、鈍くはなっているけれど、まだ凶悪な光を充分に留めた金属がある。そしてあなたの身体は温かい。それより少し前、時計の針が3時半を示していた頃には、あなたの身体はもっと温かかったはず。そう、ちょうどあなたの最後の声を耳にした頃には。


 ……だって、あなたが悪いのよ。部屋を訪ねても、電話をしても、私のことなんか知らないって、そう言うから。一緒にグラタン食べたじゃない。一緒に映画も観たじゃない。私の部屋に訪ねてきたじゃない。

 いつもそうだわ。あなたはいつもそう言った。私のことなんて愛していないと。


 妄想? ふふ、嘘よ。

 だって私は知ってる。あなたがグラタンを好きだっていうこと。ホラー映画が苦手なこと。犬よりも猫が好きで。煙草は吸わないけれどお酒は好きで。朝は少し弱いけれどお味噌汁を飲むと目が覚めるのよね。

 あなたのことなら何でも知ってる。


 あなたの身体を抱きかかえたまま、私は座っていた。右手には鈍色の光。左腕にはどんどん冷たくなっていくあなたの身体。

 私とあなたと、2人の空間を包むように、床には紅い色が広がっていく。生温かい液体。むせかえる匂い。自分の嗅覚が麻痺していくのがわかる。

 それでも、これはあなたの匂い。あなたの温度。願っても願っても、触れられなかったあなたの……。


 ――水音。そう、あのとき聞いたのはきっと血の音。

 ぱしゃん、と。あなたの腕が血溜まりに落ちる音。

 ばしゃ、と。私が血の中に膝をつく音。

 ぴちょん、と。あなたの身体から血が滴る音。


 どうして、と。問いかけることはもうできない。だってもう諦めたから。問いかけても、誰も応えてなんかくれない。……ああ、違う。違うわ。応えてくれる人をなくしてしまったのは、私。私の手。……だって、怖かった。あなたに否定されるたびに、自分が自分でなくなるようで。だから私はあなたにすがった。


 どうして、と。聞きたかった。でも聞きたくなかった。それを口に出すのは認めることだもの。あなたが私を見ていないと……それに私が気づいていると、認めることだもの。

 でも、今なら聞けるのかもしれない。あなたはもう逃げないから……今なら聞けるのかもしれない。


 どうして私を見てくれなかったの?

 追いかけたの。私を見てほしくて追いかけたの。

 遠くから見るあなたは、きっとグラタンが好きだと思った。だって私の得意料理だから。言葉すら交わしたことのなかったあなたは、きっとホラー映画が苦手だと思った。だって男の人って血が苦手だって聞いたことがあるから。


 私はあなたの電話番号も知ってる。職場も知ってる。住んでるマンションだって知ってる。……あなたに恋人がいることも知ってる。

 そして、あなたは私を知らない。


 窓から、遅い午後の光が射し込んでくる。日中の凶悪さを少しだけ和らげ始めた、8月の日差し。

 そうだ、チキングラタンを作ろうと思って、鶏肉を買ってあったのに。使わないと傷んじゃう。でも、きっともう、あなたはグラタンを食べてはくれない。

 ああ……こんなことしなきゃ良かった。でもね、こうしないとあなたは私を見てくれないでしょう? 電話をしてもすぐに切ってしまうし、訪ねていっても扉を開けてくれないし。今日、こうやって無理矢理に押し入ってしまうまで、あなたは私を部屋に入れてくれなかった。


 ……夢を見たいわ。今、眠り込めば見る夢はきっとあなたの夢だろうから。

 そうじゃなきゃいっそ、これが夢だったらいい。あなたの体温に包まれることは紛れもなく幸せでもあるのだけれど、それでも、もう二度と声は聞けないから。私を包む紅い液体はいつしか温度を失うのだろうから。せめてそれがすっかり冷たくなる前に夢から覚めるのなら。


 夢から覚めるごとに水音がする。覚めるたびに私は怯えていく。

 けれど、これ以上幸せでこれ以上悪い夢なんてない。それでももし……もしもこの先があるとすれば、それはどんな夢だろう。もし夢から覚めるのなら、その先はどんな現実だろう。


 もうわからない。どこからどこまでが夢なのか。どこからどこまでが現実なのか。

 時計の針は進まない。ああ、じゃあやっぱり……これも夢。


 歪んだままの私の目尻から頬にかけて、生温かい液体が伝っていく。血と同じ温度の液体。私の液体とあなたの液体が混じり合う。

 それは……幸いだ。幾度となく繰り返したはずの、それでも夢なのか現実なのかわからない、あなたとの情事よりも、今この瞬間が、無上の幸いだ。

 頬を伝ったものが、やがて顎へとたどりつく。そして震える顎の先から、血溜まりの中へと落ちていった。



 水の、音がした。




昔書いた作品をリライト。

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