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短編集・散文集

キャロットケーキ

作者: Berthe

 松下(まつした)くんとは付き合っていない。そもそも彼には恋人がいるし、それに彼は弟よりは一つ上だとはいえ、わたしよりも二歳も若い。だから断じてつきあっていないのだけれど、今こうやって二人で、明るいうちからカフェにきていて、甘いスイーツをいっしょに、丹念にフォークでつついている。


 やわらかなキャロットケーキのスポンジが、フォークをそっと押しかえす。やさしく押しもどしてくるのを、わたしははっきりと、フォークをにぎった手のうちに感じる。ことさらに集中して、それを感じようとつとめているのだから、当たり前だ。でも、何のために? どうしてわざわざ、今このときに? 松下くんが目の前にいるというのに、わたしはふいに心ここにあらずになっていた。


 彼はわたしにしゃべりかけるでもなく、窓からさしこむ光をきらきらと受けて、ぴかりと反射するフォークを、カステラにのせて、すっとひいて切りとった。こつんと皿にあたる音。さわがしくない店内、ひっそりともしていない室内で、こつんと皿にあたる音が、確かにきこえた。やがてわたしは顔をあげて、ひと息おいて目を伏せ、もうひと息おいてから松下くんをみつめて、さらりと切り出すのを意識しながら、口をひらく。


「このカフェ、彼女とも来るの?」わたしはかなり勇気をだして、声がふるえないよう気をつけながら、ずいぶんと大人ぶって、余裕のある女性のふりをして訊いた。


「え、(ほの)()さんと来たのが初めてですよ」


「そうなんだ」わたしはほっとしたように知らず知らずうなずくうちにハッと気がついて、「でもこれから先は?」どうしてこんな質問をするのだろう。自分でもわからない。だけど、もう訊いてしまった。


「来るつもりなの、ってことですか」


「うん」素直にうなずくわたし。


 しばし思案顔の松下くん。やがてかすかに微笑んで、


「来てもいいですか?」


「うーん、どうだろう」


 つぶやきながらわたしは視線を走らせる。マスターと二人の女性店員。ひとりは若くて、もうひとりはそれほど若くはなかった。彼女たちはきっと、わたしたちを見覚えるだろう。わたしたちがここを後にするとすっぱり忘れて、こんど松下くんが来たときに、すっと思い出すのだ。あの男、前はべつの女の人をつれてましたよね? そうね、あの男の子、なんどか来てくれているけれど、隣にいるのは毎回ちがった女の子よね。え、毎回ちがうんですか、いやな男。そうかしら、私は彼のこと、結構好みよ、あなたも好きなら、誘ってもらえるよう頑張らなきゃ。え、どうしてあたしが? でも、いい男よねえ。そうですか、あたしはあんまり。ヒソヒソ。ヒソヒソ。そんなふうに、うわさ話をするのだろう。


「来ませんよ。穂香さんが想像している彼女とは、ここには来ません」


「そっか」どうして? とは聞きたくても聞けなかった。だからわたしは話題をかえる。


「キャロットケーキ、美味しい?」わたしはとても好みの味だった。彼もそうだと嬉しい。


「ええ。甘いもの俺、好きですし」彼はそう言って、ふたたびフォークでキャロットケーキを切り取り、口元にはこぶ。弟みたいにご飯をがつがつ食べる男の子もいいけれど、スイーツを軽やかにあじわう男のひとも捨てがたい。


「よかった。弟はね、ケーキはあんまり食べないの」


「本当に? きっと穂香さんに見つからないよう、陰にかくれて食べていますよ、パクパク」


「パクパク?」わたしは小首をかしげる。自分がにんまりしているのがわかる。


「ええ、パクパク。こうやって」


 彼はそう言うなり、輪切りにしたオレンジののったキャロットケーキを、がしっと鷲掴みするふりをして、きれいな口をあけて、いくつもほうり込んでいく。ひときれのケーキを何個もつかんで、パクパクと平らげていく。さいごに彼はお腹をさすり、吐息をついて、満たされたという顔をした。それからふっと笑って、照れ隠しなのか、ひといき吐くためなのか、コーヒーを手にして満足そうにすする。


 わたしはちいさく手を叩いた。てのひらのつけ根をくっつけて、指先だけでトントン拍手をした。あごに人さし指がかすかにふれるところで、しずかに指先を打ち合わせた。さわがしくない店内。ひっそりともしていない室内。けれど指先が鳴る音をきこうとすると、とたんに部屋がそうぞうしく感じた。思わず辺りを見わたすと、入り口の鈴の音がゆれている。カランコロンとひびいて、それから若い女性二人がなかに入ると、ゆっくりと扉がしまった。


「あ、洸大(こうだい)」彼女たちの一人がふいにこちらを向くなり、ちいさく叫んだ。松下くんを下の名前で呼んだ。


柚菜(ゆな)、どうして?」柚菜さんという知り合いがふとあらわれて、驚いた彼はこちらに鼻の高い横顔をみせた。


「このあたりにはよく来るの」柚菜さんは松下くんを見つめたままそう答えて、それからすっと瞳をこちらへ向ける。


「どうも」と彼女はこちらにぺこりと頭をさげて、すぐさま松下くんへじろりともどした視線の冷ややかさから察するに、柚菜さんは松下くんに恋人がいるのを知っていて、それがわたしでないことももちろん知っていて、そしてもしかしたら松下くんの恋人と柚菜さんは仲良しで、松下くんとわたしがただならぬ関係にあるものと早とちりした柚菜さんがただちに松下くんの恋人であり柚菜さんの親友でもあるその子にこのことをつたえて、わたしを悪い女だとさげすむまま、厳しい目つきでにらんでくるかもしれない。早く弁解しなければ。でもどう伝えたらいいの? 二人でケーキを食べているのは確かだし、こんなことは恋人同士のするものだと思うし。


「ところで洸大、聞いていい?」


 そう切り出すなり、恋愛探偵の柚菜さんは鞄から虫眼鏡をとりだして、それを片目にあてて、ぐっと近寄ってきてわたしをくまなく観察しはじめる。そう予想したものの、そんなことは起こらなかった。


「この人、洸大の彼女?」すぱっと尋ねる柚菜さん。わたしとちがって、切れ味がするどい。


「いや、まだ違うよ」


 え? まだ? その言葉が思わず出かかってとまった。音になるまえに、のどもとで消えた。


「彼女いたよね?」追究する柚菜さん。


「別れたんだよ」


 聞き捨てならない言葉が、あいかわらずすっと伸びた鼻の横顔をこちらに見せる、松下くんのきれいな口からもれた。


「ふうん」と恋愛探偵の柚菜さんは納得したようにうなずいて、それからパッとこちらを向いた彼女の顔はあたたかで、その温和さのなかにはわたしを応援しているような、ただただこの状況にめぐりあえて楽しんでいるみたいなものがあって、想像しただけで本当かわからない柚菜さんの気持ちにすこし共感もできたけれど、それよりも当事者のわたしとしては困惑した。でも、当事者って何? わたしは何様のつもり?


 頭がぐるぐるするうちに柚菜さんたちがこちらを離れると、松下くんがわたしのほうへ身を乗り出し、口元に片手をあてて、わたしの耳元へ近づいてささやく。


「今度はここ、彼女と来てもいい?」


 尋ねたことに、わたしがすぐには答えないので、松下くんは前のめりになった背中をもどして、ソファに軽くもたれながら、丸めたこぶしであごをコツコツと打ちだした。今は静かでざわめかない店内で、その音がかすかに漂ってくる。彼の鳴らす音が、わたしの耳に届く。


「いいんじゃないかな」わたしはぶっきらぼうに、それでいてきちんと心をこめて答えた。


「ちゃんとわかってるんだよね? 俺の言葉の意味。もう弟扱いしないでよ?」


「うん、だけどそれは、今後の松下くん次第だよ」


 そう答えたものの、松下くんは弟より一つ年上だから、弟のように可愛いだけのひとでは初めからなかったのだ。そんなことはとっくに気づいてもよかったはずなのに、今更のようにそれを意識していた。胸のあたりがさっきよりもあつい。


「そっか。なるほど」


「そうです」どうしたわけか、わたしはちょっぴり偉そうな気分でいたけれど、そんなわたしを見つめて、彼がくすっと笑う。余裕のあるその顔は、もう年下の男の子にはみえなかった。大人の男性になった彼はさらりと言う。


「このあと街中を散歩しよう? 特に目的地もないけれど」


「うん、いいよ。わたしもべつに行きたいところないし」


 わたしは久しぶりにぽかぽかしていた。お風呂にはいればいつだってぽかぽかするけれど、そのときのあたたかさとはちょっと、いや、かなり違っていた。ふと、キャロットケーキがわたしにささやく。はやくお食べなさい。そして二人でならんで、ぶらぶらしてきなさい。その勧めにのって、キャロットケーキをフォークで切り取り、口へ運ぶと、さっきよりも甘くて、初々しくて、でも珈琲の大人な苦味も欲しくなって、わたしのはカフェラテだったから、ブラックを頼んでいた彼にねだる。


「ねえ、そのコーヒー、ひと口いい?」


「いいよ」


 そう答える声がいつもよりも低くきこえて、わたしはどきどきと甘ったるく、彼のカップへ手をのばす。ふわふわと溶けだしながらすすった珈琲の味は、わたしのすみずみにゆっくりと浸透していった。

読んでいただきありがとうございました。

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