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腕の中のぬくもり








 それから半年が過ぎた。

 露草の姫の喪が明けた冬の始め、吉日を選び夕星の姫が御匣殿別当みくしげどのべっとうとして入内した。

 そして内大臣なだいじんの北の方の産んだ子供は男の子だった。

 待望の男の子だ。

 内大臣は目に入れても痛くないような可愛がりで噂になっていた。赤子の幼名ようみょう一幡いちまんという。

 長男・長女の幼名に一、次男・次女に千、三男・三女に万の字が使われることは日常的であった。だから万寿丸は三男によくつけられる幼名なのである。

 赤子が産まれたことにより、花梨の縁談は遅々として整わないように見えた。

 けれどそれは内大臣の作戦なのだろう。

 確かに長男が生まれるのはめでたい。

 けれど、やはり家刀自として大切にされるのは女性なのだ。婿取婚が主流なため、娘に家屋や土地が、息子に父の縁故関係が譲られるのが通常だった。両親が息子と同居することはほとんどない。

 だからこそ同居する娘に家屋や土地が譲られるのだ。

 親にとっても老後の自分の介護を、血の繋がっていない嫁に任せるよりも娘に任せたほうが安心ができるのだろう。

 そのため、花梨の婿になるということは、あれだけの内大臣邸をも手に入れるということにもなる。

 二の姫が亡くなり、一の姫が帝のもとに入内し、正式に三の姫が家刀自となってから求婚の文は増えるばかりだ。

 けれど実直さねただから聞いた話では花梨は誰にも返事をしていないらしい。

 東寺に一緒に行った日から花梨とは会っていない。実直が時折、花梨の消息を届けてくれるが、それでも自分から花梨に直接消息を届けるわけにはいかなかった。

 今、基嗣は右大臣側の者として動いていたから‥‥‥

 自分が見聞きしたことを細かにまとめ、内大臣のもとへ内密に届け続けていた。いつもある程度書きつけた紙がたまると冊子にして届けていたが、その冊子も二十冊を越えた。

 だが一度として内大臣から礼を言われることはなかった。

 その冊子とともに花梨宛ての消息を内大臣に届けているのだが、それはきちんと花梨のもとに届いているようだ。

 今はそれだけで充分だ。

 基嗣の背はこの半年でずいぶん伸びた。

 年が明けて十四歳になった。男の子が一番変化する年頃だ。仕立てた衣装がすぐ合わなくなるし、成長のために関節がきしむように痛むこともある。声変わりもしたため、今花梨と会っても彼女は自分が基嗣だとはわからないかもしれない。髭も生えるようになった。まだ毎日剃らなければならない程濃くはないが、この変化が一番自分が大人に近付いている証拠に思える。






 年が明けた一月の司召つかさめしで基嗣の位階は従六位上に二階越階にかいおっかいし官職は中務省なかつかさしょう少丞しょうじょうを与えられた。出世街道により近い官職に就いたのである。

 相変わらず内裏に殿上することはできないが、それでも順当に基嗣の位階は上がっているのである。

「若君、陰陽師の賀茂殿が参られてますが‥‥‥」

 久しぶりに屋敷に戻りゆっくりしていたところに実直が訪問してきた。

 彼のほうから訪ねて来るのは珍しい。

「ご無沙汰しています」

「基嗣、久しぶり」

 花梨だ。

 実直と一緒に入ってきたのは隣家の姫、花梨だった。

 基嗣は御簾をあげた手を止めた。

「少し庭を拝見してますので、挨拶がお済になったらお呼び下さい」

 実直の微笑みは相変わらず爽やかだった。

 花梨を基嗣の部屋に押しやると自分はするりと簀子を抜け、庭に出ていってしまう。

 基嗣の部屋に花梨一人が残された。

 その花梨は大きく口を開けてぽかんと自分を見つめていた。

「基嗣‥‥‥背が伸びた?」

「花梨、背が縮んだか?」

 反応の大きさがおもしろくて、つい意地悪な口調になってしまう。

 半年前までは同じような位置に顔があったのに、今では頭半分程差があった。

「あ、のどぼとけ! それに髭が生えてる! うわ、手なんてこんなに大きくなってる!」

 珍しいものを見るように花梨がじろじろと見つめてくる。基嗣の周りをとてとてと一周すると自分の手のひらと基嗣の手のひらを合わせて大きさを比べ始めた。

「ずるい! たった半年でこんなに変わるなんてずるい!」

 そんなことを言われても困る。そう思ったが、目の前の「ずるい!」と言う花梨もずいぶん変わっていた。

 いつものようにつややかな髪をみづらに結い、淡萌葱うすもえぎの水干を身につけていたが、始めて会った時に感じた『自分と違う』という感覚がさらに強く感じられた。

 頬やあごの線がほっそりとし、体も丸みをおび、黒目がちな瞳にもつやが混じったように思える。

 けれど喋ると台無しだった。

 くるくるよく変わる表情、表情と同じくらいよく動く口。黙っていると感じる大人びた女性の印象は口を開くことによってどこか遠くに飛んでいってしまう。

「ようやくお父様が基嗣に会いに行っても良いって仰って下さったの。それまで何度も屋敷を抜け出して会いに行こうとしたのだけれど、その度に盛義に邪魔されてしまって‥‥‥どうしてわたくしが抜け出したことがわかるのかしら」

 腕を組み、むむと考え込む花梨がなんだか微笑ましかった。

「‥‥‥元気そうで良かった」

 本当にそう思う。

「うん」

 花梨は頬を染めて微笑み、うなずく。

「基嗣も元気そうで良かった。それとも藤少丞様とうのしょうじょうさまってお呼びしたほうがいい?」

 首を傾げて聞いてくる。

「今さら! お前に様付けで呼ばれると鳥肌がたって胃がひっくり返りそうになる」

 同時に二人で笑う。

 こんなふうに気をつかわないで会話を交わすことなど久しぶりだった。

「それより、家に来ることを内大臣殿がよく許してくれたな」

「今日はね、お父様から消息をお預かりしてきたの。一幡君の五十日いかの祝いの招待状よ。基嗣にも来て欲しいって」

 嬉しそうに言う花梨だが、基嗣の表情は冴えなかった。

「お父様、わたくし達のことを許して下さるのかしら。基嗣を招待するってことはそういうことじゃない?」

「違うって」

 たかだか半年ぐらいで内大臣が自分のことを認めるとは思っていなかった。

 実直は五年と言った。

 たぶんそれくらいかかるだろう。

 せめて五位になり、殿上人にならなければ花梨と結婚しても良いとは言うまい。今現在、従六位上。あと三階登り五位になり殿上を許される身にならなければ、花梨の婿としては対象外のままだ。

 五位になり殿上の間に昇殿を許されてやっと、一人前の上流貴族といえる。

 七位から六位になるのは比較的楽だが、六位から五位になるのは難儀するだろう。

 花梨が持ってきた立て文を開く。

 とりたてて変わりのない形式的な宴への招待状だった。

「ちょっと待ってろ、返事書くから」

 文机に向かい墨をする。大げさにならず、丁重にみえる返事を頭の中で考える。

 歌が詠まれているわけではないから、普通に返事をすればいいだろう。一幡君へのお祝いの言葉を入れるべきだろうか‥‥‥

 背中にぬくもりを感じた。

 花梨が後ろから首に腕を回し、抱きついているのだ。首筋に花梨の柔らかな頬がすり寄せられているのがわかる。

 手の動きが止まる。体が硬直した。

「花梨‥‥‥?」

 なんとか体を動かし、花梨の腕を外して振り返る。

 その振り返った唇に柔らかいものがあたる。目の前には花梨の顔があった。

 自分と花梨の唇が重なり合っていると理解するのに数瞬かかる。

「花梨!!」

 驚くしかなかった。

 不意打ちだった。

 勢いよく体を離し、思わず唇に手をあてる。

 顔に血液が集まるのがわかる。

 自分の頬は今真っ赤に染まっているだろう。

「えへ」

 目の前の花梨は頬を染め、いたずらっ子のように舌を出す。

 基嗣は顔を押さえてうずくまった。

「そろそろよろしいですか?」

 御簾の向こうから実直が声をかけてくる。その声に心臓が縮みそうになる。

「うん。入って」

 花梨が御簾をあげて実直を招き入れる。

 実直は頬を染める基嗣を見ても問いただしたりしない。いつもの微笑みを浮かべるだけだ。かえってそれが居心地悪かった。

「お二方にとって、重要なことが五十日の祝いの席で決まるかもしれません。お心穏やかに、なにがあっても諦めないでくださいね」

 実直が心配そうな顔をする。

 重要なこと‥‥‥

「吉報? それとも‥‥‥」

「吉報ではないでしょう。‥‥‥内大臣殿もこれ以上はお断りするのは無理かもしれないと仰っておいででしたから」

 その言い方でだいたいの想像はついた。

 花梨の求婚者のうちに内大臣が断りきれなくなっている相手がいるのだろう。

 花梨もそのことがわかったのだろう。先程まではうきうきと弾んでいた表情が今の実直の言葉でいっきに沈んだ。

 青ざめて、今にも泣き出しそうになる。それを無理に押さえているのがよくわかる。

 基嗣はそっと花梨の手を握る。

 自分でも驚いたが、自然と手が花梨の手に伸びたのだ。花梨も基嗣と同じように驚いていた。けれどすぐに照れ笑いで破顔する。

「私はこのお屋敷の庭が気に入りましたのでしばらく散策して参ります。お帰りの準備が整いましたらお呼び下さい」

 実直が席を外す。また花梨と二人きりになる。

「賀茂殿、気をきかせてくれたのかな」

「だろうな」

 一度真っ赤になった顔はなかなか元に戻らない。素っ気ない返事を返しても頬が朱に染まっているため、照れでぶっきらぼうな物言いに拍車がかかっていることがすぐわかってしまう。

「基嗣、可愛い!」

 花梨が両の手のひらを合わせ、頬を染めて笑う。可愛いなどと言われても嬉しくない。基嗣は不機嫌そうな顔をする。笑顔を浮かべていた花梨だが、すぐに真面目な顔になるとじっと基嗣の顔を見つめた。縁談相手に心当たりがあるのだろう。

「もしね、わたくしの変な噂が耳に入っても基嗣は信じないでね。わたくしは基嗣が良いの。忘れないで‥‥‥」

「‥‥‥花梨?」

「たぶん、お相手は基嗣の上官、中務卿宮様なかつかさのきょうのみやさまだと思う。しつこくて文も五十回を越えたの。女房たちはね、そのうち帝のご威光を笠に着てお父様に無理強いされるかもしれないって噂してた」

「でも、中務卿宮って上皇の弟宮おとうとみやでもう四十に手が届く方じゃないか」

 年齢に差がありすぎる。

「でも、北の方を亡くされてるし、他の妻の方もご身分が低いから‥‥‥」

 まだ十四歳になったばかりの少女を、他に妻のいる三十歳後半の男が妻に乞う。いくらなんでも身勝手すぎる。

 とりたてて後ろ盾のない少女ならいざ知らず‥‥‥

 それに噂では中務卿宮はかなり女癖が悪い。中務省の役人たちの話では美しいという噂のたっている女性がいれば必ず文を届けているという。調べてみると本当の話で、しかも女性と深い関係になっても長続きすることは珍しくかなりの人数から恨みを買っていた。

 上司として見ても高い評価をすることはできない。

 とにかく仕事をしないのだ。

 女性に送る恋歌を作っているか、各大臣や女御のつぼねに通い歌舞音曲かぶおんぎょくにうつつをぬかしているかで、ただ花押かおうを書くだけの書類を山のように貯めたりしている。

 だが、風流人としては一流だった。公式の歌合うたあわせ絵合えあわせには必ず何首、何作も採用されるし、琵琶を弾かせたら当代随一といっても過言ではない。

 けれど花梨が結婚して幸せになれる相手とは思えない。

 花梨の瞳から涙の粒がこぼれ落ちる。はらはらと頬を濡らし、涙の雫は膝で握り締めた手の上にぽつりぽつりと落ちた。

 口を押さえ懸命に嗚咽をこらえる。

 肩が小刻みに震えている。

 もうだめだった。

 基嗣は袖で花梨の涙をぬぐうとそのまま彼女を抱きしめた。

「‥‥‥基嗣?」

 腕の中の花梨が不思議そうに聞いてくる。

 表情を見られないように頭を押さえ、もう片方の手で強く抱きしめる。

「お前を大切に想ってる」

 たったそれだけを言っただけなのに基嗣の顔は火を吹きそうなくらい熱かった。

 いつの間にか隣家の姫は、基嗣にとって大切な存在になっていた。

 もうだめだった。

 自分の気持ちがわかったら目の前で泣いてる花梨を放っておくことができなかった。

「基嗣‥‥‥」

 そっと花梨の小さな手が背中に回される。

「このまま駆け落ちするか?」

 冗談めかした問いに花梨がぱっと顔を上げた。可愛らしい笑みを浮かべる。

「物語のように?」

「ああ」

 二人ともそれができないことはわかっていた。花梨は内大臣家の家刀自として責任があり、特殊な技術を身につけているわけでもない基嗣は、駆け落ちしたところで生活を支えていく能力がない。

 駆け落ちすれば、今までのように誰かが生活するのに必要な全てをしてくれるわけではない。食事の支度を整え、掃除・洗濯をし、わずかな手当をもらうために身を粉にして働かなければならない。何でも自分たちでしなければならないのだ。

 それに厳しい監視の目がある。

 あの屋敷を抜け出し、捕まらないで逃げ延びることができるとは思えなかった。

 もし逃げ延びることができたとしても、残された人たちはどうなる。

 盛義や安之、安則は罰としてそれぞれの屋敷を解雇されるだろう。家刀自をなくした内大臣家は入内している御匣殿の後見を満足にできなくなるかもしれない。中納言家ではそれほど困らないかもしれないが、下手をすれば内大臣の勘気を買い兄たちの出世が思うように行かなくなるかもしれない。父も内大臣に顔を合わすのが辛いだろう。

 それにもっと困るのは解雇されるかもしれない花梨と基嗣付きの従者や女房たちだ。

 彼らにだって家庭がある。家族を養っていかなければならない。それなのに主人の我がままで仕事を失えば困るし迷惑だ。新しい仕事場が見つからず、飢えて死ぬ者さえ出るかもしれない。

「‥‥‥それは最終手段に取っておこうよ。わたくしにも考えがあるしね」

 またいたずらっ子のような表情が浮かぶ。それを見て基嗣は苦笑した。

「無茶するなよ。とんでもないことしでかしそうで怖いよ」

「わたくし、無茶なんてしないもの」

「その自信がかえって心配だ」

 ぽこんと花梨の頭を小突く。

「なんで基嗣も盛義も、すぐに人の頭叩くのよ」

 ぷうと頬をふくらませて花梨が怒る。

「叩きやすい位置にあるから」

 しれっと基嗣が答える。またぽんぽんと花梨の頭を叩く。

「‥‥‥‥‥‥ばか」

 つぶやくようにそう言うと花梨は甘えるように基嗣の胸元に頬を寄せる。その花梨の体をそっと抱きしめる。

 くるくるとよく変わる表情をずっと見つめていたい。この細い体を離したくない。ずっと一緒にいたい。この腕の中のぬくもりがかけがえのない宝だ。

 この想いが好きということなのだろう。

 基嗣は初めて認識する不可思議な気持ちに流されるように、自然に花梨と見つめ合い、そして唇を合わせていた。

 今ならきちんと答えることができる。

「‥‥‥俺も花梨が良い。忘れるなよ」

 二人とも目を合わせると同時に照れたような笑みを浮かべた。




※別当とは長官のことになります。

※貴族に該当する言葉が見当たらず、暫定的に使用しております。越階は珍しいことではありません。

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