心というものの曖昧さ
◇
「お前な、いい加減にしろよ」
盛義は持ってきた漆塗りの文箱で、簀子に寝っころがっている基嗣の頭を叩く。
「痛ってえな」
額を押さえ起き上がる。
「これで十度目だぞ。いい加減に返事してくれよ。呼び出されて使いを頼まれるおれの身になってくれ」
盛義が持ってきた文、消息の差出人は花梨だった。
露草の姫の遺体を鳥辺野で荼毘に付し、賀茂川に散骨してから十日。亡くなってからはまだ十五日しか経っていない。
その間に十度、消息が届いた。けれど基嗣は一度も返事をすることなく、全てそのまま読まずに返していた。
もう自分は花梨とは関係がないのだから、消息を受け取ることはできない。
「花梨は‥‥‥もう内大臣殿から婚約解消の話は聞いたのかな‥‥‥」
なんとなく気になり、盛義に聞いてみる。
「さあな」
素っ気なくそう言うと盛義は基嗣に出されていた瓜にむしゃぶりついた。よく冷えてて美味い。
今では内大臣に仕える従者と左兵衛少尉と身分のずいぶん違う二人だが一緒に遊んだ親しさから礼儀という面倒くさいものは飛っぱらっていた。
二人でいる時はぞんざいな口調で喋った。
今も他の者が見たらびっくりするだろう。なにせ使いの者が勝手に受取人の瓜を食べてしまっているのだから。
基嗣は紐を綺麗に蝶の形に整えて結ばれている文箱をぼんやりと見つめた。この紐の結び方で親しい者には差出人が誰なのかわかるのだ。この結び方を見ることによって相手が文を見たか届く前に開けられていないかもわかる。一種の鍵の役目も果たしている。
その結び目をじっと見つめる。
基嗣は露草の姫が亡くなった日から、なにに対してもやる気がなくなっていた。
俺と花梨との婚約を解消するという内大臣の判断は正しい。
自分も納得して応じた。
なのに、こんなに心が空虚になるとは思わなかった。
それほど自分にとって内大臣の期待は嬉しいものだったのだ。改めて知った。
「これ、そのまま花梨、いや三の姫様に返してくれないか」
瓜を食べるのをやめて盛義は基嗣を睨みつけた。
「またか?」
「まただ」
盛義は瓜を食べ終えた後、やや姿勢を改めると語気を強めて言った。
「余計なことだと思うけど、お前な、本気で三の姫と縁切るつもりならこんなふうに無視するんじゃなくてはっきりと言えよ。そうしないといつまでたっても三の姫はお前のこと思いきれないぞ」
「どう言えばいいんだよ。家刀自の三の姫と俺とでは身分が違いすぎますから結婚することはできません。ですから文をやり取りすることもできません。って言えばいいのか?」
「それで充分だろ。そうやって言われれば基嗣は思っていた以上に気概の無い男だ。こんな男と結婚しなくて良かった。さっさと別の男を見つけようって気にもなるさ」
基嗣は盛義の胸ぐらを掴むと低く唸る。
「どういう意味だ」
盛義は両手を軽くあげて、にやりと笑う。
「そのままだよ。人は皆、図星を指されると怒るものだ」
その言葉に頬を赤らめると、慌てて手を離し盛義の胸元を直してやった。
「すまん。その通りだ」
基嗣は唇を噛むとうなだれた。
「三の姫はよっぽどお前のことが気に入ってるみたいだぞ。もし、お前に好きな女がいないのなら、彼女のために頑張ってみたらどうだ?‥‥‥元服してから二の姫が亡くなるまでの基嗣は本当に生き生きしてた。羨ましくなるぐらいにな」
「そんなこと言われても‥‥‥俺じゃ役不足だ。内大臣殿のお役に立つことはできない」
盛義はおおげさに大きくため息をつくと額を押さえ頭を振った。
「阿呆」
小さなつぶやきに基嗣はきょとんとする。
「順番が違うだろう」
心底、盛義は呆れているらしい。
「好きな女ができる。文を出して承諾の返事をもらう。彼女のために頑張って出世する。それから相手の父親を説得する。これが普通だろ」
「そうなのか?」
「そうなのかじゃない。お前、変だよ。どうして相手の父親の許可が最優先なんだよ? どれだけ頑張っても認めてくれないようなら駆け落ちすりゃ良いだろ。まず本人同士の思いが大切なんだ」
「そういうものなんだ‥‥‥」
盛義はまた大きくため息をつくと盆からもう一つ瓜を掴みかぶりついた。
「わからないんだ‥‥‥」
基嗣は膝を抱えるとつぶやく。
「花梨を好きなのかどうか‥‥‥」
膝にあごをのせて首を傾げた。
「元服する前はさ、結婚するなら好いた娘としたいって思ってたけど、それだって先に父親の位階や立場を知ってから文を出すことになるだろ。それって本当にその娘を好いているかわからないじゃないか。でも、俺にはそれが当たり前のことなんだ。花梨のことも結婚するなら好きになろうって思ってた」
「恋ってのはそんなもんじゃないぞ。こう、熱い強い気持ちが胸の中から溢れてきて、自分では止めることができなくなるんだ。こいつの傍にいたい、離れるくらいなら死んでもいいって思うんだ」
胸を押さえ熱く語る盛義を、基嗣は関心して見つめた。
「そんな恋したこと、あるんだ」
「ある訳ないだろ」
あっさりとした返事に基嗣は口をぽかんと開いた。
「それにだ。好きになろうって決めても必ず好きになれるとは限らないんじゃないか?」
「そうかな‥‥‥そういえば‥‥‥そうかな」
基嗣はふと自分の両親を思い浮かべたためどんどん自信がなくなってきた。
ごろりと簀子に横になる。
「‥‥‥花梨が俺のこと気に入ってくれてるのは知ってる‥‥‥でもそれは子供っぽい独占欲だと思うんだ。きっとすぐに俺のことなんか忘れるよ‥‥‥」
だんだん空が高くなっているのがわかる。
透き通った真っ青な空が目に痛い。
「自分のこと、『俺なんか』なんて言うなよ‥‥‥今日は帰るけど、次があったら絶対に返事書けよ」
「‥‥‥善処します」
また文箱で頭を叩かれた。
でも、今度は悪態をつく気にはなれなかった。寝ころがったまま盛義の去っていく足音を聞いていた。
空の彼方でゆっくりと雲が流れている。
やがって陽が傾き、空の色が朱色に変わるまで、ずっと基嗣は空を見上げていた。
遠くでからすが鳴いている。
基嗣はのろのろと起き上がった。
そして目を見張る。
庭に花梨が立っていたからだ。
つややかな髪をみづらに結い、鳥の子色の水干を身につけていた。胸元に淡紅梅の包みを抱きしめている。頬を真っ赤に染め眉をつり上げて、瞳には涙をためていた。
怒っているらしい。
「か‥‥‥万寿丸‥‥」
花梨と呼ぼうとしてやめた。誰が聞いているかわからない。盛義とぞんざいな口調でやり合っていても、家の者は見て見ぬふりをしてくれるが、見知らぬ少年を隣家の姫の呼び名で呼ぶのはまずい。変な噂がたってしまっては困る。
「盛義に連れてきてもらったの」
強く包みを抱きしめて花梨は言う。
「どうして、文を読んでくれないの?」
基嗣は驚いた。
内大臣はまだ花梨に婚約解消したことを言っていないらしい。
「聞いてないのか?」
「なにを?」
不思議そうに問い返されてまごついた。ここで言ってもいいのだろうか。
少し考えて、基嗣は私室に花梨を招き入れた。侍女、女房に人払いを命じる。
基嗣の部屋は簡素だった。衣装を入れる唐櫃や書物の入っている厨子も機能重視の黒塗りで飾り気がない。几帳や襖も淡縹が基調になっているがこれといって華やかな柄が描かれているわけではなかった。
元服する前は遊び疲れて、出仕を始めてからは忙しくて部屋へは寝に帰るだけだったから、調度などこれで充分だった。
花梨は珍しそうに部屋を見渡している。
「白湯でも持ってこようか?」
「いらない」
花梨の返事は素っ気ない。
人払いを命じたため、仕方なく基嗣は自分で大炊所まで白湯を取りに行った。花梨はいらないといったが基嗣自身が飲みたかったのだ。お茶は薬のため、普段の飲み物は白湯であった。
大炊所でぬるめの白湯を飲みほした。
下働きの侍女達が怪訝そうな顔をする。
こんなところに基嗣が来るのは珍しい。じろじろ見られても仕方がない。
白湯をついでくれた女性に丁重に礼を言い盆を持って大炊所を後にした。
部屋に向かいながらどう切り出すか考えていたのだが、良い考えは浮かばなかった。何もかも全て話したほうが早いかもしれない。
部屋に戻ると花梨が持ってきた包みから白磁の香壺を取り出していた。
「露草姉様の形見分けで、わたくしは香箱を頂いたの。これはそのひとつで一番姉様が気に入っていたお香が入っているの。基嗣にあげる」
基嗣の前に香壺を置く。
「受け取れない。これは花梨が使えばいい」
基嗣は花梨の前に座ると言った。
「なんで‥‥‥基嗣は姉様のことが好きだったんでしょ?」
受け取らないことが不思議でしょうがないらしい。花梨は首を傾げると基嗣の瞳を見つめ生真面目に聞いてくる。
「‥‥‥確かに憧れていたけど‥‥‥でも、思い出が欲しいほどじゃないから‥‥‥」
花梨は基嗣の顔をじっと見つめると、驚いたように目を少し見開いた。
「‥‥‥そう、そうなんだ‥‥」
声が少しうわずっていたが、基嗣は気付かなかった。
「それより‥‥‥聞いてないのか? 俺達の婚約が解消されたこと」
「は?」
目を大きく見開いてぽかんと口を開く。
「知らない! 聞いてない! なんで、どうしてなの?」
基嗣は言い辛らそうに、言いつのった花梨の瞳をしばらく見つめた後、顔を背け早口に事情を説明した。
「露草の姫がお亡くなりになって、お前が内大臣家の家刀自になることになっただろ? だからだよ。地下の俺じゃお前の婿にふさわしくない。だから解消することになったんだ。もとから俺達の婚約は露草の姫の相手を選ぶための作戦の一部だったんだから仕方ないだろ」
「わたくしは嫌」
「嫌ったってしょうがないだろ?」
「しょうがなくない! 前にわたくしは基嗣が良いってちゃんと言ったじゃない!‥‥‥その時は基嗣は考えとくって言ったけど‥‥‥」
花梨は涙声で反論したが、基嗣の返事を確かに聞いていないことを思い出して、胸元の紐をもじもじといじりだした。
「‥‥‥それに、夕星姉様がいるもの。わたくしより夕星姉様のが家刀自に向いてる」
「‥‥‥じゃあ、花梨が入内するのか?」
基嗣が呆れたように頬杖をつく。
まだ正式な入内宣旨は行われていないが、夕星の姫が帝のもとに入内することはほぼ確実だった。
そろそろ宣下されようかという時に不幸が起きたのだ。
内大臣は娘を帝に入内させることを諦めることはないだろう。だから夕星の姫が入内をせずに家刀自になるならば、花梨が入内をすることになる。
だが幼い頃から入内を目指し、后がねとして教育されてきた夕星の姫と違い、花梨が入内したところで他の女御方と張り合えるとは思えない。
それに花梨には御所仕えは似合わない。
「わたくしは基嗣が良い。たとえ将来お父様が気に入った殿方と結婚しても、その方を好きにはなれない。それではその方もわたくしも不幸でしょ。‥‥‥でも基嗣が頑張って結婚してくれたらわたくしは不幸じゃないし、基嗣もわたくしのことを好いてくれたら不幸じゃないよ。基嗣にまだ好きな人がいないんだったらわたくしのこと考えてみて」
とつとつと言う花梨の言葉に基嗣は頭を抱えて低くうなった。
「頑張るったってどうすればいいんだよ!? 俺は三男で、出世だってできそうにない。無理だよ、結婚なんてできるわけがない」
「なんで? まだ基嗣は十三歳じゃない」
出世するのに若さなど関係がない。まして実力がものをいう世界でもない。
大学寮のように博士などを目指すのであれば、それは自分の記憶力や理解力や字の綺麗さなどの実力がものをいうが、帝のお傍近くの京官、京師で働く貴族の出世には父親の位階や有力貴族との縁故関係がものをいうのだ。若さなど嫉みの対象でこそあれ、出世には役立たない。
確かにいくら父親の位階が高くても、本人がとてつもなく役立たずなら出世は思うように進まないだろうが、それでも俺よりは早いだろう。
「わたくし、お父様に頼んでみる」
頭を抱えていた基嗣はぱっと顔を上げると花梨を見つめた。
「基嗣は気に入らないかもしれないけど‥‥‥でも、他の男の人と一生添い遂げるなんてわたくしにはできない。お父様も基嗣のこと気に入っているみたいだし、一度頼んでみる」
始めて会った日に言ったことを、花梨はちゃんと覚えていたのだ。基嗣は花梨をじっと見つめる。
拳を握り、唇を噛み決意を固める目の前の少女がひどく大人びて写った。
出会った頃はなんにも知らなくて、弟か教え子のように思えたのに、今、目の前にいる花梨は自分よりしっかりしているように思えた。
花梨は俺が良いと言い切った。
なんだか気恥ずかしかった。
こんなふうに必要と思われたことがなかったせいか、なんと言えばいいのかがわからない。
自分が相手でなければ不幸になる。
そんなふうに思ってくれる人に出会ったことはなかった。
これから出会えるかどうかもわからない。
だったら花梨のために頑張ってみようかという気持ちが沸き上がる。
盛義はまた順番が逆だと言うだろうが、花梨が俺のことを必要だと言ってくれるなら、彼女の期待に応えるために頑張って、彼女のことを好きになろうと思える。
「花梨。内大臣殿に頼むの、少し待ってくれないか?」
基嗣の言葉に花梨が悲しそうな顔をする。
苦笑すると、花梨の握り締めた右の拳を両手で包み込んだ。柔らかな小さな手だ、目の前の花梨の頬が赤く染まる。
「もし、諦めるのをやめるなら相談して欲しいって賀茂殿に言われてるんだ‥‥‥今から会いにいってみる」
夜も更けて外は暗くなっていた。けれど日中では賀茂殿はどこにいるかわからない。
陰陽師は陰陽寮の役人だが、卜筮や土地を見て吉凶を占う役職のため陰陽寮にいつもいるとは限らない。実直は陰陽師の中でも優秀らしく占いの他にもいろいろ頼んでくる公卿が多いため、案外忙しい。
昼間より夜のほうが会える確率は高いだろう。
「わたくしも参ります」
花梨の言葉に驚く。実直の屋敷はそう遠くないが、それでも隣家に来るよりも危険は大きくなる。夜ともなれば盗賊も増える。
夜の京師を連れ回すことはできない。第一、内大臣が大切な娘を危険な目に合わせたと知れば怒り、許してくれるものも許してくれなくなるだろう。
「だめ」
「でも、わたくしも賀茂殿にお会いして渡したいものがあるの」
花梨は包みから大きな文箱を取り出すと紐を解き蓋を開いた。
「露草姉様が書かれたものよ。全部、悲しい恋の歌なの」
色とりどりの薄様に書かれた手蹟は流れるように美しかったが、跳ねや払いなどは弱々しく線も細かった。文字の大きさも小さくて、この手蹟だけを見る限り、露草の姫は気の弱い方だったのではないかと思われる。
この時代、だいたいの人は文字で人を判断する。手蹟の力強さや細さ、並びの綺麗さからなど書き手の性格などを判断するのだ。年頃の少女は送られてくるたくさんの恋文から相手を選ぶがその時も手蹟と歌の善し悪しを見て選ぶ。
「でも‥‥‥なんで賀茂殿に‥‥‥」
花梨は文箱を閉じ器用に紐を結び直した。
「姉様は‥‥‥賀茂殿を想ってこの歌を書かれたから‥‥‥」
やはり‥‥‥
基嗣は素直にそう思った。実直は他に好きな人がいると言っていたが、けれど露草の姫は実直が好きだったのだ。
露草の姫はずいぶんとつらい恋をしていたのだ。
陰陽師と内大臣の娘とが結ばれるわけはない。
‥‥‥そして想い人には他に好きな人がいる。
「姉様も裳儀をする前にわたくしと同じように外で遊んだの。その遊び相手が賀茂殿。姉様は賀茂殿が我が家にみえると知れば、いつもより念入りに髪を梳かし、香を焚いていたの。もう遅いけど、せめて姉様の気持ちを賀茂殿に知ってもらいたくて」
露草の姫と俺は似ているかもしれない。なんとなくそう思う。
まだ俺にはそんな恋い慕う相手はいないけど‥‥もし俺が女で、身分の違う人を好きになったとすれば、告白もせずただ諦めて‥‥‥でも、せめて綺麗な姿を見てもらいたい。そう考えただろう。
盛義のように、親が認めてくれないなら駆け落ちしようなんて、思いも浮かばないだろう。
意気地がないとか、自分に自信がないとかそういう問題ではない。
多少はそういう気持ちはあるかもしれないけど、生まれた環境や自分に課せられた責任全てをひっくるめて今の自分があるのだ。
自分の気持ちだけで勝手はできない。
勝手をしようとは思えない。
人はこういう考えを後ろ向きだと言うかもしれない。確かにそうかもしれない。でも、責任を放棄するわけにはいかない。
「賀茂殿は‥‥‥たぶん知ってみえるよ」
ぽつりとつぶやく。
花梨はぱっと顔を上げると複雑な表情をして、ゆっくりと頬に手をあてた。
「‥‥‥それでも、この文を渡したいの」
「俺が渡しとくから、花梨は屋敷に戻れ」
「嫌」
花梨は淡紅梅の布をきつく握り締めると、いやいやをするように首を激しく振る。
基嗣はため息をついた。
「じゃ、明日行こう。それなら連れてっても良い」
たぶん今日、花梨が屋敷を抜け出して来たのを内大臣は知っているだろう。
きっと今は見えないが護衛が遠くから彼女を守っているはずだ。明日になれば屋敷を抜け出さないように監視の目が厳しくなるかもしれない。それでも夜更けに花梨を連れて京師を歩き回るわけにはいかない。
「約束だよ」
小指をからめて無邪気に微笑む花梨の顔を見て基嗣も微笑みかえした。
「いつごろ来ればいい?」
「う~~~ん。出仕前が一番捕まりやすいんだけど‥‥‥明日、陰陽寮で賀茂殿の予定を聞いてくるから昼過ぎ‥‥‥未の正刻ごろにここで。俺が戻ってなかったら部屋の中で待ってればいいから。女房にはちゃんと言っておくからさ」
嬉しそうにうなずくと花梨は文箱と香壺を包み直した。その手が止まる。
「どうした‥‥‥?」
のぞき込むと花梨が複雑そうな表情をしていた。
「‥‥‥賀茂殿は姉様の気持ちを知っていたのよね? だったらどうして黙っていたの?」
そんなこと俺に聞かれても困る。そう思ったが基嗣は首をなでて想像で答える。
「たぶん‥‥‥露草の姫がなにも言わなかったからじゃないか? なにも言われていないのに答えるのは変だろ?」
身分が違うとか他に好きな人がいるという問題以前に、露草の姫は実直に意思表示をしていなかったのではないだろうか。
もし俺が露草の姫と同じ立場なら、そんな相手をただ困らせるだけの気持ちを告白したりすることはできない。告白することを思い浮かべもしないだろう。
花梨のように、こんなふうに自分の意思を伝える勇気を持っていたら、露草の姫の一生はもう少し違っていたかもしれない。
たとえ振られたとしても‥‥‥
「そうか‥‥‥そうよね。わたくしも基嗣の考えは聞かなければわからなかったもの。文を受け取ってくれないから、嫌われたのか不安だったけど違う理由だったし‥‥これからもわたくしはいろいろ自分の気持ちを話すから覚悟してね」
妙にさばさばとした表情で花梨は言う。
その言葉に基嗣は声をあげて笑った。
「なによ」
頬をぷうとふくらます花梨に「ごめんごめん」と謝りながらも基嗣の笑いはなかなか治まらなかった。
始めて会った時は父の後ろに隠れるようにおどおどしていた少女が、本当はこんなに強いとは思いもしなかった。
「ごめん」
そっと花梨の長くつややかな髪を取る。そして自分の唇にその髪をあてた。思いもしない基嗣の行動に花梨は体を強張らせて頬を朱に染めた。
「門まで送るから」
「いい」
花梨は慌てて淡紅梅の包みを抱きしめると基嗣から逃げるように部屋から出ていった。
基嗣は自分の行動に驚いていたが、慌てて花梨の後を追った。彼女が護衛と合流するまで遠くから見守るつもりだった。
花梨は遣水を渡る反橋の傍まで来るとくずれ落ちるようにしゃがみ込んだ。
気分でも悪いのだろうか。慌てて駆け寄ろうとした時、反橋の向こうから盛義と二人の武士が現れた。盛義がなにか花梨に語りかける。花梨は手を振って答えていた。
やがて立ち上がり四人はゆっくりと歩き出す。その時、盛義がこちらを向いた。
篝火で明るいため基嗣がいることはわかったのだろう。片手をあげる。
その手に基嗣は振り返した。
なんだか気恥ずかしかった。
昼間、もう文は受け取る資格がないと頑なに言っていたのに、手のひらを返すように花梨のために頑張ってみようかという気になっているのだから。
去っていく四人を見送りながら、どうして自分があんなことをしたのか考えていた。
なぜか髪の毛にさわりたくなった。
どうしてか唇にあてたくなった。
これじゃ、花梨に恋してるみたいじゃないか。
考えてもわからなかった。
ため息をつく。今の自分が花梨のことをどう思っているか正確に判断するにはもう少し時が必要な気がした。
ひとつ伸びをして基嗣は歩き出した。
※女房は女性の使用人のことです。