見上げる空
◇
三郎太、今は元服し名を変え基嗣と呼ばれている、は家の者に気付かれないようにそっと苦笑した。
そしてもう一度、隣家の三の姫、花梨から届けられた文を開く。
ほのかに紅い薄様に書かれた文字は流れるように綺麗だったが、書き手の性格を表すかのように心持ち力強かった。
『はなひらく ひとときさへも おしいほど
あふるるいずみ よろこびのはる
あす もとつぐにあえるのを
たのしみに しております
やっぱり わたくしには うたはむいていないみたい
かりん』
普段、花梨は自分にだけは漢字、真名の混ざった文章で文、消息を書いてくるのだがこの消息はすべて仮名のみで、そしてめったに歌わない歌まで書いてある。
いつまで経っても、いっこうに花梨の歌は上手くならない。本人が言うように歌の才には恵まれなかったらしい。
女性の教養の中で一番大切だと言っても過言ではないのは、歌である。一流の女性はその場に応じた歌を瞬時に相手に返すことができなければならなかった。
だがこの花梨の歌は一生懸命悩んで悩みまくって作った歌なのだろう。
その姿が想像できる。
基嗣は灯りの炎を見つめた。
初めて内大臣邸で内大臣、一の姫『夕星』二の姫『露草』に会ってからもうじき三つ目の季節がめぐろうとしていた。
合奏の後、屋敷に帰り、父や兄達に内大臣の思惑を全て話した。そして自分が内大臣に協力したいと思っていることを告げた。
花梨の涙のせいかもしれない。
それか‥‥‥心の奥で、少しでも露草の姫の傍にいたいと思っていたのかもしれない。
どちらにせよ、父に相談しようと思いつつも気持ちは内大臣に魅かれはじめていた。
圧倒的な意志の力。
それほどまでの望みがなになのか、いまだに聞くことはできなかったけれど、それでも良かったと思っている。
先の見えた人生と半ば諦めかけていたが、内大臣側についたことによって基嗣は刺激的な毎日を送っていた。
花梨との婚約を私的な意見として内大臣が公表したのは三月だった。
その三月半前、十二月半ば新年を迎える前に三郎太が祖父の家正を引入大臣に元服した。
一月の司召で左兵衛府に配置。
二月には花梨が内大臣の叔父、現左大臣藤原規家を腰結い役に盛大に裳儀をすませた。
この一ケ月ごとの間が父の条件だった。
どうしても元服した三郎太、基嗣が裳儀の席で花梨を見初め、文を送り内大臣が承諾したという形にしたかったのだ。
やはり以前に陰陽師、実直が言ったとうり、父は右とも左とも言わない人物だというのは本当だった。極端な程どちらかの側につくことを恐れ、噂が立つことにさえも過敏になり、自分の意見があるとしても押さえこんでいる。
父はそうやって、今まで生きてきたのだろう。そして自分も、少し前まではそうやって生きていこうと思っていた。
けれど今は自分の選択を間違っていなかったと思う。
元服して名を三郎太から基嗣と変え、現在は兵衛府に出仕している。元服とほぼ同時に正七位上の位を受け、左兵衛少尉として働いているのだ。
十三歳で正七位上なら、まずまずの位だろう。
帝がいらせられる御所を囲む塀は、二重になっている。兵衛府は内の塀と外の塀の間を警護する役職である。少尉といえば中間管理職だが基嗣をいれて十六名いるため、基嗣のような年若な者がついても大丈夫だった。
けれど内大臣の娘婿としては正七位上という位は低い。
あからさまに「浅緑の袍しか着れぬ者を婿にとは内大臣は物好きなことよ」と嫌味を言ってくる者がいる。
衣服の色や形は位によって細かく決められている。色は四位以上は黒、五位は緋色、六位は深緑、七位は浅緑、八位は深縹、初位は浅縹である。形は文官、武官によって微妙に異なる。
衣服の色が官位によって決まっているのは正直言って気が滅入る。袖を通す度に自分が七位だということを、御所の殿上の間に上がることのできないできない地下だということを痛感させられるからだ。
だから自宅に戻り好きな色の直衣に着替えるとほっとする。
基嗣は消息を文箱にしまうと一緒に送られてきた漆の箱を開けた。中には丁寧に仕立てられた淡紫の夏の直衣が入っていた。
花梨は歌の才はさておき、裁縫が上手だった。女性の教養で一番大事なのは歌だが、他にも裁縫と染め物、あと琵琶や琴・箏を弾きこなすことも大事だった。笛をたしなむのは男性が主である。
正式な妻となり夫と同居する女性は、夫や家族の衣服を全て取りしきる。自分が上手なのはもちろんだが、裁縫や染め物が上手な女房を探し出し雇い入れることは大切な仕事の一部なのだ。夫がよれよれした衣服や季節に合わない色を身につけていると、それは妻の力不足ということになる。
十三歳でこれほど裁縫が上手ければ、もし家を放り出されても生活していけるだろう。これといった特技のない俺とは大違いだ。
‥‥これでもう何着目だろう。
元服してからこまめに内大臣邸に顔を出していたが、ことある度に花梨は自分に直衣や狩衣などを縫ってくれる。
色も瑠璃色や薄色、秘色など青系統の色が多い。袍の色が浅緑と定められているため、普段着の色はそれ以外の色にしてくれているのだろう。
内大臣邸に明日行く予定だから、早速この直衣を着ていこう。
内大臣邸には花梨に会いに行くというより内大臣に会いに行くというのが正確だった。内大臣にとって上からだけでなく、下の者から見た婿候補の動静や態度が一番知りたい情報らしい。だから基嗣も極力、一応部下になる兵衛たちと会話をかわし、情報を集めていた。
二百人近くいる兵衛たちから見れば、いくら上司とはいえ子供に命令されるのはおもしろくないだろう。だから基嗣は仕事に対する質問を見つけては人の良さそうな兵衛に聞いてみて、必ずお礼をすることから始めた。
質問をする度に少しずつうわさ話や自慢話にも混ざることができるようになった。
基嗣は決して話の腰を折ることなく聞き手に回り、うんうんとうなずきながら、話が終わり頃になり聞かれれば言葉短く感想や自分の意見を述べた。
幼い頃から身分に関係なく遊び回っていたせいか基嗣には身分で人を見る癖がない。だから自然体で兵衛達と話すことができた。彼らにもそれがわかるのか気に入られるのも早かった。
そのうち兵衛たちから内側の塀の中、御所内部を警護する近衛府の近衛舎人を紹介してもらうこともできた。最近では仕事内容を聞くことにより、さりげなく公達たちの性格や考えを知ることもできるようになった。
近衛舎人は帝の親衛隊であるが、普段は公達の護衛兵、随身として働いていた。
彼らほど公達の本性を知るものはいない。
明日は、花梨との逢瀬の日であり、今まで集めてきた兵衛や近衛舎人の意見をまとめて内大臣に報告する日でもあるのだ。
基嗣は今まで聞いてきたことをこまめに書き記してきた。その紙の束をまとめて冊子にするため針と糸を取り出した。
冊子作りが終わったところで基嗣は外の異変に気がついた。
もう夜更けだというのに外が明るいのだ。御簾を上げ簀子に出てみるとその光は内大臣邸の方向が一番明るかった。低く読経も聞こえてくる。
多数の松明をかかげ、加持祈祷を行っているのだろう。内大臣家で急病人が出たのだろうか。
基嗣はあわてて烏帽子を冠に変え、冊子を懐に入れると隣家へ駆け出した。
隣家が近付くと集団の読経の声がだんだん鮮明になる。よほど大人数の験者がいるのだろう。
顔見知りになった門番に会釈をし、邸内に駆け出した。もう慣れた迷路のような屋敷を走り抜け、花梨の部屋までたどり着く。
ここまで来るのに誰も止めないということは倒れたのは花梨ではないようだ。
「花梨。俺だ、基嗣だ」
読経の邪魔にならないように小さな声で部屋の中に話しかける。
御簾を上げ廂に入りこむ。
元服した男子が他家の廂に入り込むのは非常識なことであったが、非常事態なのだから仕方がない。
部屋の中から花梨がよろよろと出てきた。
泣きはらしたのだろう、目が真っ赤になっている。
「露草姉様が‥‥‥露草姉様が‥‥‥」
詳しいことを聞こうにも、花梨は泣きじゃくっていてどうしようもなかった。
「あたしのせいなの‥‥‥あたしのせいで‥‥‥‥露草姉様が‥‥‥」
泣き続けながら花梨はそんな言葉を言い続けていた。
基嗣はただ困惑しながら花梨の背中をなで続けた。
――― 読経の声が急に止まった。
どこからか「魂返せ、魂返せ」と叫ぶ声が聞こえる。
しばらくの沈黙の後また読経の声が始まった。
時折、奇声や叫び声すら聞こえる。
泣き続ける花梨を抱きしめて基嗣はその読経の声をぼんやりと聞いていた。「魂返せ」という言葉からすると露草の姫はもう亡くなったということだろうか。
「三の姫様、二の姫様がお隠れあそばされました」
御簾の外から女房が叫ぶ。
その言葉を聞くと花梨は嗚咽をもらして再び激しく泣き出した。
「二の姫様のご寝所に、基嗣様と共に急ぎ参られるようにと殿が仰せにございます」
内大臣は自分が訪ねて来たことをしっかり把握しているらしい。自分の娘が亡くなりそうだというのに‥‥‥
「花梨、歩けるか?」
基嗣の言葉に泣きやんだ花梨はゆらりとうなずいた。なんと声をかければいいのか悩んだが、なんとか励まさなければいけない気がした。
「しっかりしろ。露草の姫と会えるのはこれで最期になるんだぞ」
その言葉に花梨は顔を上げると、苦しそうに眉根を寄せた。
「露草姉様が亡くなられたのは‥‥‥わたくしのせいなの‥‥‥姉様がいなければ、基嗣はわたくしのことだけを見てくれるって‥‥‥そう考えて‥‥‥いなくなってしまえばいいって思ってしまったの‥‥‥だからわたくしのせいなの‥‥‥ごめんなさい‥‥‥ごめんなさい」
花梨は力なく座り込むと大声を上げて泣き出した。床に額をこすりつけるように身体を曲げ泣き叫んでいる。
基嗣は花梨の身体を抱き起こすと肩をつかんで激しく揺さぶった。花梨の首が力なく大きく揺れる。
「しっかりしろ!」
「‥‥‥‥っ!」
基嗣が強くつかんだ肩の痛みのせいで花梨は正気を少し取り戻していた。
「お前、露草の姫を呪詛したりしたのか?」
花梨がふるふると首を横に振る。
「死ねって言ったりしたのか?」
またふるふると首を横に振る。
「じゃあ、ちょっと思っただけなんだな?」
こくりと花梨はうなずく。
「だったら、お前のせいじゃない。心の中で思ったくらいで人が死ぬなら陰陽師や呪詛なんて必要ないだろ」
基嗣は花梨を抱きしめて囁いた。
「お前のせいじゃない。露草の姫は天命が尽きただけだ。お前のせいじゃない」
花梨は泣きやんだようだが身動きもせずに基嗣の腕の中でじっとしていた。
「お前のせいじゃない」
そっと花梨の頭をなでる。花梨はかすかにうなずいた。
「露草の姫の部屋に行こう。内大臣殿がお待ちになっているはずだ」
基嗣は花梨と手をつなぐと彼女を引きずるようにして露草の姫の部屋を目指した。
花梨の部屋とは背中合わせにあるため着くまでにそれほど時間はかからない。
験者が護摩を焚いたのだろう。部屋の周りには異様な匂いが漂っていた。
「失礼します。三の姫をお連れしました」
基嗣は室内の人物に声をかけ、御簾を花梨が入れるだけ上げた。
「かまわぬ。左兵衛少尉殿も入られよ」
内大臣の声がかすれているのは気のせいではないだろう。
「失礼いたします」
基嗣は花梨と一緒に部屋の中に入った。
御帳台の中で、露草の姫が眠るように横たわっていた。
「夕方に息を引き取ってな‥‥‥」
そこまで言うと内大臣は声をつまらせ、顔を片手で覆った。
懸命に涙をこらえているのだろう。背中が微かに震えていた。
横たわった露草の姫は亡くなっているとは思えなかった。白い肌の赤みはさすがになくなっているようだが、それでも触れば温かいのではないだろうか、声をかければ目を覚ますのではないだろうか。そんなふうに思うくらい穏やかな顔をしていた。
「姉様‥‥‥起きて‥‥‥起きてよ‥‥」
花梨が露草の姫の肩を揺さぶった。
ゆらゆらと力なく揺れる。その動きに合わせてつややかな髪の毛も揺れた。
ペしペしと頬を叩く。だが反応はない。
「目を開けてよ」
花梨の声がまた涙声になる。
「もう、遠くに行ってしまったのよ。今は安らかに眠らせてあげなさい」
花梨の手を夕星の姫の手が包み込む。
「悲しいけれど、わたくし達が泣けば二の姫は優しいからここに留まってしまう。引き止めてしまうことになるわ。極楽浄土に行けなくなってしまう」
「夕星姉様‥‥‥」
夕星の姫は花梨を抱きしめると静かに泣いた。
部屋の中には悲しみが満ちていた。
花梨も内大臣も夕星の姫も肉親を亡くした悲しみを溢れさせ、泣いていた。
けれど基嗣の目に涙は湧いてこなかった。
自分でも不思議なのだが、確かに悲しいのに涙が出てこないのだ。
ほのかに憧れていた女性が亡くなったというのに‥‥‥
確かに憧れていた。でもそれは恋い慕うような思いではなく、ただの憧れだったのだろうか。空を自由に飛ぶことのできる鳥や、水中をいつまでも潜っていることのできる魚への思いと似たような憧れで、男が女に思う気持ちとは別物だったのだろうか。
あの高い枝に咲き誇っている美しい花を手に入れることができたらいいな‥‥‥でも、あんなに高かったら無理だ。手は届きっこない。ならば眺めるだけで良い。
こんな気持ちが一番似ているのかもしれない。
幼い頃から諦めることに慣れているせいだろうか。露草の姫に憧れを抱きはしたが、結局その思いは恋心にまではならなかったのかもしれない。
基嗣はこんな時にまで、こんなふうに冷静に客観的に判断を下そうとする自分が嫌だった。
顔を上げた内大臣と目が合う。
内大臣は心底苦しそうな顔をしていた。
決断したのだろう。
なにを決断したか基嗣には想像がついた。
露草の姫が亡くなったばかりだというのに、内大臣は決して悲しみだけに浸ろうとはしないのだ。
どんな悲しいことがあったとしても彼はいつも前を向いているのだろう。
内大臣がそっと部屋を出て行った。基嗣もそれに続く。来いと言われたわけではないがなぜか付いていかなければいけないような気がしたのだ。
渡殿を渡り、寝殿の階で内大臣は座った。
少し離れた隣に基嗣も腰を下ろす。
ここまでくれば会話は花梨たちには聞こえないだろう。
庭にはたくさんの消えた篝火が残されていた。ところどころに験者の使ったと思われるむしろが残されている。先程まで読経が響き渡っていたとは思えないくらい今は静かだった。
空には満天の星が輝いている。
「‥‥‥もう、わかっているのだな」
内大臣の質問に基嗣はうなずいた。
「はい。これをよろしければ花梨、いえ三の姫様の婿を決める際にお役立て下さい」
基嗣は懐から先ほど作りあげた冊子を取り出すと内大臣に渡す。
露草の姫の婿を決める際の参考にと作りあげた冊子なのに、まさか花梨の婿を決めるのに使うことになるとは、思いもしなかった。
花梨はまた泣くだろう。
でも仕方ない。
花梨のことは気に入っていた。正式に夫婦になるのなら大事にしようと思っていた。けれどどうしようもないのだ。
家刀自として、次の女主人としてこの家を継ぐはずだった露草の姫が亡くなった。
長女の夕星の姫が入内する以上、三女の花梨が家刀自として有能で位階の高い者を婿に迎える他ないのだ。
俺のような地下では話にならない。
諦めるのは慣れている。
この縁談だって、もとは露草の姫の婿を決めるための作戦のひとつで、内大臣の私的な意見としての縁談だったのだ。決して正式にことが進んでいたわけではない。
それでも先ほど自分の腕の中で泣いていた少女が遠い存在になってしまうかと思うと少し寂しかった。
もう『お前』なんて呼べない。
「そなたのような息子が欲しかった‥‥‥」
内大臣は悲しそうな笑顔を向けてきた。
その言葉は意外だった。
「もっと嫌がるかと思っていたのだが‥‥‥案外あっさりしておるな」
「諦めることには慣れていますから‥‥‥」
基嗣は遠くを見つめるとつぶやいた。
「姫を欲しがっていた母は男の俺が生まれたと知ると落胆のため息をもらしたそうです。母はいつも冷たかった。大切にしていたのは長男の隆基兄上だけだった。母に大事に思われることを諦めてから、俺はたいていのことは諦めることができるようになりました」
そして苦笑する。
「父の期待も、出世も、優しくしてくれた乳母が夫の任国に付いて行った時も、夢も希望もいつでも諦めることができた」
「たとえ縁談が白紙に戻ったとしても、私はそなたに期待をしているぞ」
内大臣が優しく言う。
基嗣は目を見開き少し呆れて笑った。
「私には内大臣殿がなぜ、そのように私に期待するのか不思議でなりません」
「有望な若者と権力を笠に着た馬鹿者と、どちらに期待するかと聞かれれば普通誰でも前者と答えるだろ?」
基嗣はその言葉をかみしめた。
短い間だったが内大臣側の者として働くことができて、満ち足りていた。
こんなふうに誰かに期待されるなど今までなかっただけに、くすぐったかった。
でも、これからは今までのようにまめに屋敷に訪れることはできない。花梨との婚約も今夜限りで解消されるのだ。
ただの隣家の三男坊に戻るのだ。
「今宵、ここにいたことは誰にも言わぬほうがよい。言えば行触で一ケ月は休まなければならぬからな」
内大臣の言葉に基嗣は苦笑した。陰陽師を傍近くに仕えさせ、娘達の名を決して呼ばないのに彼自身は怨霊や行触など信じていないのだ。貴族階級として信じるのが常識だから信じる振りをしている。
「最後に三の姫に会っていくか?」
ゆっくりとうつむき、そして首を微かに横に振る。
「‥‥‥けっこうです」
内大臣が疲れたように立ち上がる。基嗣も立ち上がった。
「内大臣殿。‥‥‥花梨を‥‥‥いえ、三の姫様を大事にする者を婿に迎えて下さい」
「‥‥‥承知した」
立ち去っていく内大臣の背中に向かって基嗣は一礼した。
そのまましばらく基嗣はその場に立ち続けた。なぜか立ち去りがたかったのだ。
「基嗣殿」
振り向くとそこには実直が立っていた。
「賀茂殿‥‥‥内大臣殿なら二の姫のところに戻られたと思いますが‥‥‥」
「あなたは本当に諦めることができるんですか?」
どこから話を聞いていたのか知らないが実直はほとんど知っているらしい。
「私は‥‥‥諦めるの上手なんです」
妹がいなくなるような淋しさは感じるだろうが‥‥‥きっとすぐ慣れる。
「三の姫様のお心はどうでもよいと仰るのですか?」
実直が珍しく声を荒げる。
「それでも、あいつにも俺にもそれぞれの責任というものがあるんです」
「あなたは中納言の息子ではありませんか! 私のような陰陽師の家系に生まれたわけではない。がむしゃらに頑張れば叶わぬことではないのですよ」
基嗣は息を飲む。
それでも狂おしい程に花梨のことを恋い慕っているのなら別だが、今の基嗣は花梨に恋しているとは感じられなかった。
(露草姉様が亡くなられたのは‥‥‥わたくしのせいなの‥‥‥姉様がいなければ、基嗣はわたくしのことだけを見てくれるって‥‥‥そう考えて‥‥‥)
花梨のほうも同じだろう。花梨はこう言っていたが、基嗣には子供のような独占欲としか思えなかった。
恋とは違う。
‥‥‥たぶん。
「賀茂殿は‥‥‥二の姫のことを好いていたのですか?」
なんとなく先ほどの言い回しが気になり、つい聞いてしまった。
「‥‥‥私には他におりますから」
辛そうに実直が答える。
「もし‥‥‥あとから考えが変わったのなら私に相談して下さい。少しは助けになることができると思いますから」
実直はそう言い切ると一礼をして立ち去って行った。内大臣に会いに行くのだろう。
残された基嗣は涼しい夜風をただ一人頬に受けていた。
「諦めるのは‥‥‥上手‥‥‥か」
そんなのが上手くなってどうする。
いつもいつも諦めてばかりで、たまには自分から欲して手に入れる努力をすればいいんだ。
もう一人の自分が囁く。
それでも基嗣は今から内大臣のもとに戻って嫌だという気にはなれなかった。
花梨を幸せにする自信などなかった。
地下の俺よりも他の公達のほうが、似合うはずだ。
それに、それ以前に花梨を好きかどうかすら自信がないのだ。
こんな自分の気持ちすらわからないのに、どうすればいいかなどわかるはずがない。
基嗣は空を仰いだ。
東の空が白みはじめていた。
夜明が近い。
いつもならもう出仕の準備をしなければいけないのだが、今さら屋敷に戻り着替えるのも面倒だ。今日は物忌みと言って休もう。
――― 家に帰って寝よう。
基嗣はため息をつくとゆっくりと歩き出した。
諦めるのは慣れていた。
けれど、生まれて始めてかけられた期待は心地よくて忘れることはできそうにない。
基嗣は苦笑した。
花梨との婚約を解消されたことよりも内大臣側の者として公で動くことができなくなるほうが自分には衝撃なのだ。そのことに今さら気付いた。
でも、もう諦めるしかない。
大丈夫。諦めるのは上手なんだから。
基嗣はそっと自分にそう言い聞かせた。
見上げた空はなんだか遠かった。
※平安時代もののため、ルビが異様に多くて申し訳ありません。見にくい以外にもこの漢字のルビが欲しいなどありましたらお知らせ下さい。
※消息は手紙という意味です。この時代には手紙という言葉がないため、物語上「手紙=消息」で進めさせていただきます。