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元服騒動-2-


「一の君、そんなにあっさりばらしてはつまらぬではないか」

「まあ、お人が悪い」

 櫨紅葉はじもみじかさねの姫、一の姫があでやかに声を立てて笑う。

 三郎太も、三の姫もきょとんとしていた。

「‥‥‥‥つまりね。お父様は三郎太殿がどんな反応をするか知りたくて、あんな無理な申込みをしたのよ」

 萌葱の匂いの姫、二の姫の言葉に三郎太は絶句する。

 つまり試されたということか。

 父上と俺の両方とも。

「三の君からそなたのことを聞いているうちに興味が湧いてな。じっくりと話してみたくなったのだ」

 それにしては意地の悪い。

 良い縁談が来たと飛びついたりすれば内大臣なだいじんはすぐに見放すつもりだったのだろう。

「三郎太殿、この方法を殿に勧めたのは私なのです。責めるなら私を責めて下さい」

 御簾の外、廂から実直さねただののんびりとした声が聞こえる。

「しかし、さすがの賀茂殿も三郎太殿の返事までは見抜けなかったようだ。私をよく見てから決めたいとは‥‥‥‥」

 語尾が笑いで震えていた。

 あんなに父を悩ませておきながら、ただ試しただけというとは‥‥‥‥父はあんなに悩んで疲れきっていたのに。

 だんだん腹が立ってきていた。

「私は内大臣で終わるつもりはない‥‥‥ある望みのためにな。だから有能な若者を一人でも味方に欲しいのだ。その望みのためには娘達にも協力してもらう。三郎太殿、試すためにした申込みだが気が変わった。三の君との結婚のこと本気で考えてみてくれぬか?」

「お断りします」

 もう限界だった。

 怒りが爆発した。

「どんな望みかは知りませんが、自分のためなら人がどれだけ悩み苦しもうとも、どうでもいいというのですか!?」

 上手く言葉が続かなくて三郎太はそれだけ叫ぶと内大臣を睨みつけた。

 内大臣が冷ややかに笑う。

「どうでもいいと思ってなにが悪い? 私は自分の目的さえ叶うのならば、この世の誰からも好かれなくていいと思っている。人に好かれよう、相手はどう思うだろうなどと考えてなにになる。無駄なことだ。ただ望みが遠ざかるだけではないか」

 それほどの望みとはいったい‥‥‥?

 強い意志に満ちた瞳に射すくめられ三郎太は動くことができなかった。

「そなたの言い分はわからぬではないが、そのような甘いことを言っていては私を見極める前にそなたが失脚するぞ」

 口元の微笑は相変わらずだったが、声音が一弾と冷ややかになったような気がするのは気のせいだろうか。

 背筋が震えた。

 ぱんっと内大臣が手を叩く。

「さて、せっかく参られたのだ。ひとつ合奏でもせぬか? 三郎太殿はどんな楽器がお得意かな? 我が姫達の琴や琵琶びわの腕前はなかなかのものだぞ。準備ができたらお呼びしよう、それまでは申し訳ないが三の君の相手をお願いできるかな」

 先程とはうって変わった陽気な口調で優しげに語りかけてくる。

 頭が混乱した。

 先程の冷徹な人物とこの陽気な人物が同じ人とは思えなかった。完全にさっきの顔を隠していた。

「殿、左大臣様より文が届けられましたが‥‥‥」

 廂から実直ではない男の声がする。

「わかった。三郎太殿、しばし失礼する」

 立ち上がり、御簾を上げようとして内大臣は手を止めた。

「おお、そうだ。そなたの元服後の名前だが『基嗣もとつぐ』というのはどうだ? 父の名の『基』に口にたけふだに司の『嗣』だ」

 内大臣はくつくつと笑うと御簾をくぐり出ていった。

「この実直さねただという名よりはましであろう?」

「殿、名前のことでからかうのはおやめ下さい。私だって父の反対がなければ改名したいのです」

 御簾の外の二人の会話は、三郎太の耳には入っていなかった。

 男子は元服した時に名を変える。

 子供時代の名は幼名ようみょうといい、元服後はその名は使わない。新しくつける名は親や祖父の名から一字取ったり、占いで決めたり、主君から一字頂いたりして決める。

 『嗣』とは、後嗣あとつぎ嗣子ししというふうに用いる。どちらとも『跡を継ぐ者』を指す。

 この字は『跡取り』という意味だ。

 同じ『つぐ』という字でも『継』や『次』では微妙に意味が異なる。『あとから紡ぐ』『あとから引き継ぐ』ではなく『跡取り』という意味の『嗣』。

 この字を使い元服をし、三の姫と婚約すれば世の人々は自分を、息子のいない内大臣の実質的な後継者と思うだろう。

 ここで三郎太は内大臣の狙いのひとつがわかったような気がした。わかったというよりひらめいたのが正しいかもしれない。本当に俺を気に入ったのではなく、俺を使って人間関係を見つめ直したいのではないだろうか。

 そう考えれば納得がいく。

 二の姫もそろそろ年ごろだ。良い婿を選ばなければならない。そんな時に三の姫の相手として『嗣』の字を与えられた自分が登場すれば、二の姫に求婚していた男達はびっくりするだろう。

 求婚を諦める者や、内大臣に探りを入れたりする者が出てくるだろう。そういう反応を見たいのではないだろうか。

 三郎太はなんだかすっきりした。

 過剰すぎる期待をかけられるような人間ではない俺を、そんなに気に入るなどとはおかしいと思っていたのだ。

「あら、お父様の真意がわかったようね」

 一の姫があでやかに微笑む。

「教えて下さらない?」

 もう答えを知っているだろうに一の姫は甘えるように聞いてくる。この姫は内大臣にいろいろな意味でよく似ているような気がする。

 三郎太は大きく息を吸い込み、毅然とゆっくり答えた。

「内大臣殿は私という予定外の者が現れることによって生ずる、敵味方の反応が知りたいのではないでしょうか」

 一の姫は持っている扇を勢いよく閉じた。良い音が室内に響く。

「ご名答」

 一の姫は立ち上がると三郎太の前で膝をついた。感心したように笑うと三郎太のあごを軽く持ち上げるように触る。さらさらという衣ずれの音と共に部屋に満ちた香とは違う、爽やかな香の薫りが鼻をくすぐる。

 目の前にあでやかな美貌の女性。どぎまぎする。

「お父様が気に入るはずだわ。あなたとっても頭が良いのね。‥‥‥‥ねえ、本気でわたくし達の仲間にならない? お父様は口では冷徹なことを平気で言うけれど、懐に入れた者にはお優しい方よ」

 急には答えられなかった。

「悩みなさいな。そんなすぐに答えを出せるような問題ではないものね」

 一の姫は苦笑すると三の姫のほうを向く。

「三の姫、あなたを騙すつもりはなかったのよ。でもね、あなたは平気で嘘がつける子ではないわ。だから黙っていたの」

 三の姫は眉根を寄せ、今にも泣きそうな顔をしていた。

「ごめんなさいね。許して‥‥‥」

 そっと二の姫が三の姫を抱きしめる。

「だって‥‥‥お父様はわたくしが三郎太のことを気に入っているなら婿にしようって‥‥‥怖かった、とても怖かったの。お父様はどんどん話を進めてたし、三郎太はなんだか怒っていたし、わたくしは嫌われるんじゃないかって‥‥‥‥もうお外では遊べないんじゃないかって、ものすごく怖かった」

 二の姫が困ったように三郎太を見つめる。瞳が慰めてくれと訴えている。

 二の姫に見つめられて頬が染まるのが自分でもわかったが、三の姫のために、

「大丈夫だよ、これくらいでお前のこと嫌いになったりしないって」

 と、笑った。

「本当?」

「本当。嫌いになるならお前じゃなくて、お前の親父を嫌いになるって」

 努めて明るく言い飛ばした。

 三の姫がきょとんと目を見開く。

 一の姫と二の姫が同時に微笑んだ。

「じゃあ、楽器の準備ができるまで三の姫は三郎太殿のお相手をなさい。用意できたら呼びますから」

 一の姫が三の姫に話しかける。

 三の姫はこくりとうなずくと立ち上がり三郎太の袖を握った。

「わたくしの部屋へ参ろう」

 三の姫に引きずられるように三郎太は内大臣の部屋を出た。

 入ってきた簀子に出るのではなく廂を通り、渡殿わたどのに出る。渡殿とは建物と建物を結ぶ渡り廊下のことをいう。り水と呼ばれる人工の川があるため渡殿は床をそらせて橋のようになっていた。

 ここで三の姫は扇を取り出すと広げて顔を隠すようにする。

 きどっているわけでなく生真面目な顔をしてやっているから、誰かに言われて最近からするようになったのだろう。

 三郎太は吹き出した。

「どうして笑うの? お父様は女子は皆このようにしなければならぬと言うよ」

 三の姫が不思議そうな顔をする。

「悪い」

 三郎太は素直に謝った。

「俺にとって、三の姫は万寿丸だからさ」

 男が扇を広げて、顔を隠すなんて‥‥‥と一瞬思ってしまったのだ。

 三の姫は微笑むと

「今日はあのまじないをしていないから、わたくしはまだ姫なの」

 と、つぶやいた。

 三郎太はいまさらあのまじないがその場の思いつきで言ったとは言えなくなっていた。

 渡殿を渡り、また廂を通りさらにまた渡殿を渡る。

「俺、迷子にならずに帰れるかな」

 冗談めかして笑って言うと

「送ってあげるから大丈夫」

 三の姫も笑って答えた。

 廂に入り少し行ったところで御簾を開けて手招きをする。

「三郎太、ここ」

 先程の内大臣の部屋よりかなり狭かった。でも三郎太の部屋より明らかに広い。

 几帳や襖や御簾の縁飾りはすべて同じ花柄で統一されていた。

 衣装や香道具が入っている黒塗りの唐櫃からびつ二階棚にかいだな、鏡箱や櫛箱も可愛らしい小花の紋様が描かれている。奥の御簾の向こうに御帳台みちょうだいと呼ばれる天井つきの寝台が見える。やっぱり三の姫は内大臣の娘なんだ。

 部屋にある調度ひとつをとっても自分の部屋にあるものとは大違いだ。

 御帳台を使っているなんて‥‥‥俺の母、中納言の北の方でさえ床に畳をひいて寝ているのに。とは言え、畳は高級品のため寝所にひけるだけでも充分ぜいたくだ。部屋中一面に畳をひくのはずっと後の時代になってからのことである。

「失礼いたします」

 御簾が開けられ盆を持った侍女が入ってきた。盆の上には白湯さゆと、おこしごめという炒った米を蜜で固めた菓子がのっていた。

 侍女は盆を置くと無言のまま出ていった。

「‥‥‥‥三郎太は‥‥‥‥わたくしの婿になるの嫌?」

 早速、白湯を飲もうとした三郎太は三の姫の質問にむせた。

 なんとか吐き出さずにすんだが、のどの奥に入ってしまったようだ。ごほごほむせながらあわてて胸を叩く。

 三の姫が背中をなでる。

 なんとか治まった後、三郎太は三の姫を呆れたように見た。

「‥‥‥‥俺のことより、お前自身はどうなんだよ? 俺でいいのか?」

 勢いよく首をたてに振る。

「わたくしは三郎太が良い」

 絶句した。

 本当に意味がわかって言っているのだろうか。

「‥‥‥‥お前いくつだっけ?」

「年が明けると十三になる」

 ということは今、十二歳。

 ――― 俺と同い年。

「お前、俺と同い年なのか!?」

 三郎太はまた驚いた。ずっと弟分として遊んでいたせいか三の姫のことをなんとなく年下だと思っていたのだ。

 十二歳だったらそろそろ裳儀もぎをしてもおかしくない。

 改めて三の姫を見た。

 白い汗衫につややかな黒髪が垂れている様や黒目がちの大きな目は確かに愛らしかったが、でも、結婚相手となると考えずにはいられなかった。

 三の姫本人のことよりも少女の父親、内大臣のことについて。

 これが二の姫だったら‥‥‥喜んで承諾するのに。

 自分の考えにさらにびっくりした。

 たったあれだけしか会っていないのに、二の姫のことがこんなに心の奥に残ってしまっている。

 優しい月光のような微笑み、月光菩薩のような尊さを持つ女性。萌葱色の衣装がよく似合っていた。

 唇を噛んだ。

 どうして俺はあと三年くらい早く生まれなかったのだろう。それかせめて長男ならば‥‥‥‥

「やっぱり、三郎太も二の姉様がいいの? うちに来る人は皆、私より二の姉様をお好きになるの。二の姉様はお綺麗だから‥‥‥‥」

 三の姫の見透かすような言葉に、はっとして目を見開く。

 そんなに顔に出ていただろうか。

「そんなわけないだろ」

 笑ってごまかした。

 いくらなんでも内大臣が俺のことを二の姫の相手にとは考えないだろう。

 何年か早く生まれていれば、長男だったらなどと考えてもどうしようもない。

 ――― 諦めるのは慣れていた。

 それよりも今は目の前の問題を考えるべきだ。

 内大臣の意図がわかった以上、猶予をなどとは言っていられなくなった。

 二の姫の婿候補をふるい落とすための婚約なのだ。

 三郎太はおこしごめにかぶりついた。香ばしく炒ってあるため、ばりっと良い音がする。米と一緒に豆が細かく砕かれて固めてあり美味だった。我が家のおこしごめはこんなに香ばしくない。

「お前、俺のどこがいいの?」

 蜜のついた指をなめる。

 目の前の三の姫は困ったように首をかしげた。

 しばらくの間の後、満面の笑顔で

「三郎太が相手なら、わたくしはわたくしでいられるもの」

 と、言う。

 その言葉は気に入った。

 確かに三の姫が相手なら俺も俺でいることができそうだ。

 それでも即決はできなかった。

 やはり父や兄上に相談するべきだ。

 三郎太はあごをなでた。

「‥‥‥考えとくよ」

 白湯を取り一気に飲みほす。

 その様子を三の姫はなんだか悲しそうに見つめていた。

 はあ、と息をつき、さっきからずっと気になっていたことを言う。

「ところでさ、内大臣殿もお前らのこと名で呼ばないんだな」

 普通父親なら娘のことを名前で呼ぶ。

 一般的に人の名は使わないが家族なら別だ。

 なのに内大臣は娘のことも『一の君』『二の君』『三の君』と呼ぶ。

「もしね、呪術とかで名を使われるといけないからって普段から名は使わないよ」

 名前には、特別な力があると考えられていた。呪術や占いなどでも名がわかればそれだけで力が発せられると思われていたのだ。

 だから内大臣は念には念を入れて家でも名前を呼ばないのだろう。

 徹底している。

 それに名前で呼ぶということは相手を一人前とは思っていないという意味もある。

 だから男なら元服後も名をほとんど使わずにだいたいは役職名で、女の場合は長女なら『一の姫』『大君』『大姫』。次女なら『二の姫』『中の君』。三女は『三の姫』末の姫なら『小君』などと呼ばれる。

「わかりづらい」

 三郎太は眉をしかめた。

「これから先、お前も女の子の友達ができると思うけど、その子達も何々様の一の姫とか何々卿の三の姫とか呼ばれてるわけだろ。ごちゃごちゃして、ややこしいじゃないか」

「でも父上が女の人は特に名前で呼んじゃだめだって‥‥‥」

「だから、俺達でつけようぜ」

 三の姫が目を見開いた。

「花でも、鳥でも、あの姉様達に似合いそうな名前をつけて俺達だけで呼べばいいんだ。それならかまわないだろ?」

「うん」

 勢いよく首をたてに振る。嬉しそうに何度もうなずく。

「まず、お前な」

 三郎太の言葉に三の姫は呆然としていた。

「‥‥‥姫にもつけてくれるの?」

「あたりまえだろう」

 三郎太の返事に、三の姫は赤く染まった頬に両手を当て嬉しそうに笑った。

「姫‥‥‥わたくしね、本当はずっと三の姫って呼ばれるの嫌だったの。だから嬉しい」

 確かに名前があるのに番号で呼ばれるのは嬉しくないだろう。

「俺もさ、三郎太なんて芸がないよなっていつも思ってたんだ。三番目だから三郎太なんてひねりが足りない! そう思わないか?」

「‥‥‥うん」

 三の姫は泣いていた。

 どうして泣くのか三郎太にはわからなかったが、とりあえずそのままなにも言わずにいることにした。

 彼女が泣き終るまで三郎太は三の姫に背を向けておこしごめをばりばりと食べ続けた。なるべくゆっくりと。

「ごめんなさい。‥‥‥ありがとう‥‥‥三郎太」

 三の姫が袖で涙をぬぐう。

 三郎太は蜜で汚れた指を懐紙でぬぐい、振り向いた。

 三の姫の目は泣いたせいか真っ赤になっていた。

「いいって‥‥‥ところで名前でなんか特徴あるか? 三人とも同じ部首が使われてるとか読みが同じとか、あればそこから連想できる言葉をつけられるんだけどな」

「あるよ。一の姉様が星で、二の姉様が月で、わたくしが太陽なの」

「星、月、陽ねえ」

 一の姫が『星』というのはなんだか似合わない。きっと名前は星子と書いてセイコかホシコと読むのだろう。

「なんか星って感じじゃないよな。あんなに派手な美女なのに‥‥‥」

「星でも明けの明星みょうじょうとかよいの明星とか、とにかく目立つ星のような方よね」

「それ! 宵の明星の異名の夕星ゆうづつってのはどうだ? 一の姫らしいだろ。夕焼けの中で一番に光り輝いてるところなんてさ」

「夕星の姉様。いいね!」

「次は二の姫か‥‥‥月ね‥‥‥月光とか、朔月さくづき望月もちづき、中秋の名月‥‥‥ううん」

 名前はきっと月子なのだろう。『月』とは優しげな二の姫によく似合っている。


月草つきくさに きぬは摺すらむ 朝露に

                 濡れてののちは うつろひぬとも」

 三の姫が歌を口ずさんだ。

(月草で衣を摺り染めしよう。朝露に濡れてしまった後、たとえ色があせてしまうことがあっても‥‥‥‥)

「二の姉様が好きな歌なの」

 意外だった。

 この歌は万葉集に入っている歌だ。ふつう女性で万葉集を好んで読む人は少ない。

 しかもこの歌は深読みすれば(移り気なあなたは心変わりをするかもしれないけれど、私はあなたを慕っています)という意味にもなる。

 少し切ない歌だ。

 月草とは別名『露草』ともいう。

 はっきり言ってしまえば雑草だ。だが朝露に濡れて野に咲く鮮やかな青色の花びらは美しい。花の命は短いため朝咲いたかと思うと昼過ぎにはしぼんでしまう。

 水ですぐ落ちてしまうため最近ではあまり使われないが、古来から染料として良く使われていた。

「露草の姫‥‥‥てのはどうだ? 名の月が入らないし、なかなか綺麗だろ」

「うん、二の姉様らしいよね」

「あとはお前か‥‥‥陽、太陽、日輪にちりん火輪かりん‥‥‥『かりん』て読みは良いよな」

 名前は陽子と書いて、ヨウコだろうか。

 三の姫は両膝に手を当てて嬉しそうに三郎太を見つめていた。

 黒目がちな大きな瞳が期待に満ちている。

「お前も考えろよ」

「三郎太につけて欲しいの」

 三郎太の呆れたような言葉に真面目な顔をして答える。こんなに期待されては下手な名前はつけられない。

 精神的な圧迫がかかる。

「‥‥‥え~と‥‥‥花の梨で『花梨かりん』てのはどうだ?」

 なんとなく緊張しながら返事を待った。

 『花梨』と呼ばれる木はおおまかに二種類あり、春の終わりに薄紅色の花を咲かし黄色の芳香の強い果実がなる木と、細工物や調度などに用いる材の美しい木とがある。

 陽から『火輪』と連想したのだが、これでは少し強い感じで本人と合わない。『花梨』なら字面的に三の姫に合っている気がする。

「花梨‥‥‥」

 三の姫がつぶやく。

「名の陽が入らないし、それに可愛らしいだろ?」

「可愛い?」

「俺はそう思うけど‥‥‥」

 三郎太は首筋をかいた。

 なんとなく気恥ずかしい。

 首から離れた手を三の姫が柔らかな手で握り締めて言う。

「ねえ、『花梨』て呼んで‥‥‥」

 思いのほか強い力で握り締めてくる。

 少し動揺したが、それでも呼んでみた。

「‥‥‥花梨」

「もう一回」

 うつむき、まぶたを閉じて三の姫は言う。

「花梨」

「‥‥‥はい」

 ゆっくりと顔を上げて微笑む。

 今にも泣きそうな微笑みだった。

 三郎太は赤面した。

 わかりづらいから呼び名をつけようと思っただけなのに、こんなふうな反応をされるとは思わなかった。

 頬を叩くまじないのことといい、呼び名のことといい、思いつきで言ったことがこんなに深く彼女の心の中に残ることになろうとは‥‥‥

 突然、三郎太は乱暴に花梨の頭をくしゃくしゃにした。

「花梨頭かりんあたまって知ってるか? 花梨の実みたいにでこぼこした頭のことをいうんだ。あれ、花梨は花梨頭じゃないな」

「痛い。やめてよ、三郎太! ぐしゃぐしゃになっちゃったじゃない」

 頬をふくらませて睨みつけてくる瞳にもう涙はにじんでなかった。

 なんとなくホッとした。

「しょうがないな。じゃあ、俺が梳いてやるよ。櫛あるか?」

「本当?」

 くしゃくしゃ頭のままで三の姫、花梨は嬉しそうに櫛箱を持ってくる。

 その花梨の姿を見て、三郎太は声を立てて笑う。

「ひどい!笑うことないでしょ」

「合奏の前に直しとかないとな。花梨、ここに座れ」

 三郎太は微笑んで自分の前を指さした。

「うん」

 花梨が勢いよくうなずいた。

 そのひょうしに手にしていた櫛箱から櫛がこぼれ落ちる。

 二人は声を立てて笑った。



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