元服騒動-1-
◇
三郎太は父から呼ばれて寝殿に来た。
同じように呼ばれて、万寿丸と出会ってから早三ケ月が経っている。
この三ケ月、二人は毎日のようにいろいろなところを駆け回り遊びまくった。
万寿丸は最初の頃は少し走るだけで息を切らしていたが、今では体力もつき少し走ったくらいでは疲れなくなってきた。木登りも覚えたし、いたずらも上手くできるようになっているのだ。
時には馬に乗って遠出もした。狩りもしたし、川で魚釣りをしたり草原で昼寝もした。
自分が知る限りの遊びを万寿丸に教えている。
「父上。三郎太、参りました」
相変わらず寝殿の中は薄暗い。
滅多に帰ることのない主のため掃き清められてはいるが、空気が重苦しい。
目の前の父は苦痛の表情を隠そうともせずに、息子に相対していた。しばらくの沈黙の後、ようやく口を開き「お主の元服が決まった」と言った。
三郎太はうなずいた。そろそろじゃないかと思っていた。
「それから、内大臣殿からお主を三の姫君の婿として迎えたいというお申し出があってな‥‥‥‥どうする?」
絶句した。
三の姫君‥‥‥つまり万寿丸の婿になる?
「お、お断り下さい!」
三郎太は叫んでいた。
いくらなんでも身分が違いすぎる。いったい内大臣殿はなにを考えているんだ。
「この三ケ月のお主の行動を見てお気に召したらしい。ぜひ婿に迎えたいと仰ってな」
父の表情は複雑そうだった。
いくら遠戚とはいえ、内大臣家と我が家とではあまりにも違いすぎる。
これが長男であり、嫡男である隆基に来た縁談なら少し身分が違う程度ですむから喜んでお受けするのに、よりによって三男にこんな良い縁談が来るとは‥‥‥‥
「それからお主の引入大臣になりたいとも、仰っておいででな」
男子が成人した証しとして初めて冠をかぶる儀式を元服という。今までみづらだった髪の毛を肩くらいで切り髻を結い上げて、引入大臣が祝詞を述べながら冠をかぶせる。
引入大臣は普通、元服する男子の祖父や親戚などが行う。なぜならこの役をするとはその男子の後見役であると公表しているのと同じだからだ。血の繋がらぬ者がすることは珍しい。
三郎太は目を大きく見開いた。明らかに全面的な支援の申し出だった。
再び絶句する。
いったいぜんたいなにを考えているのだ内大臣は!
三郎太は怒りが込み上げていた。はたから見れば有力な貴族の後ろ盾と見えるが、三男の自分だけ特別扱いとは‥‥‥‥これでは長男の隆基兄上、次男の基久兄上と仲違いをしろというようなものだ。
確かに年が離れているため仲が良いとはいえなかったが、それでも兄弟だ。むやみに仲違いはしたくなかった。内大臣が自分だけ後見するということになれば二人は快く思わないだろう。
それにこの申し出を受ければ自分は始めから内大臣側の者になってしまう。
内大臣が政争に破れれば自分も否応なく巻き込まれる。
それだけは避けたかった。
確かに貴族として生きてみようと決めていたが、自分が誰の側に立つか、どんな娘を妻にするかは自分で決めたかった。
それに俺のことを気に入ったと内大臣は言ったらしいが信じられなかった。万寿丸が遊んだことを内大臣に話したとしても、婿にしょうと思う程のことはしていない。なんといっても俺は本当に遊び方しか教えていないのだから。
三郎太は唇を噛んだ。
「三郎太、一度内大臣殿と直に会うがいい。さすれば考えもまとまろう」
父は懐から文を取り出した。
「これを直に渡すように頼まれたといえば良い。今ならもう屋敷にいらっしゃるだろうからな」
疲れたようにそう言うと三郎太の手に文を置いた。
「ただの白紙だ。内大臣殿に会うも会わぬも自分で決めなさい」
もし、三郎太が内大臣殿の申し出を受け、三の姫と結婚すれば世の人々は父である中納言が内大臣側についたと思うだろう。
中納言から見れば決していい縁談ではない。
確かに位からいえばいい縁談だ。
三男が自分より位の高い者の娘婿になる。
これだけ聞けば誰もがうらやましがる縁談だ。しかし問題があった。
三番目の姫が相手で三郎太は元服前‥‥‥あまりにも中途半端。
これが三郎太が自らの進退を決めることのできる年齢になってからの縁談であればまだいい。もし内大臣が政争に破れても内大臣との繋がりは三郎太ひとりのことと言い逃れができる。
ところがまだ元服前だ。いくら三郎太が一人で決めたことだとしても世の人々は父である中納言が一枚かんでいると思っても不思議ではない。
そして相手が三番目であるということ。内大臣ほどに位が上ならば、普通長女は天皇のもとに嫁がせる。そして次女の姫が家のことを継ぐ。そのため長女、次女は后がね、家刀自として大切に育てられる。
これが二番目の姫が相手であるなら、今だ息子のいない内大臣が三郎太を跡継ぎとして考えているのかもしれないと思うことができるが‥‥‥‥
考えに考え、結局中納言は三郎太の決断に従うことにしようと決めたのだ。
むげに断れば内大臣の不興を買う。喜んで受け入れても中納言自身は時を経て内大臣がさらに出世し摂政、関白にでもならない限りあまり得にはならない。どちらを選んでもあまり変わりがなかった。
中納言はすでにこれ以上の出世は諦めていた。ここまで昇りつめればもう充分だった。
あと数年勤めあげて、出家して悠々自適な生活を送るつもりだったのに、あと少しというところでこんな割の合わない選択をつきつけられたのだ。疲れもする。
父の疲れきった表情を見て三郎太は驚いていた。こんなに父は老けていただろうか。
確かにしわがが増えたなとは思っていたが‥‥‥よく見れば白髪もあった。普段冠で頭を覆っているためそれほど感じなかったのに‥‥‥‥
「これから内大臣殿に本意を伺って参ろうと思います。どのようなことになろうとも父上に害が及ばぬようにできる限りいたしますのでどうか心安らかに、お待ち下さい」
三郎太はなるべく父の姿を見ないように早口に言った。
ぎこちなく一礼をすると足早に部屋から立ち去る。
父と一緒に同じ部屋にいることがいたたまれなかった。
いくら貴族としての生活に夢や希望を抱きにくいとしても、それでも頑張ろう。と思っているのに、父はもう貴族としての生活全てに疲れきっているように見えた。自分の四十年後の姿を見せつけられているようで恐ろしかった。
三郎太は階を下り浅沓を履いた。どこからともなく護衛の安之と安則兄弟が現れる。
「内大臣邸に行く」
三郎太は苦笑した。
自分を気に入ったと内大臣は言ったらしいが、とうてい信じられなかった。
本心はどうなのか聞き出してやる。とさっきまで思っていたのに今はどうでもいいような、投げやりな気分になっていた。
どうせ出世できるのは良くて参議、それか少納言まで、最初から先の見えた自分の人生だ。
せめて妻くらいは位階に関係なく好いた娘をと思っていたが、顔も見ずに惚れこみ文を送り続けた相手と結ばれ、朝日で顔を始めて見たらとんでもなかった。という話はよく聞く。自分が同じ失敗をしでかさないとは限らない。
だったら顔とある程度の性格を知っている万寿丸のがまだましかもしれない。彼女が相手なら好きになる努力もできるだろう。
とぼとぼと門を出て隣家に向かう。
自分の家とは比べ物にならないくらい大きく豪勢な門を見上げた。
門番に文を見せ、内大臣殿に会いたい旨を告げる。
しばらくして、一人の若い男性が案内のため三郎太を迎えに来た。
「新中納言殿のご子息、三郎太殿ですね。殿のところまで私が案内します」
側に来ると、この男性の背が異常に高いことに気付く。自分に優しく微笑みかけるこの長身の青年は誰なのだろう。
‥‥‥‥まさか二の姫の許婚いいなずけ?
ゆったりとした物腰、丁寧に仕立てられた直衣からはほのかに香の薫りがする。端正な顔立ちをしているのに微笑むと少し幼く見えた。こういう公達が御所には大勢いるのだろう。
この男性が二の姫の相手なら納得がいく。
「ああ、申し遅れました。私は陰陽師の賀茂実直と申します」
陰陽師。
三郎太は意外な言葉に絶句した。
陰陽師とは古代中国の陰陽五行説に基づいて天文、ト筮、暦数、相地などを扱う陰陽道に関する専門家であり、御所に出仕する中級貴族である。
このふんわりとした雰囲気の青年の役職が陰陽師というのは意外だった。
なんというか、陰陽師というのはもっとおどろおどろしい人物だと思っていた。紙を人間の姿に変え、人外のものを使役し呪文ひとつで怨霊を退治できる。そんな特別な存在……を想像していたのに……
しかしどうして陰陽師が自分の案内などするのだろう。不思議でならなかった。
門に護衛を残し一人で長身の青年の後をついていった。
内大臣邸はとても大きく豪華だった。柱や屋根も立派で簀子や階はよく磨かれ、庭もため息が出るくらい見事にせん定されている。萩や女郎花が咲き誇り、桔梗や竜胆、撫子がひっそりと色を添えていた。
これだけ秋の花々が咲きそろっているのに秋らしい、少し淋しげな風情の庭に感じられる。
門から歩いてすぐの建物に入ってからずいぶん歩いたがいっこうに着かない。
これでは一人で帰れないかもしれない。
「どうぞこちらへ」
目的地にやっと着いたのだろう実直が御簾を開け、中に入るように促す。
「おお、来たか。待ちかねたぞ。賀茂殿が申す通り一人で参られたか」
三郎太は驚く。やはり陰陽師だ。不思議な力を使い自分が訪ねて来たのを知ったのだろう。
「新中納言殿は普段から右とも左とも仰らぬお方故ゆえ、あのような無理難題をつきつけられれば本人に決定を譲るのではないかと推測しただけにございます」
実直は簀子で控え、静かにそう言った。
「賀茂殿の観察眼はあいかわらずですわね」
若い女性の声がした。
三郎太が入った廂の内側にはさらに御簾がかかっていた。その御簾の奥には一人の男性と三人の女性がいる。
「三郎太殿、そこでは顔が見えぬ。もっと奥に入るがいい」
ここまで来た以上、引き下がるのは嫌だった。
意を決すると御簾を上げて、中に入った。
広い板の間の室内には香の薫りが満ちていた。調度はどれも飾り気がなかったが、上等なものだった。書物や巻物がたくさん並べられた大きな厨子に二階棚、几帳や襖、屏風の絵は松の模様が描かれている。どうやら内大臣の部屋らしい。
中央に男性(このかたが内大臣だろう)がその男性の右側に三人の若い女性が座っていた。一番手前の若い女性、いや女の子は万寿丸だった。ということは奥の二人の女性は一の姫と二の姫だろうか。
「そこに座るといい」
畳に座る男性の前にいぐさで編まれた円座がある。三郎太はそこにすっと足を組んで胡坐で座った。この時代は正座は男女ともにほとんどしない。
「お初にお目にかかります。中納言藤原頼基の三男、三郎太にございます」
両の拳を床につき深々とお辞儀をする。
「うむ。私は内大臣藤原家孝と申す。三の姫の件はそなたの返事も聞かずに決めてしまい申し訳なく思っていた。顔を上げなさい」
ここは固辞をするべきか一瞬迷ったが、三郎太は顔を上げた。ここでへりくだるのはなんだか嫌だった。
正面の家孝はなんだか嬉しそうだった。
遠慮なくじろじろと自分を見てくる。三郎太は仕返しとばかりに、同じように家孝を見た。
表が白で裏が蘇芳色の直衣の襟元を解き、烏帽子を被りくつろいでいる姿なのになぜか上品に見える。意志の強そうな鋭い眼差し、薄い口元は試すような微笑みを浮かべている。
「三郎太、ごめんなさい。わたくしが冗談で言ったことを父上が本気にしてしまったの」
万寿丸、いや三の姫が申し訳なさそうに謝った。
さすがに今日は水干ではなく汗衫と呼ばれる童女の上着を着ていた。白い生地に萌葱色で小菊が刺繍されている。つややかな髪を解いていたが、前髪の少しを左右に分け取りあごの近くで萌葱色の紐で結んでいた。普段の男の子の格好しか見たことのない三郎太は正直、あまりの変わりように驚いていた。
「三の君、そのことはあとで話す故、黙っていなさい」
注意の言葉なのになぜか内大臣が言うと優しげに聞こえる。万寿丸は頬を染めうつむいた。
「父上、三の姫を叱らないで。この子に黙っていたのはわたくし達なのですから」
三郎太は顔を優しげな声の主に向けた。
目が合う。
真ん中にいる姫が少し首を傾げ微笑んだ。
優しい月光のような女性。年は十四、五だろうか。淡い萌葱色の衣装を身につけている。そで口を見ると中の衣装がどんどん濃くなっているが一番下の単衣は鮮やかな紅色。萌葱の匂いと呼ばれる襲だ。上着には二藍の糸で桔梗の刺繍がされている。
顔を隠すように袖を口元に当てる様さえ優雅であり、それに月光菩薩のような尊さを感じた。
黒くつややかな髪が左右よりこぼれ、柳の糸のようだ。白磁のような肌に紅をはき、黛で眉を整えている。
三郎太はこんなに美しい女性を生まれて始めて見た。
一番奥の内大臣に近い位置にいる女性も美しかったが、彼女の美しさは萌葱の匂いの女性とは違い、はつらつとした陽光のような美しさだ。
年の頃は十七、八。
父に似た鋭い眼差し、勝ち気そうな口元。櫨紅葉と呼ばれる黄や朽葉、紅色や蘇芳色を重ねた衣装さえ色あせて見える。濃赤や濃紫、それか染める前の白絹が似合いそうな華やかな容貌。まるで季節を先駆けて花開く紅梅のようだ。
三人三様の美しさだったが三郎太の瞳は真ん中の姫に釘つけられた。
「三郎太殿、我が家の自慢の姫達はいかがかな?」
からかうような内大臣の言葉にはっとして慌てて首を戻し「申し訳ありません」と謝った。
家族以外の女性と同じ部屋に入ることができるのは子供の時だけだが、自分はもうじき元服する身、こんなふうにじろじろ見るのは失礼だった。
普通親子でも異性なら間に几帳を立てる。女性が顔を見せるのは肉親であれ恥ずかしいこととされていた。特に血の繋がらない男女が顔を見合うのは恋人となった後のことである。
現に実直は御簾の外の簀子にいる。
「ところで返事をまだ聞いていないのだが」
一の姫、二の姫が驚いていた。三郎太は心を決め、顔を上げた。
「恐れながら、その件については暫ご猶予をいただけませぬか?」
内大臣がおもしろそうな顔をして脇息にもたれ掛る。
「考える時間が欲しいということか?」
「違います」
即答した。
歩きながら考えたことを述べる。
「俺‥‥‥‥いえ私はまだ元服もしていない身です。今この縁談を受ければどうしても父や二人の兄も内大臣側についたと世の人々は思うでしょう。それは困るのです」
言葉の止まる三郎太に、内大臣が「それで?」と続きを促してくる。
「それに内大臣様にとっても今の私を婿にするというのを公表するのは、得策ではないと思うのです。元服して出仕を始めてから私の無能さが表立つかもしれません。ですから数年、お互いをよく見てから決めたほうがいいと思うのです。内大臣殿は私が使い物になるかどうかを、私は内大臣殿が政争を掌握できる程の人物か否かを」
大きな笑い声が部屋に満ちる。内大臣が膝を叩いて笑っていた。
その笑い声は次第にくつくつという笑いになったが止まることはなく、しばらくしても笑いで体を震わせていた。
三郎太は内大臣の笑う姿をただ目を開いてびっくりして見つめるだけだった。
「お父様、三郎太殿が呆れていますわ。早く説明してさしあげなさいな」
櫨紅葉の襲の姫が呆れたように言う。
「ごめんなさいね。あの申込みは嘘なのよ」