つないだ手-2-
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京師全体が南北方向と東西方向に大路、小路で格子のように区分けされているため全体に景色が変わるわけではない。同じような土塀や板垣が右を向いても左を向いても続いている。それでも市が近付いているのは人出の多さと、大きな荷物を抱えている人の数でわかる。
角を曲がるとさらに人が増えた。遠くには地面にわらを敷き、なにか売っている者がちらほら見られる。
三郎太が住んでいる四条から西の市まではかなり歩く。普段から歩き回っている三郎太には少し疲れた程度の道のりだったが、ほとんど出歩いたことのない万寿丸にとっては余程大層な道のりだったのだろう。足元がふらふらしている。
だが大きな包みを首にかけ足早に市から出ていく男や、供の男を数人連れた女(その女は顔を見られないために市女笠のまわりに薄く白い布、むしの垂れ絹を垂らしていた)や狩衣を来たお忍びの貴族のような青年達が通る度に目を輝かせて見つめていた。足の動きは遅くなっていたが首と目はせわしなく動いている。
三郎太は香ばしい匂いを周囲にまき散らしている店の前で足を止めた。米や麦の粉を飴や蜜で練り適当に一口大くらいの大きさに切り、胡麻油で揚げた環餅や小麦粉を練って固め胡麻油で焼いた煎餅を扱う菓子店である。
懐から淡い桃色に染められた薄手の和紙、薄様を数枚取り出すと店の主の前に差し出した。
「これと交換してくれ」
「また来たのか。‥‥‥五つだ。それ以上は駄目だ」
「相変わらずけちだな。ま、いいか。こいつと分けるから六つにしてくれ」
そう言うと、主人の返事も聞かずさっさと環餅を六個掴んだ。
「いつもより一枚まけといたからさ」
「かああ、相変わらず要領のいいガキだぜ」
「ありがとな。おやっさん」
三郎太はにかっと笑うと万寿丸に礼をするように促した。
「ありがとう」
ペこりと頭を下げた。
「おお、可愛い子だね。よし、ひとつおまけしてやろう」
主人は笑みを浮かべると一番小さな少し焦げた売り物にならない環餅をひとつ差し出した。
「やっぱりけちだな」
「てめえにだけは言われたくねえな。いいかちゃんと三つずつ分けろよ、一人で四つ食うんじゃねえぞ」
主人は豪快に笑うと、万寿丸の手に環餅を乗せた。万寿丸は不思議そうにその香ばしく揚がっている環餅を見つめる。
「おい、おやじ」
他の客が来たらしい。主人はさっさと二人の前から立ち去った。
「ほら、来いよ」
三郎太は万寿丸の袖を引っ張って店と店の間に移動し、座り込んだ。
万寿丸の手に三つ環餅を乗せてから自分も戦利品にかじりついた。蜜や飴が練り込んであるためほんのりと甘くしっとりしていた。胡麻油の香ばしい匂いが食欲をそそる。
砂糖はまだ薬用で高級品のため、甘いものといえば限られていた。
蜜や飴、果実や木の実やそれらを干したものである。しかしたいていは実りの秋にならなければ出回らない。
菓子は嗜好品であった。
だから菓子店はどちらかといえば貴族や商人が相手の高級店なのだ。
ぺろりと三つ食べ終えた三郎太だったが、万寿丸はずっと手のひらに乗せられた四つの環餅を見つめていた。
「かぶりつけばいいんだよ。けっこう腹持ちするからな」
食べ方がわからないのだと思いそう言ったのだが、万寿丸はいっこうに食べようとしない。嫌いだったのかな。
「どうして、薄様と環餅をあの者は交換したのじゃ?」
素朴な疑問。
三郎太は万寿丸にわかりやすいようにと考えながら答える。
「それだけの値打ちがあるからさ。万寿丸は紙を使いたい時に使うだろ? ちょっとした用件でも文を書いたり、間違えてもすぐ燃したりできる。でもここに来る連中にとっては紙は貴重品なんだ。俺達が自然に使ってるものでもそういうものは多いんだ。‥‥‥例えば毎日使ってる櫛。お前も持ってるだろ?」
こくりと万寿丸はうなずく。
「お前の櫛ひとつあれば、たぶんあのかごに盛ってある環餅全部と交換できるな」
小さなかごにおよそ二十個は入っていただろうか。そのかごが何個か並べられ足りなければ随時揚げていくのだ。
「もっと多く交換できるかもしれない‥‥お前が持ってる櫛全部と環餅や煎餅を交換すればあのおやっさんは当分の間、暮らしていける。でも、だからといってお前が店の菓子全部とありったけの櫛を交換してくれと言ってもあのおやっさんは承諾しないぜ」
「どうしてじゃ?」
「確かに断った直後はどうしてこんな美味しい話を断っちまったんだろう。って後悔するだろうけど。でもあのおやっさんは市で買ってくれる人たちのために菓子を作ってる。一日に売れるのはほんの少しだろうけど、それでなんとか生活してる。いつも買ってくれるとは限らない素姓のしれない貴族の客よりもいつも買っていってくれる固定客を選ぶ。そういうこと」
「‥‥どうして、お金を使わぬのじゃ?」
「金なんて大抵のやつらはもってねえよ」
三郎太は息を吐き出すように笑うと、言葉を続けた。
「それに金の価値なんてすぐ変わる。もしかしたら次の日にはただのかたまりになるかもしれない。そんな危険をおかすくらいなら日常品や食糧と交換したほうが利口だ」
「そうか‥‥‥」
ある程度納得がいったのだろう。万寿丸うなずくと「いただきます」とつぶやいて環餅にかじりついた。ゆっくりゆっくりと噛み締めるように食べる。
「さっき言ったこともそれと同じだ。自分でなんとかできる連中を、事情もなにも知らない‥‥‥ただ金持ちの家に生まれたっていうだけで生まれてこのかたずっと贅沢をしてきた奴が助けようたって上手くいきっこない。助けられた奴も、また助けてくれるだろうって甘えてぐうたらになるか、馬鹿にするなって怒るだけさ」
三郎太は苦い記憶を飲み込むようにしながらつぶやいた。
昔、仲間に仕事を紹介しようと親切で申し出たのに馬鹿にするなと怒鳴られたことがある。その時はせっかくの親切を断るなんてと憤慨したが、今なら相手の言い分もわかる。なにも知らない自分が申し出ることではなかったのだ。それは相手から見れば侮辱と同じ行為だということにあの時の俺は気付かなかった。
「今みたいにさ、わからないことがあったらなんでも聞けばいい。答えられることには答えるから」
環餅を美味しそうに食べる万寿丸を見つめながら三郎太は言った。
無心に食べる少女を見ながら思う。どうも万寿丸といると自分はいろいろ喋りすぎるようだ。三郎太は首筋をぽりぽりとかきながら苦笑した。
貴族と庶民の世界はあまりにも違う。
初めて外に飛び出した時にはあまりの衝撃でいろいろ考えずにはいられなかった。
どうして着ている服が違うのか? 食べるものが違うのか? 屋根の無いところに住む者がいるのか? 疑問はあまりにも多すぎた。
だがしばらく遊ぶうちに肌で理解した。
その差とは、もちろん生まれた家の差もあるが、その子の肩にかかる責任の多さに比例するのだ。
貴族はたくさんの衣類を身につける。例え暑い夏といえ、肌をさらすことはできない。それと同じようにいくら苦しくても、責任を脱ぎ捨てることはできない。
脱ぎ捨てるのならば、たくさんの衣類、高価な調度、豊かな食事などの貴族としての日常全ても脱ぎ捨てなければならないのだ。
その責任とは‥‥‥出世すること。家を繁栄させること。家柄の良い姫君と結婚すること。位階が上の貴族と懇意にすること。それも決して権力争いに巻き込まれないように、もし巻き込まれても必ず勝者の側にいられるようにすること。
なかには貴族であることを当然のように思い、遊び暮らすうちに財産を使い果たすまぬけもいるが、そんなまぬけはたいてい財産を使い果たす前に強盗に身ぐるみをはがされたり親戚にだまされて邸宅を追い出され、のたれ死ぬのが関の山だ。
貴族といえ恋や管弦にだけうつつをぬかして生きていくことはできない。
家でも、御所でも責任のがんじがらめだ。 だからもう少し遊んでいたい。
大人になんてなりたくない。子供のままでいられるならどれほど素敵だろう。
それでも、いくら三郎太が拒んでも、時は流れ、季節は行き過ぎ、体が成長して、大人になってしまうのだ。
でも、いつの間にか、三郎太は決意していた。貴族の家に生まれたのだから、貴族として生きてみよう。
たくさんの人間を養う者として、多くの責任を甘んじて受け、自分のすべきことを果たしていこう。
貴族でなくなることは簡単だ。家を出ていけばいい。そうすれば特技もなにもない自分は盗みを働くか人を脅して生活していくのだろう。だが、自由だけはある。しかし責任を放棄するつもりはない。
ただ、もう少し甘えていたかった。
だが、父はこの少女を俺に預けた。
父から見れば俺はただなにも考えず甘えているだけに見えるのだろう。大人になれという、無言の請求なのだろう。
「ごちそうさま」
考えが中断された。隣の少女は両の手のひらを合わせつぶやいていた。そして自分に期待の眼差しを送る。
「次はなにをするのじゃ?」
父がどう思おうと勝手だ。俺はこの少女と遊べと言われたのだ。なら遊ぼう。
三郎太は素早く思考を切り替えると、西の市から程近い遊び場を思い浮かべた。
「寺に行くか」
「説法を聞きに行くのか?」
「そんな真面目なことするもんか。もちろん遊ぶためさ」
三郎太はにやりと微笑むと立ち上がった。
万寿丸の手を取り、立たせて砂を払ってやる。先の不安等、その先が来てから悩めばいい。
まだ自分は子供なのだから。
遊べばいい。
二人は手をつないで駆け出した。