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桃の香の消える時-2-








 翌朝、目覚めると隣家から読経が聞こえてきた。不思議に思い御簾をあげてみると顔を洗うための角盥つのだらいを持ってきた女房がいた。

「お隣はどうしたんだ?」

「‥‥‥それが三の姫様に物の怪が憑かれたとかで明け方近くから騒ぎ出していて」

 絶句した。

 昨夜は疲れていて部屋に戻り、床に入ると泥のように眠ってしまったため全然気がつかなかった。

「急に髪を振り乱されて、出家すると騒ぎ出したそうなんです。最初はご結婚を嫌がってと誰もが思われたそうなのですが、どんどん鬼女きじょのような面相になられて‥‥‥陰陽師が占われたら物の怪が憑いているのわかったそうなんです‥‥‥‥物の怪憑きの姫だったなんて本当にご結婚されなくてよろしかったですわね」

「‥‥‥‥そうだな」

 感情を出さないようにして女房に答える。

 そのまま角盥を受けとって部屋に戻る。

 角盥の水をこぼさないようにするのが大変だった。

 なんとか床に置くと体を折り曲げて笑いをこらえる。

 花梨の考えとは自分を物の怪憑きの姫と思わせることだったのだ。

 陰陽師‥‥‥内大臣家で呼ぶ陰陽師なら実直さねただだろう。彼が協力したということは、内大臣もその噂を立てることを承諾したということではないだろうか。

 病で寝込んだり、急に暴れ出したりすると普通は物の怪が憑いたと思い加持祈祷や読経の力でその物の怪を退散させる。

 けれど上手く退散させることができればいいが、もしできなければ物の怪が憑いていると悪い意味で特別扱いされる。

 誰それが物の怪に憑かれたという噂は下手すると風より早く京師みやこ中に広まる。特に女性はこういう身分の上の人の周りに起こる醜聞が大好きなため、その早さは留まるところを知らない。

 さらにその噂に尾ひれ背びれが付く。最初は小魚だったのに、あっという間に鮫より大きくなる時さえある。 笑いをこらえるのが大変だった。

 もし女房に聞かれれば基嗣が笑っていたということもあっという間に広がるだろう。

 人の噂が一番タチの悪いものだ。

 剣で切ることも水で流すこともできない。

「基嗣! 起きてるか?」

 盛義の声だ。御簾をあげると庭に彼が立っていた。

「盛義‥‥‥どうしたんだ?」

「殿がこれを、お前にって‥‥」

 白い紙に包まれた薄く細長いものだった。

 包みを開いて中身を見た途端、基嗣は慌ててもとに戻した。

「これ‥‥‥内大臣殿が?」

「なに変な顔してんだよ。いいか、言われた通りに伝えるからな。『それをそなたが好きなところに埋めるといい。その場所によっては三の君とのこと再度考えても良い』以上」

「‥‥‥‥‥‥中味‥‥‥見たか?」

「そんなことするわけないだろ?」

 盛義が胸を反らせて答える。主人の文や届け物を勝手に見るようでは従者失格だ。

 めまいがした。

 基嗣は首筋をなでる。

 どうすればいいのか、まるでわからなかった。

「昨夜、中務卿宮なかつかさきょうのみやが襲撃されたの知ってるか?」

 突然の問いに動揺した。上手く知らない振りをしなければ‥‥‥

「そ、そうなのか?」

 盛義は勤めて平静に答えようとする基嗣を見てぷっと吹き出した。そして囁くような小声になる。

「基嗣は本当にすぐ表情に出るな‥‥‥大丈夫だって。俺はお前がやったってこと見て知ってるから」

 目を見開いた。

 見て知っている?

「俺もいたんだぜ。同じ目的で」

 あっけらかんと告げる盛義の顔を、穴が開くのではないかというくらい、じっと見つめる。

「殿は娘に甘いからな」

「‥‥‥ああ、本当だな」

 知らずの内に口元に笑みが浮かぶ。

 娘の心内など知らぬという態度をとっているのに、いざとなると部下に盗賊を装わせてまで娘の意と異なる縁談をつぶそうとするとは‥‥‥こんなふうに内大臣に花梨が大切に想われているのを知ると、余計に駆け落ちなどできない。

 なにもかも捨てて二人で‥‥‥といえば聞こえはいいかもしれないが、そんなのは現実から逃げているだけだ。結局、誰も幸せにならない。

 がむしゃらに頑張れば叶わぬことではないのだ。

 基嗣は白い紙に包まれた『呪符』をそっと懐にしまった。

 ‥‥‥でも、どこに埋めろというのだろう。

 盛義が帰った後も、基嗣はずっと考えていた。部屋の中にごろりと転がる。

 格子のように組み合わされた天井を見つめながら考える。

 呪符とは普通、呪いたい相手に使う。

 死ねばいいと思うほど憎んでいる相手の床下や天井や庭に隠すのが普通だ。

 でもこの呪符を普通に使うのであれば基嗣に頼んだりはしないはずだ。

 前に実直が言っていたはずだ。

(内大臣殿だけが、物の怪やまじない、陰陽道自体を心の中では信じておられなかった)

(内大臣殿は見たことはお信じになりますがどちらかというと物の怪を利用した政略のほうが周りを飛びかっているため、物の怪そのものをとても懐疑的にごらんになります)

 信じていないものを埋めてこいという。

 基嗣は目を閉じる。埋めるべき場所の見当がついた。

 けれど本当にそこでいいのだろうか。

 違う場所なのかもしれない。

 悩みながらも、昨夜の疲れが残っているのだろう、基嗣はうつらうつらとしていた。

 不意に意識が戻った。息ができない。

 苦しくて飛び起きると目の前にみづらに結い水干を着た花梨がいた。

「おはよう」

「‥‥‥花梨」

「手伝いに来たの‥‥‥だってわたくしたち二人の問題でしょ? 基嗣一人で抱えるのはずるい」

 ずるいと言われても、好きで抱え込んだ問題ではない。

 基嗣の表情を見て花梨はそっと舌を出す。

「なんてね‥‥‥もう答えは出た? まだだったら一緒に考えましょう」

 ゆっくりと起き上がり花梨の黒目がちな瞳を見つめる。

 見当をつけた場所を言う。

御匣様みくしげさまのご寝所の下にしようと思う。花梨はどう思う?」

 大きな瞳を見開く。

 なにか言おうとして、口を開きかけたが、なにも言わないまま考え込んだ。

 ややしてから顔を上げた。

「理由を聞かせて」

「‥‥‥賀茂殿に聞いたんだけど、内大臣殿は物の怪や陰陽道を信じていらっしゃらない。この呪符を使って、きっと誰かをおとしめたいのだと思う。これが出てきたら大変な場所で効果的に反対勢力の力をそぐことのできる場所じゃなければだめだ」

「それが御所の夕星姉様のところだと言うのね?」

 花梨の質問に基嗣はただ黙ってうなずく。

 自分の娘に呪符を使う父親。花梨から見れば内大臣はそう見えるだろう。たとえいくら信じていないといっても呪符を埋めるのだ。夕星の身になにか起こるかもしれない。

 見えないから信じることをしない。ならば見えれば信じるということなのだろう。

 しかし見えると見えないの境界はどこになるのだろう。

 世の中には生まれつき目の見えない人がいる。けれどその人が見えないから空の色が青ではない、と言ったところで誰も賛成はしないだろう。

 けれど、他の目が見えていると自称している人たち全員に空の色は同じに見えているのだろうか。

 そのうちの何割かの人には空の色は紅に見えているかもしれない。だが紅を小さい頃から青と言われてきたため青と信じているだけなのかもしれない。

 物の怪だって本当はいるかもしれない。

 基嗣も今まで見たことはないけれど、だからといって物の怪や怨霊や陰陽道や不可思議な現象全てを否定することはできない。

 できることなら自分だって見てみたい。

 物の怪がいるのなら一度話をしてみたい。

 そんなふうなわずかな、いるかもしれないという気持ちが本当に御所の夕星のところに埋めていいのだろうか? と基嗣を躊躇させるのだ。

 もしいれば、夕星を危険な目に合わせるかもしれない。

 もしいれば‥‥‥というのはいたらいいなに似ている。『かも』という気持ちには『いたらおもしろい』のにという気持ちも混ざっているものだ。

 花梨にはこれほど甘い内大臣殿なのだ。夕星のことも大切にしているはずだ。なのにこんな危険なものを彼女の近くに埋めていいものなのだろうか‥‥‥

 だからこそ、ここだと決断できない。

「そうだと思う」

 どうしても最後に、思うと付いてしまうのだ。

「わたくしもそう思う」

 花梨は胸元に流れるつややかな黒髪を指に取るとからませる。

 花梨も今一つ自信がないのだろう。

「御所に行こう。‥‥‥‥だめだったら駆け落ちだ」

 いくら考えても、他の場所が浮かばないのだ。考えるだけむだなような気がした。

 着替えて外に出るともう夕暮れを過ぎていた。空はすっかり暗くなり、気の早い星がもう瞬いている。

 御所に向かう途中の大路で実直が一人立っていた。基嗣と花梨に気がつくとにこやかな表情で片手をあげる。

「こちらにいらしたということは、もう答えは決まったのですね?」

 実直の問いに基嗣は困ったように苦笑すると「私達の回答が正解とは限りませんが‥‥‥」と答える。

「前に私と内大臣殿との関係を話した時のことを覚えてらっしゃれば、正解はおのずと導き出されるものです」

 そのままのどかに今咲き初める花々の話をしながら御所に向かった。

 とても今から呪符という物騒なものを埋めに行くとは思えない。

 そのうち、三人の話題は昨夜のことになった。

「最初、ずっと塗籠ぬりごめに立てこもってたんだけれど、基嗣が追い払ってくれたでしょ? すごくほっとした」

「それにしても昨夜の三の姫様の迫真の演技は見事でした。嘘だと知っていてもだまされそうでしたよ」

「そう? 立てこもってたら女房達が騒ぎ出してしまったの。そうしたらお父様がみえて内緒で前から言っていたことを実行して良いって仰るから遠慮なく暴れただけよ。そしたら物の怪が憑いてるってさらに大騒ぎ」

「前からって?」

「お父様にことあるごとに、基嗣とのこと許してくれなかったら、暴れまくって物の怪付きの姫だって噂をまき散らします! って言っていたの」

「三の姫様‥‥‥それは説得とは言わず脅迫と言うのでは‥‥‥」

 実直の意見に同感だった。

 今日はさやかな月明かりで、松明たいまつがなくても大丈夫だった。

 基嗣は御所まで後少しというところで、なんとなく後ろが気になり振り返る。

 変だった。

 ――― 空が異様に明るい。

 御所の方向とは正反対、南の空がまるで太陽がそこから顔を出したかのように真っ赤に染まっていた。

 三人とも立ちつくす。

「火事だ! 火事だぁ!」

「東寺が燃えてるぞ!!」

 東寺?

 その言葉に実直の表情が変わる。いつもの微笑みは影をひそめ、今は驚愕の表情が浮かぶだけだ。顔色が蒼白だ。

「賀茂殿」

 声をかけようとしたがもう実直はいなかった。

 人間業にんげんわざとは思えない跳躍で南に、東寺に向かう。あっという間に実直の姿は見えなくなる。

「基嗣、わたくしたちも行こう」

 花梨が袖を握り、必死な顔をする。

「火事だ! また火事だ! 今度は御所で火事だぞ!」

「蔵が燃えている!」

「逃げろ!」

 今度は御所のほうまで明るくなった。近いため逃げ惑う人々の悲鳴や、叫び声が聞こえる。

「花梨、お前は賀茂殿を手伝いに行くんだ‥‥‥俺は御所に向かう」

「基嗣!!」

 花梨が叫ぶ。

「どうして? わたくしたち、あんなに賀茂殿にお世話になったのよ? 今、手伝わないでどうするの?」

「あの早さで駆けつけた賀茂殿が救い出せなければ俺たちが着いたところでもう間に合わないよ‥‥‥それに俺たちの問題だって今が絶好の機会なんだ」

 基嗣は唇を噛み締めた。

「今なら御所は混乱している。隠れて埋めることも普段より容易だ‥‥‥だけどこの機会を逃したら検非違使の警戒も強まる。その分俺たちが近付くことも難しくなる」

 基嗣は自分が今、人としてとても冷酷なことを言っているのはわかっていた。

 あれだけ実直に親切にされながら恩を仇で返そうとしているのだ。恩人の危機を見捨てようとしている。

「俺はこういう奴なんだ‥‥‥花梨が幻滅したというなら、この呪符を捨ててくれ」

 懐から白い紙で包まれた呪符を取り出す。

 そして花梨に差し出す。

「‥‥‥ずるい。そう言って結局はわたくしに選ばせようとするなんて‥‥‥」

 花梨のその言葉に基嗣は動揺する。

 そんなつもりではなかった。

 でも、基嗣は人道に反することをしようとしているのだ。花梨が軽蔑して、嫌っても仕方ないと思ったのだ。もう婿になんてしたくないと思ったのならはっきり言ってもらいたかった。

 だから呪符を差し出したのだ。

「そういうつもりじゃ‥‥‥ただ‥‥‥俺のこと嫌いになったのなら‥‥‥遠慮しなくていいから‥‥‥」

 言葉をつまらせながら基嗣が答える。

 花梨が悲しそうな痛そうな、今にも泣き出しそうな笑顔を浮かべる。

「嫌いになんて‥‥‥なれるわけないよ」

「じゃあ、二人そろって人非人にんぴにんになろう」

 こくりとうなずくと、二人は手を取り合って走り出した。泣き叫び、逃げ惑う人の波をかき分けるようにして、夜中なのに明るく輝く御所に向かって‥‥‥








 東寺の炎はすでに消火されていた。

 東寺の上空に急に雨雲が集まり、雨が激しく降り注いだのだ。

 実直が日頃から懇意にしている竜神の力だ‥‥‥神々と呼ばれる怪たちは普段はなにもしない。ただ自分が自分であるだけにしか動かない。

 けれど心からの願いなら聞き届けてくれる時がある。だから異常な大火にもかかわらず消火が早かったため、燃えたのは東寺の敷地内だけだった。

 でも桃里とうりを救い出すことはできなかった。

 実直が着いた時にはすでに奥の院は火の海だった。燃え盛る炎の中に飛び込み彼女を助け出そうとしたのだが、できなかった。

 桃里が全身全霊を込めて実直の動きを止めたのだ。

 実直はただ、見つめるだけだった。

 竜神が実直の心の叫びに感応して助けに来て雨を降らせてくれたが、火の勢いは激しく桃里が燃えつきる前に消火することはできなかった。

 比翼ひよくの鳥、連理れんりの枝と互いに誓いあった仲だった。それなのにその相手が燃えつきるのをただ見つめるしかなかった。

 実直はなにもすることも出来ず、後を追うために飛び込むことも出来ず、ただ大切な人が燃えつきるのを見つめていた。最後の最期で桃里は残酷な仕打ちをする。

 本当に私のことを想うなら、なぜ後を追わせてくれないのだ。

 流れる涙をぬぐうこともできず、ただ実直は立ちつくした。

 ――― やっと体が動くようになったのは完全に桃里が燃えつきた後だった。

 桃里がついさっきまでいた場所に近付く。

 もう彼女の影かたちもなかった。

 実直はその場にくずれ落ちた。

 こんなことならもっと早く、盗み出せば良かった。

 人間のやり方にこだわらず、彼女を連れ出せば良かった。

 たとえ、どれだけの犠牲が出てもかまわなかった。

 彼女と無事に鏡の森に帰ることができれば‥‥‥



 後悔だけが残った。



「桃里‥‥‥桃里‥‥‥」

 実直の呼びかけに、一瞬だけ焼け跡のこげ臭い匂いが桃の香に変わった。

 けれど、その桃の香はすぐに消えてしまった。何度呼びかけても、もうだめだった。

 実直の心を捕らえていた桃の精はもうこの現世うつしよにはいないのだ。

 桃の香は消えた。永久に。

 実直ひとりを残して。

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