フィルマンの反省
フィルマン・ド・ル・テリエは自分のデスクに腰を下ろすと、ふうと息を吐き出した。
大きく重厚なつくりのデスクは、この会社を立ち上げた学生時代になけなしの金で買ったものを今でも愛用している。
PCの電源を付けて起動中の画面を前に肘をつき、組んだ手の上に額をのせる。
午前中は休みを取って、今しがた出勤してきたというのに、フィルマンはすでに疲れていた。
アキミツ・ヒシイ。
彼との短いティータイムによって、フィルマンの神経は摩耗してしまったのだ。
元来、フィルマンはお喋りが嫌いではない。パーティーなどで初対面の相手とでも、それなりに楽しく話せる自信があった。
しかし、彼は・・・と、脳裏にあの黒猫のような男を思い浮かべた。
よく回るロが、何かを言い出すたびに身構えねばならない。
その唇から素早く無数に発射される銃弾が、娘を撃ちぬいてしまうのではと冷や冷やしどおしだった。そして実際に何発かは彼女の心臓に撃ち込まれたことを思い返し、眉間の皺をこする。
まさかあのララが。
陽気な春の精もかくやという自慢の娘が。
人に水をぶっかけるような真似をするなんて。
青ざめた娘の顔を思い出すと、また知らず知らずのうちにため息が漏れた。
コンコン、という軽いノックの音が、フィルマンの意識を現在へと呼び戻す。
顔をあげれば、透明なガラス戸の向こうで笑顔の男が手を振っていた。
返事も待たずコーヒー片手に入って来た男は、ダニエル・ド・バイエだった。
彼はこの会社の共同経営者であり、フィルマンの学生時代からの悪友でもある。
ニヤニヤとした笑みを隠そうともせずにデスクまでやってくると、明らかに不機嫌な顔の友を楽しそうに観察する。
「で、どうだったんだ」と短い質問が投げられる。
今日、ケイの幼馴染と会うことは彼に伝えてあったのだ。
彼の問いかけは心配などではなく、完全な好奇心からきていることを長い付き合いのフィルマンは知っている。
「どうもこうもない。最悪な男だったよ」
「ほう」 とダニエルは眉を上げる。
フィルマンが口に出して人を悪く言うのは、珍しいことだった。
「頭でっかちで偏屈で嫌味しか言わない。あんな日本人は初めてだ。まったく時間を無駄にした」
フィルマンは立ち上がり上着を脱ぐと、苛立った仕草でコートスタンドへとかける。
「ふーん。で、顔はどうなんだ」
「顔?」
「大事だろ。ケイの友人なら、やっぱり綺麗な子だと思うんだが」
お前はそういうことにしか興味がないのかと、フィルマンは眉をしかめる。
来年からこの会社で働く予定だったケイは、何度か挨拶と下見に訪れていて、ダニエルとも顔見知りだった。
「顔は・・・」と、フィルマンはアキミツを思い返す。
しっとりと、手触りの良さそうな黒髪。
日本人にしては白い肌。
知性を感じさせる整った眉に、強い意志をたたえた猫のようにぱっちりとした瞳。小ぶりな唇は、挑発するように微笑む。
手足はすらりと長く、均整のとれた体つき。
上から下まで思い出していけば、やはり彼は外見だけなら非の打ち所がないように思えて悔しかった。
けれどそれを口に出して認めるのもしゃくで、ダニエルの質問を無視して逆に彼へ問いかける。
「なあ、お前から見て、ケイはどんな人間だった」
「はあ?」
今度はダニエルが怪訝な顔をする。
「おい、どうしたんだよ。その日本人に何を吹き込まれた」
ダニエルの反応は大げさで、フィルマンには理解できなかった。
「なぜそんなに驚くんだ。私がケイのことを聞いちゃいけないのか」
言いながら、フィルマンはまた椅子に腰かける。
ダニエルはマグカップをデスクに置くと、椅子の前へと立った。
両手を椅子の背もたれについて腕の中へフィルマンを閉じ込める。そうして体重をかけるものだから、背もたれごとフィルマンの上半身がぐぐぐとのけぞっていく。
「お前はその日本人に会って、ここ半年の記憶を失ったのか。お前がケイを憎んでいることなんて、俺だけじゃない、オフィスのみんなが知ってる」
フィルマンは言い返せずにタラりと汗をかいた。
「ケイが生きていたときでさえ、本人を前にしても不機嫌さを隠さなかった。死んだあとなんてなおさらだ。そのお前が、自分からケイのことを話し始めるとは」
ダニエルがパッと背もたれから手を離せば、フィルマンの体は反動でぐいんと前に揺れた。
「たしかに大人げなかったことは認めよう。しかし、一人娘の父親なら誰だってこんなものだ」
フィルマンはちょっと保身の入った言い訳をした。
「別に、いまさらお前のケイへの態度になにか言いたいわけじゃない。むしろそんなお前がたった一日で変わるほどの、どんな会話をその日本人としてきたのか。それが純粋に気になるね」
ダニエルは自慢の顎をさすりながらニヤニヤ笑う。
フィルマンは「う・・・」と言葉につまった。
ケイの指輪のことまで話してしまうのはさすがに気がとがめた。
「会ってみたいな、その日本人に」
「おい」
何を言い出すのかと、フィルマンはぎょっとしてダニエルを見た。
「お前をてこずらせるほどの、気性の荒い美人なら、ぜひ俺もお目にかかってみたいもんだ」
ダニエルは長い睫毛をうごかしてパチンとウィンクした。
「美しいとは、言っていない」
「さっき否定しなかったのがなによりの証拠だ。次はいつ会う」
「もう会わない」
フィルマンは言い切った。
実際、もう会いたくないというのが本音だった。
しばし二人の目線は交錯した。
さきに目をそらしたのはダニエルだった。
「わかった、わかった。諦めるよ」
そう軽くいなして、入ってきたときと同じように軽い足取りで彼は去っていった。
今のやり取りで疲労がさらに積み重なった気がして、フィルマンは椅子の背もたれに背中を預けきった。
そうして自分を反省した。
ダニエルの言う通り、自分がアキミツに会ってからおかしな風に変わってしまったことを認めなければいけなかった。
昨日までのフィルマンは、オフィスの誰かがケイの話題を出そうものなら許さなかった。
ひと睨みをきかせてその話は終わりだと、無理に打ち切らせた。
今日、ケイの幼馴染と会うことをダニエルに伝えたのだって、あまりに気乗りしなくて愚痴っぽく口にしてしまったに過ぎない。
だというのに。
指輪なんてどうでもよかったはずの自分が。
アキミツに会った途端に、渡したくないと180度考えを変えられてしまった。
ケイのことなど忘れてしまえばいいと思っていた自分が。
わざわざダニエルに、彼はどんな人間だったか聞くなんて。
それもこれも、あのアキミツという人間がこちらの神経をうまいぐあいに逆なでし、調子を狂わせる天才だからだ。
ダニエルに指摘されてよかった。
自分を思い出せた。
やはりもうケイに関することなど、遠ざけるべきだ。
明日だって、フィルマンはララのことがやはり心配で、付いて行きたい気持ちがわずかに残っていたけれど頭を振って自分を戒める。
ララがフィアンセであったケイをまだ追い求めてしまうのは仕方ない。
逆に父親である自分はしっかりと、もう忘れていいのだと言い続けてやらなければ。
一緒になってケイの幻影を追いかけてどうするのだ。
明日はどっしり構えて仕事に集中しようと、フィルマンは亡き妻に誓った。
ところが次の朝、出社すればダニエルはララとデートのため休みだと聞かされて、慌てて予定を調整し二人の後を追ってケイの家へ向かうのだった。