ルビーの指輪
男はこの国で日本人の両親と暮らしていた。その一軒家の自分の部屋で、薬を大量に飲んで死んだという。
机の上には丁寧に折りたたまれた遺書があり、短い謝罪の言葉と共に遺品をどう整理してほしいかだけが書かれていたと聞く。
そこには男がなぜ死を選んだのかは、書かれていなかった。
フィルマンは男の死を悲しむよりも、娘を悲しませたことへの怒りに震えた。
葬儀の場でも、男への呪いの言葉を心の中で吐きつづけた。
世間でよく言われるように、娘の結婚を簡単に許すべきではないと身をもって知った。
こんなことになるのなら、いくら娘を泣かせようとも何度でも反対すべきだったのだ。あのとき簡単に許した自分を責めながら、後悔の日々を過ごした。
式場のキャンセルや、招待客への断りはすべてフィルマンが済ませた。
ララはそんなことができる状態ではなく、何日も何日も泣き暮らした。
食も細り、骨が浮き出た腕を見れば、フィルマンは心臓が掴み出されるかと思うほどの痛みを感じずにはいられない。
そんな苦痛を自分たち親子に味合わせた男を、決して許さないと誓った。
男の死から二週間が過ぎた寒い日に、居間で書類を読んでいるフィルマンのところへララがやってきた。
彼女が部屋から出て家族団らんの場所へ姿を現すことも久しぶりで、フィルマンは嬉しさを隠しながら迎える。
カシミヤの黒いセーターに黒いパンツ姿の彼女は、革のソファに腰かけるフィルマンの横へちょこんと座った。
「お腹が空いてないかい。ホットミルクでもいれようか」
パチパチと暖炉が音を立てながら部屋を暖めている。
ララは小さく首を振った。
憔悴しきったその表情からは、みずみずしい若さが抜け落ちてしまっていた。
フィルマンはしばらく何もせずに、両手を組んで様子を伺う。
そのまま10分ほどが過ぎてからようやく、ララは重い口を開いた。
「あのね、パパ。ケイのご両親が、形見分けをしたいと連絡をくださったの」
ケイ、というのが娘の婚約者だった男の名前だ。
ケイ・ユウキ。
フィルマンにとっては、もはや忘れてしまいたい名前だった。
「それで、私にくださる品物をメールしてくださったのだけど、そこに、ないの」
「なにが、ないんだい」
フィルマンは努めて優しく聞いた。
「彼の指輪よ。彼が、おばあちゃんから貰って、私にくれるって言ったルビーの指輪。それが、私に渡すものの中に入っていなかったの」
フィルマンは、わずかに目を見開いた。
その指輪の話は、婚約するときに娘から聞かされていた。
婚約指輪をどうするかという話になり、ララはケイが持つルビーの指輪をねだった。
しかし彼にしては珍しく、ララのお願いを断ったのだ。
それは結婚指輪にするつもりだから、婚約は新しい指輪を買おうと言って。
ララはちょっとふてくされたが、「じゃあ結婚式までお預けね」と笑って済ませた。
それが、彼の記した遺言書によると、ララへの形見に無いと言うのである。
なんということだ。
理解したぞ、とフィルマンは思った。
つまりあの男は、本当はララを愛していなかったのだ。
ララとの結婚の話を進めながら、その一方で別の人間に思いを寄せていた。
二人の人間の間でどうにもいかなくなって、命を絶って逃げたのだ。
ルビーの指輪をララに遺さなかったのは、男の愛がララには無いことの証拠だ。
それ以外に考えられない。
腹の底からふつふつと、死んだ男への怒りが再び湧いてきた。
しかしフィルマンはそれを押し隠して、できるだけ優しくララへ問いかけた。
「それでは指輪は、彼のご両親が?」
きっと違うと確信がありながら、あえて娘を傷つけないためにそんな言い方をする。
案の定、娘は悲し気な表情のまま、ゆるく首を左右に振る。
「聞いたの、わたし、彼のご両親に。そしたら、日本にいる幼馴染にって、遺書にはそう書かれていたって」
言葉の最後の方、ララの目からは美しい涙が流れた。
フィルマンは組んだ両手にぎゅっと力を入れた。
爪が皮膚に食い込むのも気にならない。
それほどに激怒していた。
結婚指輪にすると約束した指輪を、結婚式の一か月前に自殺し、あまつさえ別の人間に遺すとは。
これはララへの侮辱だ。
酷い男だ。
可哀想に、ララ。騙されたのだな。
だが結婚より前で良かった。
今となってはそう思うほかに救いがない。
「そうか、ララ。私のララ。可哀想に。残念だが彼は、君の真心にふさわしい男ではなかったのだ。傷ついただろうが、そういう男だとわかって良かったと思うよ」
フィルマンは手で彼女の涙をぬぐってやる。
「違うわ、パパ!」とララは勢いよく顔を上げた。
娘のこんな大きな声も、しばらく聞いていなかった。
「ケイはわたしを愛してくれた。今だって疑ってないわ」
ララは誇り高くそう言った。
フィルマンは、いつの間に娘はこれほど大きくなったのだろうかと思い知る。
自分の中では、今でもよちよち歩きの可愛い女の子のままなのだ。
「彼にはきっと何かそうする理由があるんだわ。でも、彼の指輪は本来ならばわたしが貰うものだった。それも、本当よ」
娘が何を言おうとしているのか、先が読めないフィルマンは黙って聞き耳を立てる。
「だからわたし、彼のご両親にお願いして、その幼馴染がフランスに来る日を教えてもらった
の」
「なんだって」
「会って、確かめたいの。なぜわたしではなく、その幼馴染の人が彼の指輪を受け取るのか。本当に彼の指輪を持つにふさわしい人なのかを。でないと、納得できないわ」
「ララ」となだめるようにフィルマンは言う。
しかしこれで娘が大人しくなった試しなどないとわかっていた。
「来週からの一週間、パリに滞在するそうよ。二人の大切な指輪を持つ資格がその人にあるのか。もしそうでないなら、渡したくない」
ララは細い足の上に置いた両手をぎゅっと握りしめた。
「ララ」とふたたび、意味のない呼びかけをする。
「だからね、パパ」
と、やはりフィルマンの声を無視した娘は腕に縋り付いてきた。
「一緒にその人に会ってほしいの。わたし一人では、不安なの」
ぐう、とフィルマンの喉が鳴る。
叶うならばあんな男のことは一日も早く忘れてほしい。
せっかく娘のために時間を作るのなら、その指輪のことも記憶から消し去って、前から娘が行きたがっていたレストランのディナーにでも行きたいくらいだ。
しかし、フィルマンにしても、多少の興味はあった。
ララは娘だと言うことを差し引いたって、非の打ち所のない女性だ。
幼さや我がままなところも、彼女の手にかかれば愛嬌へと姿を変える。
亡き妻と同じように、多くの人から愛されている。
そんな彼女をこうまで手酷い形で裏切って、二人の愛の証にするといった指輪を、彼はいったいどんな相手にあげるというのか。
一目、その相手を見る権利は自分にもあると、フィルマンは思う。
「・・・わかった。一緒に、会いに行こう」
重々しい声で了承したフィルマンに、ララが飛びつく。
男が死んでから見ることのできなかった笑顔がそこにはあり、フィルマンはそれだけで自分の決断は正しいのだと思えた。