父と娘
フィルマン・ド・ル・テリエは、愛した妻の忘れ形見である娘を宝だと思っている。
もはやこの世でたった一人、血のつながりのある肉親だ。
可愛くないはずがない。
学生結婚と同時に身ごもった妻は二十歳のとき、一歳の娘を残して病で亡くなった。
天真爛漫な美しい女性だった彼女は多くの男から求婚されたが、その中からフィルマンを選び取ってくれた。
あまりにも幸福だった日々は、あまりにも唐突に終わりを告げる。
彼女を喪ったフィルマンは自死も考えたが、娘の存在が彼を支えた。
それから十八年、父一人娘一人で暮らしてきたのだ。
目に入れても痛くないとは、自分のためにあるような言葉だと思う。
それほどに娘を愛していた。
なによりも娘の容姿というのが、年々亡き妻に似てくる。
緩くウェーブのかかった亜麻色の髪も、小さな肩幅も、すらりと伸びた手足も、フランス人形と形容される愛くるしい顔立ちも。
何から何まで、彼女の生き写しのようで。
娘さえ幸せであれば、それだけで自分も幸せなのだと疑ったこともないし、また実際にそうだった。
そんな彼が、娘ララの幸せを願えなかったことがただ一度だけある。
彼女の結婚だ。
ある日、書斎でPCに向かっていた彼のところへララがやってきた。
いつもなら絶対に仕事の邪魔はしないのに、控えめにノックをして入って来た彼女を無下にはできず「どうぞ」と返す。
PCから目を離さないフィルマンの傍までやって来ると、彼女は細く白い腕を巻き付けて、「あのね、パパ」と小鳥のさえずりのような声で囁いた。
その仕草がまさに、机の上に飾られた写真の中の妻そのもので、フィルマンは苦笑する。
写真の中、眩い光を浴びるスポーツマンらしいブロンドの青年、その青年の肩へ後ろから抱き着く美女の姿が娘と重なる。
三十七歳のフィルマンは、しかし写真の中の青年とそれほど見た目に変化はなかった。
当時は自然におろしていた髪を、今はその役職にふさわしくオールバックにしているくらいだ。
健康そのものだった頬が、悲惨な運命を経て引き締まった分、男前になったと失礼なことを言う輩もいる。
会社の経営者としての凛々しさも加わり、それが彼の内面からにじみ出る魅力を引き立てていた。
独り身として多くの女性にモテながらも、亡くなった妻一筋を貫くフィルマンのことを、ララもまた自慢の父親と思っている。
「なんだい、ララ」
娘には抗えないと仕事用の眼鏡を外し、彼女の方へ顔を向ける。
ララは頬を紅潮させ、恥ずかしそうにもじもじとしている。
なんだか嫌な予感がした。
「パパ、わたし、結婚しようと思うの」
ララは春の妖精のごとく微笑んだ。
その笑顔はまさに花が咲き乱れるようで、この顔を見て落ちない男はいないと評判だ。
一方のフィルマンの顔は、寒冷地帯のごとく青ざめていた。
「私は反対だよ」
相手がどんな男かを聞くまでもなく、間髪入れずにそう告げた。
なにせ彼女はまだ18歳、結婚できる歳になったばかりだ。
先月に誕生日祝いのパーティーを、古城を貸し切って盛大に開いたばかりだった。
あの時の彼女はエンパイア・ローズの生地を使いオーダーメイドしたプリンセスラインのドレスに身を包み、「パパ、これからもよろしくね」と皆の前で可愛い手紙を披露してくれたばかりだと言うのに。
男手一つで育て上げた娘を攫って行くのは、どんな男であっても許容できない。
まだ若いのだから、少なくともあと二年は付き合って、それでも気持ちが変わらなければ結婚してはどうかと、懇切丁寧に説明した。
同じ年で学生結婚した自分たちのことなど、完全に棚にあげて反対に徹した。
けれど結局、男親というのは弱いものだ。
反対されることなど予想してなかったララは、この世の終わりみたいに泣いて部屋に立てこもった。
そうなるともう、今度はこちらが平謝りするしかない。
すまなかった、ララ。父さんが悪かった。まず彼を知ってみようと思う。今度、食事に来てもらったらどうかな。
固く閉ざされた扉に向かって懇願するのに、一日かからなかった。
すっかり機嫌の回復した娘が意気揚々と連れて来た男は、日本人だった。
娘よりわずかに背は高いが、男にしては小柄で細見。
フランス人の自分から見れば、その肩はあまりに頼りなく見えた。
食事の席でのマナーは問題なかったが、常に喋りつづけるそのロは軽薄に思える。
見た目はぱっちりとした二重の女性らしい顔立ちだが、それもまた男らしくなくフィルマンは不満を感じた。
要するに、実際に会ってみればより一層気に入らなかったのだ。
それでも若さが味方する娘の行動力は凄まじく、話はとんとん拍子に進んだ。
あっという間に式の日取りと場所が決まり、衣装が決まり、招待客が決まり、娘夫婦との同居が決まった。
結婚しても一緒に暮らすことだけは、フィルマンには譲ることができなかった。
フィルマンは小さいが会社を経営している。
学生時代に友人と起業してから、それなりに成長させてきた会社だ。
娘の次に大事だと言ってもいい。
その会社を、婿となるその男には継いでもらわねばならない。
だから一緒に住んで、逐一自分の仕事ぶりを覚えっていってもらうのだ。
というのは完全に建前で、愛娘と馬の骨との新生活を認めることができなかった。
娘は最後まで二人だけの愛の巣となる新居を希望したが、男が何年か自分の元で働いて一人前になったら、と言って渋々了承させた。
男の反応は軽いもので、フィルマンやララが何を要求しても二つ返事で受け入れた。
そんな主体性のなさも、フィルマンはまた気に入らなかった。
つまるところは、なんであっても気に食わないのだ。
そうして同居を約束させ、 婚約を済ませ、 結婚式を一か月後に控えたある秋の日に、その男は自殺した。