5月の時計台
短いですが、よろしくお願いします。
自転車のペダルを踏む傍ら、不意に視線を右へと移してみる。
するとそこには、すすけた小さな時計台があった。
「…………」
ほんの一、二秒のことだったように思う。
ただ視界の端で捉えただけ。
それなのに。
胸がじんわりと温もりを持った。
この感情は一体何と呼べば良いのだろうか。
後悔?
懺悔?
いずれにしてもマイナスの感情であるのには他ならない。
「っ……!」
頭を振り、無理矢理視線を元にもどす。
20時をとっくにすぎた公園内は閑散としていて、人っ子一人見当たらない。
…………少し前まで、俺と君はここにいたんだよな。
君は今、何をしてる?
帰ってくるはずのない問いかけを胸の中で反芻させ、深く溜め息をつく。
相変わらず俺は前に進めてないな。
疲れた目を思いっきり閉じ、自宅への道を急いだ。
*****
大学の頃、付き合ってた人がいた。
……少しだけ違うな。
社会人になってからも、付き合いはほんの少し続いていた。
大学1年の頃同じサークルで出会った子で、最初は普通の友達だった。
しかし、サークルを引退し、互いの就活が一段落ついた4年の秋。
俺は彼女に告白し、渋る彼女と半ば強引に付き合うことになった。
結果から言うと、俺は人生で最も充実し、かけがえのない時間を過ごすことになった。
誰か特定の異性と、あれほどの時間を共有したことがなかった。
そして、これから先もずっと一緒に居たいと強く思ったのは初めてだった。
大学卒業までの4ヶ月間。
日々何か大切なものを互いに育みながら、俺達は過ごした。
だからこそ、俺は次へのステップへと進みたくなかった。
ずっと大学生をしていたかった。
彼女とあの怠惰で、甘い生活を送っていたかった。
しかし、そんなことは世界は許してはくれない。
寒々しい季節はやがて終わりを告げ、新緑の芽吹く春がやって来た。
俺は大学時代と同じ街に、彼女は車で何時間もかかる街へと就職をした。
仕方がないことだった。
彼女と付き合いだしたのはお互いの就活が終わってからだったし、就職先を示し合わせて同棲するなんてことは不可能だった。
そんなこんなで、いわゆる遠距離恋愛というやつが始まった。
俺の休日は土日、彼女は不定休の仕事だった。
そんな状況では、いつ会えるかは分からない。
もだえるような感情を抱えながらも働くしかなかった。
彼女とは会えない日々が続いた。
そんな中でも、電話だけは毎日していた。
お互いの仕事が終わってからのほんの少し、状況が許せば二時間近く電話することができたが、そんなことは稀だった。
互いに慣れない仕事で疲れていたし、何よりも生活時間が合わなかった。
「1日5分だけでもいいから電話しよう」
そんな約束を交し、限られた時間の中で言葉を交した。
目の回るような忙しさの中、気づけば夏を迎えていた。
最後に直接会ったのはいつだっただろう。
もう思い出せなかった。
『連休取れそう』
電話口でそうに話す君。
幸運なことに、彼女の口から出た日付は俺も休みだった。
夏も深まり、既に真夏と言ってもいい8月中旬、俺達は実に数ヶ月ぶりに直接会うことになった。
約束の日が近づくにつれて、俺は不安になった。
何を話せばいいのだろうか。
もちろん積もり積もる話はある。
しかし、俺の仕事の話なんてしても彼女はつまらないのではないか?
俺は、どんな風に彼女に接していたんだっけ。
友達時代からカウントすると、彼女とは出会って5年の付き合いになる。
しかし。
直接会っていない期間が長すぎて、彼女への口調やテンションが分からなくなっていた。
電話で話すような感じで良いのだろうか。
彼女と話すのは、こんなに難しいことだったか?
服装は何を着ていけばいいのだろうか。
不安は一日一日を経るごとに強くなっていった。
………なんだか中学生の恋愛みたいだ。
彼女以外に恋愛という恋愛をしたことがなかったため、そういうことへの経験値は皆無に等しい。
もうなるようになれ。
もはや、やけくそだった。
久々に会う彼女は、どこかやつれた様子だったように思う。
仕事の疲れだろうか。
でも、それは俺も同じなんだろうな。
きっと彼女から見たら、俺も生気を失っているように見えていたに違いない。
大学時代は彼女が会話の口火を切っていたため、俺はいつも通りそれを待っていた。
しかし、彼女は一向に自分から喋ろうとしなかった。
俺のぎこちない世間話に相づちをうつだけで、口数自体も少ない。
不思議だった。
こんな感じだったか?
彼女との会話はもっと楽しかったと思う。
付き合った当時もこんなだったっけか?
会話が噛み合わない。
同じ空間にいるのにどこか互いに別の場所にいるような、そんな感覚。
気づけば、俺は彼女との会話を苦痛に感じていた。
別に用もないのにスマホをいじり、時間を潰した。
彼女と会うのは楽しみだった。
正直、待ち焦がれていた。
仕事が始まった当時は、いつ彼女に会えるのか、先の見えない日々に毎日泣いていた。
胸が引き絞られるような感覚を味わいながらも、彼女と別れる未来なんて想像すらしなかった。
いつ彼女の元へと向かい結婚するか、それだけをモチベーションに日々の苦行に耐えていた。
それなのに。
ぽっかりと胸に穴が空いたような感覚。
俺は何のために頑張ってきたんだろう。
こんな空虚な時間を過ごすために、あんな辛い仕事をしてきたのか?
あの日々に意味はあったのか?
彼女も辛いのだと、そう信じてきた。
しかし。
目の前の光景が信じられなかった。
いつかの、あの燃えるような恋に興じる二人はもう、居なくなっていた。
喫茶店を出て、何気なく街をぶらつく。
この街は、大学時代の自分達にとっての思い出の街に他ならない。
だからこそ、俺は辛かった。
働き出して一番辛かったのは、二人の思い出の場所を通ることだった。
二人でバスを待ったバス停。
彼女の住んでいたアパート。
二人で買い物にいったスーパー。
何度も二人で足を運んだ映画館。
そして、四年間通った大学。
ほんの数ヶ月前までは、ここに自分達がいた。
笑いあっていた。
その痕跡を見つけるだけで、涙が滲んだ。
大学の卒業式の日。
そんなことを彼女に言った。
すると。
これからもそんな場所が増えていくと良いね、と笑った――――――――。
しかし、今は。
隣を歩く彼女はどこかつまらなそうだった。
本当は一つ一つ言いたかった。
「ここで雪の中、バスを待ったよね」
「ここのタマネギ安すぎだったよね」
「あの映画、本当につまらなかったよね」
言葉だけが浮かんでは消えてゆく。
最後まで、口からは出ることはなかった。
「…………この公園」
時刻は18時半頃だった。
茜色に染まった公園。
そこで何気なく俺達は足を止めた。
それもそのはず。
その公園は俺が彼女に告白した公園だった。
めぼしい遊具なんてあまりなく、あるのは小さなベンチと見あげるくらいの大きさの時計台だけ。
そんなお粗末な公園で、俺と彼女は結ばれた。
思い出そうと思えば、昨日のことのようだった。
告白したときの驚いたような表情。
躊躇うようなうつむき顔。
そこで俺は二時間近くも粘り、彼女を口説いた。
確かその時も肌寒くはあったが、夕暮れの茜色が俺達を包んでいたような気がする。
「…………時計台だね」
「…………うん」
俺はほとんど直感的に理解していた。
これから俺達はどんな話をするのか。
その結果、どうなってしまうのか。
「別れてほしいの」
単刀直入。
時計台の前で、そう切り出した彼女。
驚きはしなかった。
今日一日の様子で俺は何となく察していた。
なぜならば、今日の彼女は再開に喜ぶ恋人ではなく、いつ別れを切り出すか機会を伺う一人の友達だった。
「…………分かった」
引き留めることはしなかった。
付き合いたての俺ならば、信じられなかっただろう。
彼女と離れることになるなんて。
彼女と、この先同じ未来を歩んでいけないなんて。
職場で好きな人ができた。
彼女は淡々とそう言った。
無感情で俺はそれを聞いていた。
……俺は一体、どうしてしまったんだ。
遠距離が始まった頃は、彼女の口から同僚の男の話を聞くだけで、胸がもやもやして辛くなったのに。
彼女が他の男と一緒に居る、そんな想像をするだけで眠れなくなるほどだったのに。
彼女と付き合って、始めて自分がこんなにも嫉妬深いのだということを知った。
それなのに。
今は。
「……今まで、ありがとう」
人の気持ちは、冷めるのだと。
俺はまた。
始めて知った。
****
それから、俺達は連絡をとることなく数ヶ月が経った。
でも、こうして通勤の最中にあの時計台を見る度に思い出してしまう。
もう決して戻ることはできない。
前に進まなければならないのは分かっている。
――――――――しかし。
「っ…………!」
不意に。
温かいものが頬を伝う。
「涙…………」
彼女を思う気持ちこそ冷めてしまった。
でも。
彼女と過ごしたあの日々は。
あのかけがえのない数ヶ月だけは。
永遠に忘れることはないんだろうな、と思う。
彼女の屈託のない笑顔も。
ワガママな態度も。
抱きしめてくる強さも。
全部全部、俺の一部として。
これからも生き続ける。
また、あれほどまでに誰かを愛することができるかは分からないけれど。
それまでは。
この気持ちは忘れないままでいよう。
毎日少しずつ、進めるように頑張ってみよう。
その結果、ダメでもいい。
あの頃の俺達は。
確かに幸せだったのだから。
ありがとうございました。