第三十三話『汚濁』
明けましておめでとう。今年もがんばるよ。
プロヴァンス戦記、第三十三話です。
かわいがってください。
ひとりとして知る者は居らぬ 翅膀を広げる蝶の心
ひとりの脊にのみぞ生えうる 白く羽搏く天使の翼
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『ホワイト』の物質でいかついガトリング砲を生成し、中距離戦闘へとうつりはじめるルシファー。近距離戦闘だとアルデに生きている幻影を発動させるチャンスをあたえやすく、ますます分が悪くなってしまう。そう考えての行動であった。後方へ下がりながらの連続射撃を仕掛ければ、アルデはそれらをすべてすり抜けさせて防ぐことができても、常時ではない。いずれは能力が自然に解かれて、アルデの躰に弾丸が中る。生きている幻影の能力は強力とはいえ、その分リスクも看過できぬほどに大きい。ルシファーはその能力のリスクがどういうものかまでは把握していないが、すくなくとも永続的には使えないということに関してはしっかり理解している。それさえ理解していれば、能力への対策を練るのはむずかしくないのだ。
このまま延々と距離をとられつつ、一方的にルシファーのほうから烈しい弾丸の嵐を浴びせられれば、アルデはルシファーに接近することがきびしくなっていく。この状況で無理にルシファーを追おうとするのはあぶない。本来ガトリング砲はそれなりの重量があって、それを持って回避運動をするのは普通不可能であるはずなのだが、ルシファーの場合だとその常識は適用されない。なんせ彼のガトリング砲は鉄などの金属ではなく、まったく重さのない『ホワイト』という物質でつくられている。それゆえに、ルシファーはかろやかに動きながら、アルデにむかって弾丸を速射、連射できるのである。ルシファーだからこそできる芸当と言ってもよい。アルデよりもわずかにすばやいルシファーが逃げに徹すると、アルデがそれを捕らえるのはきわめて困難。追っても追ってもうまいぐあいに逃げられるであろう。そしてなかなか捕らえずにいると、約二十秒のタイムリミットが過ぎて能力を解かざるをえなくなる。そうなると一旦仕舞い込んだ肉体が戻り、連射速射された銃弾のうちの何発かを躰で受け止めることになりかねない。つまり接近すれば接近するほど、アルデにとっていよいよ不利となるのである。だから、アルデはおとなしく距離をとられたまま立たせられ、必然的に防御に徹するのを強いられることとなるのだけれど、当然ながらこれもまた苦しい。反撃する隙がないからといって、一度も反撃を試みようとせず防御ばかりをすると、それこそ敵に好機をさずけることになってしまう。絶え間のない攻撃を受ければ、どんなに鉄壁な防御であろうと段々と削り取られて行って、丸裸にされて終わりである。攻めに回っても地獄、守りに徹しても地獄。八方塞、為す術いまだ見当たらず。汗がアルデの肌から滲み出る。疲労の汗ではなく、焦燥の汗。身体的に疲労ではなく、精神的な疲労。しかし、それでも涙だけはアルデの目元から零れ落ちていない。むしろ高温の戦意にあてられて乾ききっているようであった。逆境は誰にでもある。断じて諦めぬという不屈の心が肝心なのだ。それがあるか否かで変わるのだ。焦燥の汗はつめたく、戦意の詰まったアルデの頭は熱く――汗が頭を冷やしてくれるおかげで、アルデは逆境下で自暴自棄になることがなく、ルシファーに対して無謀な突進をしていくこともなく、冷静で的確な判断をすることができる。アルデは頭のなかで、この逆境をくつがえす策をかれこれ考えて、良いと判断したもの懸命に、なおかつ迅速に篩いにかけ……そうして最終的に残った一つの策を躊躇せずに実行へと移した。この間、なんとたったの十秒。困惑、焦燥、緊張、沈着、思考を経たこの現在に至るまでの間が、なんとたったの十秒しかないのである。
生きている幻影の使用に許された時間は、あと十秒。
時間はない。アルデはひとまず守りを捨てて、ルシファーの懐へと飛び込もうと突っ込む。ルシファーはやけっぱちを起こしたのかと思ったが、油断せずに射撃を続けていった。数百の弾丸はいまのところアルデには中っていない。すべてすり抜けている。「ルシファーのスピードがアルデより上回っている」――それがアルデにとっての敗因になりかねない。ここで勝ちたいのなら、まずルシファーのスピードをなんとかして脅威的でなくするのが絶対条件。そこで思いついたひとつの考え、言い換えれば一縷の望み。そしてそれはアルデにとってははじめての試みでさえある。ゆえに、成功率は未知数。失敗すれば、これすなわち敗北、最悪の場合は戦死……しかれども、迷う暇はなし。臆することべからず、振り向くことこれ大いなる惷愚なり。 さあ! さあ! さあ! さあ! 一擲乾坤を賭す刻は来たれり! 残るは七秒、アルデは自身のなかで、あるかどうかすらわからない力を、眠りについていると思われるあらたな力を呼び起こそうとする。もはや進むしかないのである。
祈るアルデ。沈黙の二秒が過ぎたのち、その祈りに応えるがごとく、またたく間に秘密の力が沸き起こり、アルデの手掌の上で渦巻いた。黒くおぞましい、あやしげな竜巻のような力であった。この小さな竜巻に、アルデは見覚えがあった。ディオーク・ドラクロアと刃をまじえたあの夜、彼はこの竜巻を目にしたことがあったのだ。
アルデが目覚めさせたあらたな力は、『闇』。敵の躰を毒し、敵の目をくらまし、敵の心を食い潰す力。
アルデが手掌から放つそのあらたな技は、かつて自身も食らったことがあり、かつて敵だったがいまは無二の友人が得意とする技。
その名も『忍法・闇夜霧』――
放たれた竜巻は濃く、厚く、黒くなっていき、それからおそろしいほどすばやくルシファーのもとへと追いついていった。やがて竜巻は散り散りになって広範囲な霧と化して、ルシファーのまわりをくまなく取り囲んでいった。東西南北、黒黒黒黒。上下左右、黒黒黒黒。一筋の光明も差し込むことが許されぬ、金甌無欠の霧の囹圄。どこもかしこも黒一色であるため、ルシファーの方向感覚をひどく狂わせていた。どこに進めばよいかわからない。へたに適当に進めば、そのさきにアルデが待ち構えているのかもしれない。えもいわれぬ恐怖がルシファーの中枢神経にまで侵入し、とめどない血肉の顫動をうながしていった。そう、『闇夜霧』とは恐怖の牢獄。物理的に敵を禁固するのではなく、心理的に敵を禁固するという、なんとも厭らしい技なのである。それから、この技を使用するにあたっての大きなメリットは、敵の方向感覚を狂わせるばかりではなく、もっと別なところにある。思い出してみよう。ディオークはそもそも、どういった意図でこの技をアルデに対して使用したのか。
刹那。ルシファーの胸に深い切傷がついた。
さよう。目くらましをすることで取れる大きな利とは、相手に確実な反撃をさせないこと。目くらましをされた者は、一方的に敵に攻撃をくわえられる。どれだけ反撃をしたくとも、敵がどこに居るのか把捉できなければ、やみくもに刀を振ったとて、せいぜい斬れるは虚空の風。戦いにおいて、攻めにしろ守りにしろ、……逃げにしろ、状況を確認したうえでの英断を下すのに不可欠な人間の部位は両の眼球にほかならないのだ。
身構えるよりまえに、予期せぬ方向からアルデの斬撃が飛んでくる。無防備な状態で食らう攻撃は、通常より増して数段痛みがするどく、耐えがたいものであった。反射的に悲鳴をあげて、「耐えろ、耐えろ」と言わんばかりに歯を軋らせるルシファー。そんな彼に、無情にもアルデは猶予をあたえようとしなかった。微塵の慈悲も示さなかった。殺意に駆られるがままに、つぎは彼の背後に回り込み、百舌のごとき一刺しを繰り出して、ルシファーの背肉をえぐっていった。今度は悲鳴をあげなかった。いや、無音の悲鳴というべきなのかもしれない。逃げ道のない暗闇のなかで、屠られる家畜があじわうような苦痛を経験しているルシファー。しかし、実はアルデの剣がもたらす苦痛よりも、暗闇がもたらす苦痛のほうがはるかに鮮烈で、強烈だったりする。
『ホワイト』という奇天烈な物質を生み、あやつるルシファーが殊更忌み嫌うもの。それは、"汚濁"、"闇"、……“黒”。闇夜霧はそれらのすべてに該当し、ルシファーにとってはけがらわしきことこの上ない。霧の存在そのものが、ルシファーの心の根っこにて息をひそめるトラウマを、ふたたび暴走させる。心理的に追い詰める効果は抜群のようだった。黒はルシファーの過去を髣髴とさせる危険色。それを目にしつづけたルシファーの脳内では、釁られた過去の映像が畳みなしにフラッシュバックしはじめた。そうしてルシファーを一気に現実世界から引き離し、懊悩に満ち溢れた精神世界へとかどわかしてゆく……
神々が集い、悠長に戯れる楽園のような庭。ルシファーの記憶に浮かぶその場所は、むかしルシファーがよくあそんでいた王宮の庭である。庭に居るのはルシファーだけではない。おだやかな笑みを絶やさぬ従者たちと、おとなしく鞠をついている小さな妹と、ルシファーとの鬼事に付き合ってくれる心やさしき兄……がうつった映像を観ているルシファーは、なつかしい雰囲気に身を裹まれていった。羽毛布団のようにあたたかで、やわらかな感覚であった。願わくはとこしえにこの心地好い感覚に酔い痴れていたい。そう思った矢先に、ルシファーは戦慄の映像を強引に観させられることになった。
六三〇年。アーカディア帝国が隣国のフィーネ王国を三日のうちに蹂躙、占領し、フィーネ王国のさらにとなりに位置するプロヴァンス帝国にも宣戦を布告した。第一次プロヴァンス戦役の嚆矢である。アーカディア帝国は、世界においてセントラルに次ぐ二番目の軍事大国。平和主義の小国に過ぎないフィーネが一瞬で滅ぶのは無理もない話で、プロヴァンス帝国の兵力を以てしても抵抗するだけで関の山。かろうじて反撃をしても軽く叩きのめされるだけであった。歴然たる差をつけられた兵力のくぼみを埋めるために、当時のプロヴァンス皇帝は徴兵年齢を二十五歳から十五歳にまで引き下げた。そうすることでしか兵の数を増やせなかったのである。瑞々しい十五歳の若者を戦地へと駆り立てることは、穏健派たる皇帝の本意ではなかった。苦渋の決断だった……
皇帝一家はお人好しばかりであった。曏に述べた皇帝はもちろんのこと、他国から『オルムの朱雷』と畏れられる皇子メディウスも、友人を戦争で亡くしても敵国を憎むことをしないほどに寛大であったという。当時のルシファーも慈愛に満ちてはいたけれど、世間知らずというのが璧に瑕であった。ルシファーはこのころ、戦争のおそろしさを完全には理解できていなかった。人は死なないとか、そのような常識から大きく逸れた無理解ではない。人が死ぬのはわかっているけれど、人が死ぬことがいかに重いかまでは、ルシファーには理解できていなかった。
自分は温室に甘えていて、外の世界から目を背けようとしている。そうしていると自分はいつかは人間として、皇家の一員として腐敗してしまう。ルシファーは世間知らずではあったものの、その自覚はしっかりと持っていて、なおかつ危惧さえもしていた。世界をよく知るためにも、皇家としての矜持のためにも、ルシファーは兵として戦地におもむくことを決意した。臣民と敵兵の命の味を噛みしめるために。
死のあじわいは深すぎた。いや、多感な子どもにとってはまだ早すぎるあじわいであるだけなのかもしれない。人肉尽くしの餐会、ひっきりなしに昇る血煙の臭い、岩盤につき刺さる鉾と箭と剣、不鬼魅な鴉鳴による演奏。ルシファーが戦地で経験した現実は、十二歳には胃もたれするくらいのボリュームであった。この経験はルシファーの考え方にすくなからざる影響をおよぼした。――命はかくもたやすく脆いのか。さながら吹けば消える蠟燭の火のよう。人間たちは、笑い合い、涙を分かち合うすばらしい生き物であるはず。なのに、国の欲望のために命を放り捨て、殺しの使命を背負う憐れな人間らを、我が国の臣民は撃たなければならない。そして撃ったことで、戦いに参加した臣民はこれからも人殺しの十字架を背負うことになる。一体全体誰がしあわせになるというのか? 戦争は千年のあいだずっと起こっている。誰もしあわせにならないのに、人間たちは戦争を懲りずにくりかえす。戦争の愚かさを知ったうえでごまかし、権力者は国のために戦えばそれは正義であって犯罪ではないと正当化する。戦争はいつの時代も起きる。なぜいつの時代も、汚濁にまみれた、黒い心を持つ人間のみが実権を握る!? 純潔をたもった、白い心を持つ人間は一向に現れない!? ……ルシファーは、人間たちが痛みを交渉材料にした対話しかできないことを強く嫌悪した。時代をかさねても敢えて進歩をせず、黒い心を浄化しようともしない人間を強く嫌悪した。つぎに……自分の存在も強く嫌悪した。自分だって高台で下々の殺し合いをながめる野蛮な権力者の一人。えらそうに物は申せない身分である。「吁、世間知らずも罪目にくわえるべきだ!」と、ルシファーは戦地で泣き叫び、おのれを痛烈に謗った。ルシファーは世界の不条理を悲嘆したかった。しかし、できない! それをする資格がない! 口から吐き出したい悲嘆を胸にしまっておかなければならない! 躵えなければならないのである! 戦地に居たルシファーにできることは、戦うことでも、嘆くことでもない。臣民の死にゆくすがたを目に灼きつける。ただそれだけ。手をこまぬいて傍観することしかできなかったのである……残酷にも、戦地での出来事を十分経験し、深い傷を負ったルシファーに、さらなる痛みが降りかかる。
アーカディア帝国との戦争にいちおうの決着がついた。戦いが泥沼化し、兵力をこれ以上減らすことができないとして、アーカディア帝国のほうが白旗をあげて敗北をみとめた。プロヴァンス帝国の勝利である。臣民の誰もが帝国は滅亡すると絶望していたから、この奇跡の勝利にはみな大いなる歓声をあげていた。犠牲となった家族や友人が酬われる。かなしいけれど、たいせつな人間の死は無駄ではなかったと、みなうれし涙をこぼしていた。かがやかしき戦果を挙げた皇子・メディウスはとくに英雄と持て囃され、臣民の羨望と崇敬を一身に浴した。
が、歓喜はそう長くはつづかなかった。
凱旋の途中、メディウスは何者かに銃撃された。臣民の歓喜が一瞬にして慟哭へと変わったのは言うまでもない。そして追い打ちをかけるかのように、皇帝一家の殆ども変死を遂げた。これらの不幸を起こしたのはルーシア王国が送り出した暗殺部隊であると帝国政府が公表すると、臣民の慟哭は一瞬にして憤怒へと変わった。「ルーシア討つべし」という世論が高まって、六三七年、あらたにプロヴァンス帝国を統べるルシファーはルーシア王国への宣戦を布告した。第二次プロヴァンス戦役の嚆矢である……
――愛する家族はみなルーシア王国に殺された。汚濁にまみれたルーシア王国に殺された。そうだ。だからこそ、ボクはルーシアを討とうと思ったんだ。
過去の映像をすべて見終えたルシファーは、自分はなぜ戦っているのかをふたたび思い出した。カッと目を開かせ、闇夜霧を『ホワイト』の衝撃波で弾き飛ばした。




