聖なる夜の白雪
物理化学、熱力学分野がテーマです。中学生に教えている設定というのもあり、かなり甘い議論になっていますがご了承ください。……筆者、実は拙作を書いた後の「基礎物理化学」の講義でもっと深い内容を聞いて、とても感動したのですが、うまくこの文章に反映することができずにクリスマスを迎えてしまいました……
寒い。
否。周りの景色がそう思わせているだけかもしれない。そう思って、目を閉じてみる。
変化はない。
目を開けようとしたが、冷気に目を射られ、思わずまたぎゅっとまぶたを閉じる。
寒い。
コートを着ても、マフラーを巻いても、凌げない。ただ、背中に貼ってあるカイロだけが、ジンジンと熱い。手をコートのポケットに突っ込み、俯いて顔をマフラーにうずめた姿勢のまま、ゆっくりと目を開ける。
息が白い。道が白い。
頰が冷たいのを堪え、顔を上げてみる。
屋根も白い。空は……黒い。
ここまでなら、昨日となんら変わりはない。
しかし。
白と黒のモノトーンの背景に浮かび上がるように、色とりどりの光が溢れている。赤、緑、金色ときどき青。星をつけた木々に、赤い服に身を包み白ひげをつけた人々。その豪華さを祝福するかのように、空からは白い花びらが舞う。
そう。
今日は、聖なる日。クリスマスなのである。
と言ったところで、私にはなんて事のない日。
通学路がカラフルになった。
通行人にカップルが増えた。
だから何なのか。
前者は別に良い。むしろ心が弾む。意味がわからないのは後者だ。化学変化においては温度が下がれば反応速度が低下する。すなわち新たな結合が生まれるような反応は寒いところでは不利なのだ。それなのにこの寒い冬に一体どういう理由があってカップルが増えるのか。ルシャトリエの平衡移動の経験則によれば化学平衡においてなにかの条件が急激に変化すればその変化を緩めるように物質組成が変わる。カップルが急激に増加すればそれを和らげる変化もあるはずなのだ。それなのに、なぜクリスマスの前後で、カップルというものは増える一方なのか?
意味がわからない――まあ別に、だからと言ってどうと言うこともないのだが。
こんなことばかり言っているから、私に彼氏ができたことがないのだ。しかし、そもそも私は異性に興味なんてない。中学生で恋愛なんてしてみたところでお遊びだって聞いたことがあるし、クラスメートの男子もしょうもない奴らばかりだし、デートとか束縛とか色々面倒くさそう。そんなものにかける時間などない。私の恋人は化学の教科書――ちょっと背伸びして手に入れた高校の教科書。それでいいではないか。だから特段問題などない。
――そんなことを考えながら、私はよく馴染んだ場所に行く。
行き先は、「実験のお兄さん」のところだ。
☆
「やあ、いらっしゃい。せっかくのクリスマスなのに、来てくれたんだね」
「毎週金曜日に行くっていうのはクリスマスも例外じゃないですよ」
「いやあ、いいの? こんなところに居て」
「他に行くとこもないですからね。友達と馬鹿騒ぎするよりこっちのが楽しいし。てか、お兄さんも私が来るのわかっててそんな格好してるんでしょ?」
「あはは。まあそうなんだけど」
サンタの仮装をしたお兄さんが、いつも通りの朗らかな笑いを浮かべる。本人はクリスマス仕様だが、部屋はいつも通りの小綺麗な様子だ。
彼は今、大学2年生。私が中学3年生だから、5つ年上だ。
彼に出会ったのは小学生の時だった。彼は中学生だった。近くの科学館のイベントで、子供相手に実験を披露するボランティアをしていたのだ。
最前列にいた私は、一見すると不思議な現象がその手品のような手捌きとともに次々と起こるのを目の当たりにして、彼を魔法使いか何かだと錯覚したものだ。すごい、別世界にいるみたい――心は、その魔法にひしと掴まれ、私の身から連れ去られていた。
消える水、色が変わる噴水、突如現れる黒い物体……
今だったらわかる。だけど、わかってもなお魔法に見える。カガクってすごい。多分この時からだ。私が「オタク」の道を歩み始めたのは。
私とカガクを引き合わせてくれた青年。いてもたっても居られず、ショーの後で勇気を振り絞って話しかけた。もっとたくさん知りたい。彼は、私の質問責めを全て受け止めて、柔らかな物腰で応えてくれた。奇跡のような現象の理由がわかればわかるほど、カガクが私の心を捕まえる魔力は不思議にも強くなっていった。
月日が流れ、私は理科系の中高一貫校に進学した。
高校部の校舎を通りかかった時、私の心が跳ね上がった。
あの日の魔法使いが、教室に居たから。
見間違いようもない。まさか、実在するひとだったなんて。それも同じ学校に。
私は、無我夢中で駆け出していた。
「あのっ、私のこと、覚えていらっしゃいますか?!」
首を傾げる彼。そりゃあそうだ。何年も前のイベントのひとりの参加者に過ぎないのだから。
彼女? ロリコン? などと周囲が冷やかす声が聞こえる。私は、我に返って、恥ずかしくなって、だから余計に足がすくんでその場を離れられない。
「……ええと……ひょっとして、僕がサイエンスショーやってた時に喋ってきた子?」
「……! はいっ、そうです!」
「そうだよね。あの時、僕に話しかけてきた人って君ぐらいしか居なかったから、コミュ力高い子だなーって思って。顔とかまでよく覚えてなかったけど、名札見る限り中1だし、こんな年下で関わりのある女子って他に居ないから。それにしても、よくわかったね」
彼にとってはとても微かな記憶だったようだけど、覚えてくれていた。魔術師か超能力者か、奇跡を起こす神のような彼が。
「あの……よければ、また今度、教えてもらえたりしないでしょうか?」
「理科を? 別にいいよ。……ああでも、今年は受験があるからなあ。塾がない金曜だったらいいよ」
こうして、毎週金曜、彼によるカガク――いや、化学講座が、図書館で開かれるようになった。
いつしか、その場所は図書館ではなく彼の家に移った。彼の家には簡易的な実験器具が揃っていたから。もはや、親戚のお兄さんか何かのような感覚になっている。別世界の住人のようなイメージは、親しみやすいイメージへと変わっていた。
初対面の時お互いに名前を聞き忘れたのが痛い。今更聞くのも恥ずかしくて、彼は私を「君」と呼び、私は彼を「お兄さん」と呼ぶ。そのまま、もう3年目である。
☆
「今日は、せっかくだしクリスマスっぽい実験をしようか」
彼は、洗練された手つきで1本の試験管を取り出した。試験管立てにたてられた細長く透き通った試験管に、熱々のお湯が注がれる。
「結構有名な実験だから、君も知っているかもしれないけど。溶解度って、もう学校でも習ったかな」
「はい。100グラムの水に溶ける質量で表すんですよね。小学校の授業でも出てきたと思います。再結晶とか」
「そうそう! 今回は、その再結晶の実験をしてみようと思うんだ」
再結晶というのは、一度溶液中に溶けていた物質が、何か条件が変わることで溶けきれなくなって固体として出てくる現象のことだ。水が多いほど、温かいほど、砂糖や塩のような固体はよく溶ける。そして、溶解度――ある物質がある温度である量の水に溶ける量というのは決まっている。だから、温かくて量の多い水に溶かせるだけ溶かしてから、それを冷たくしたり、水を蒸発させたりすれば、結晶が出てくる。
元々の固体に溶解度の異なる不純物が入っていたりすると、再結晶を使えば自分の望む物質だけが決まった温度で出てくる。しかも、ゆっくりと固体になるから粒の大きな結晶を作りやすい。だから、固体をきれいにするための方法として大学の実験でも使うのだと、お兄さんは言っていた。
「で、この試験管に白い粉を入れる」
「これを再結晶させるわけですね」
「その通り。徐々にお湯の温度が下がってくると、結晶が出てくる」
結構大量に入れるので驚いてしまった。でも、意外と溶ける。
「じゃあ、このまま待っていようか。いつもなら待ち時間に無駄話をするところだけど、君には再結晶の瞬間を是非みて欲しいから、邪魔しないでおこう」
彼がそう言うので、私は試験管をまばたきなしで見続けていなければならなくなった。
やがて、時間が経つと。
「あっ……!」
「お、出たね」
「すごく綺麗……」
試験管の真ん中あたりから、ふわり、ふわりと白い粒が舞い降りていた。
よく見ると星のかたちをしている。周りの光をはね返し、キラキラと輝きながら――少しずつ大きくなりながら、生まれては底にゆっくりと沈んでいく。
「これって塩化アンモニウムですか」
「ご名答! さすが、やっぱり知っていたんだね」
「本では見たことあったんです。だけど……ナマで見るとやっぱり違うなぁ……」
「綺麗だよね。ちょっと地味かもしれないけど、雪みたいで」
可憐な白い星屑は、あとからあとから生まれ出てくる。
「これ、なんで試験管の中ほどから落ちてくると思う?」
お兄さんの化学講座が楽しいのは、単なる実験で終わらないからだ。私に、面白い原理の話をしてくれる。どの学年で習うかなんて関係ない。
「んー……この部分の温度が低いからとかですか? でも、試験管の下の方が温度が低いはずですよね。じゃあなんで底から出てこないんだろう……」
「うん、そうだね。その通りで、よく見たら、はじめに結晶が出てくるのは試験管の下の方なんだよ」
「え? ……あ、そうですね」
確かに、よく目を凝らしてみれば、試験管の底の方からすぅっと小さな粉が上がってくる。そうして、試験管の半ばまで来てふわりと落ちるのだ。少しずつ、大きくなりながら。
「これって雹みたいな感じですか?」
「ん、どうだろ」
「雲の下の方で細かい氷の粒ができて、それが核になって、上昇気流で雲の中を浮かび上がりながら水をくっつけて行って、凍って重くなって下に落ちて……って繰り返しながら成長するって聞いたことあります」
「おお、なるほど。カンがいいね。これもそんな感じだよ」
つまり。比較的低温である試験管の下の方で、塩化アンモニウムは溶けづらくなって少し出てくる。出てくるのはほんの微粒子だが、それが結晶の核となる。どういうわけかこの微粒子は上昇して、上昇しながら成長して、ある程度大きい粒になったところで沈み始める。沈みながらもなお結晶は大きくなっていく……
「そしたら、なんで微粒子が上昇するんですか」
「対流ってわかるよね?」
「はい。だけど、今は加熱してるわけでもないのに……微粒子近くの水が温められて軽くなるんですか?」
「そういうこと。ここがポイントだ。前に、高校化学の範囲で反応速度とか平衡の話はしたよね? 反応熱の話ってしたっけ?」
「聞きました。化学変化とか物理変化に伴って、エネルギーの差の分だけ熱を吸収したり放出したりするんでしたよね」
「そうそれ!」
「あっ……てことは、塩化アンモニウムの結晶が出てくると……つまり溶解している状態からそうじゃない状態に変化すると、その分、エネルギーを放出するから、その熱を周囲の水が受け取って、温かくなって、上昇する……ということですか?」
「そういうこと。塩化アンモニウムの溶解は吸熱反応だから、析出は発熱反応になる。そうだ、ちょっとやってみるかい?」
彼は、どこからか持ってきたビーカーに水を入れ、塩化アンモニウムの粉を再び取り出す。
「じゃあ、君はこのビーカーに触れておいて」
手を触れると、ビーカー越しに中の水の温度を感じる。ほんのり温かい。ぬるま湯だったのだろう。
彼が薬さじ代わりのスプーンで塩化アンモニウムの粉を入れ、溶かす。
すると。
「あっ、冷たくなった!」
「その通り。塩化アンモニウムは、水に溶ける時にエネルギーを周りから貰うんだ。水は熱を失って冷たくなる」
塩化アンモニウムの水への溶解は吸熱反応。それは、水に溶けるために余分に必要なエネルギーを熱として周りから奪うから。水に溶けている状態の方がエネルギーが高い。エネルギーが高いということはつまり不安定……
「そしたら……あれ? 溶けてる状態の方が不安定ってことは溶けたくないんですよね? でも、なんで周りから熱を奪ってまで溶けようとするんだろう……」
私がそう、独り言のように呟いた時。
お兄さんの目が、一瞬ギラリと光った。
「知りたい?」
「はい、知りたいです!」
「よろしい……ようこそ。化学熱力学の世界へ」
耳慣れない言葉。しかし、彼が口元に笑みを浮かべているのを見て――ここから冒険が始まるのだと、すぐに分かった。
「まずは、平衡について復習しておこうか。平衡ってなんだったかな」
「はい。AがBになる反応とBがAになる反応が両方同時に起こる時、このふたつの逆向きの反応の速さがぴったり一緒になって均衡が出来たら、見た目は反応が止まっているようになる。これを平衡状態と言う……でした」
「その通り。それで、何か外部から変化を与えたら、この均衡が崩れて平衡が移動するんだったね」
「はい」
「それで、この平衡組成を反映した定数を平衡定数と言った」
「はい。えっと、ちょっと書いてみてもいいですか」
「どうぞ」
お兄さんのホワイトボードの上で、前に教わった式を復習する。
化学反応の進む速さは、反応物の濃度に比例する。例えば、A→Bという反応があって、Aの濃度を[A]で表すなら、反応の速さは比例定数をk1とおいてk1×[A]と書ける。そして、B→Aという反応に関しても、Bの濃度を[B]、比例定数をk2とすれば、速さはk2×[B]だ。平衡状態では、この両方の速さが一緒。つまり。
k1×[A]=k2×[B]
それで、両辺は0ではない。だから掛け算と割り算で整理する。
k1/k2=[B]/[A]
このk1とk2は、温度で決まる定数。だから右辺も、平衡の間に温度が一緒なら変わらない。こうして出来る定数をKとおいたら、K=[B]/[A]となって、これを平衡定数と呼ぶ。そして、これはAとB、つまり生成物と反応物の濃度の比率、つまり平衡組成に他ならないのだ。
「その通り。これが、高校で習う平衡だ。……これを、もう少し考えてみよう」
「もう少し?」
「そのために……ギブスエネルギーという考え方を導入する」
☆
ギブスエネルギーという考え方を導入する。
まずは定義から見てみようか。
G=H-TS
これが、ギブスエネルギーの定義。このGがギブスエネルギー。Tは絶対温度で、Hはエンタルピー、Sをエントロピーって言うよ。後で説明するね。
自分たちは、大抵これを反応前後の変化量で見ることが多いかな。Δという記号で変化量を表すことにする。つまり、「(今の量)-(前の量)」だ。周りの温度を一定とするとこうなる。
ΔG=ΔH-T×ΔS
反応熱ってのは、物質のエネルギー変化を表してるんだったよね。物質が低いエネルギーを持った状態から高いエネルギーのそれに変わるためには、外からその差額を吸い込む。これが吸熱反応で、塩化アンモニウムの溶解もこれにあたるよ。だから、溶液が冷たくなったんだったね。
日本の高校では、反応熱は吸熱反応をマイナスで、発熱反応をプラスで表す。だけど、吸熱反応では、物質はエネルギーを吸い込んで、物質自身が持ってるエネルギーって増えてるよね。だったら、吸熱をプラスで表す方が効率的だって思わないかい? 発熱も、物質がエネルギーを外に出しているから、物質そのものはエネルギーを失っている。じゃあ、減った分をマイナスで表したら、物質の中のエネルギーを議論できる。
エンタルピー変化ΔHの定義は、定圧条件下において出入りする熱だ。反応熱を考えるとき、普通は大気圧にさらされた状態、つまり定圧の元で出入りする熱を考えるから、日本の高校で言う反応熱の正負をひっくり返したものがそのままこの値になる。つまり、吸熱反応だったら反応熱はマイナスだけど、ΔHはプラスになるよ。だけど、どっちもエネルギーは同じだけ変わっているから、絶対値は一緒だ。
じゃあ、次にΔS、つまりエントロピー変化を見てみよう。エントロピーは、「乱雑さ」「分散」と説明されることが多い。
地球上の、いや、この宇宙のあらゆる物質は乱雑になろうとするんだ。よく使われる例だけど、コップに水を入れて、そこにインクを垂らすと、インクは広がって薄まっていく。これって、インクの原液1滴に集まっていた色素分子が、水の中に散らばって、広がっていくわけだよね。だけど、元々の集まった状態に、自分から勝手に戻るようなことはない。
部屋とかは、乱雑になっても片付けられるよね。だけど、片付けるという行動の間に、体の中では食べ物が消化されて、体を動かすためのエネルギーになっている。食べ物という固体とか高分子が、小さな分子になって散り散りになっていくから、結局全体で見たら乱雑さが増えているんだよ。
そんなこんなで、宇宙全体で見たエントロピー変化ΔSは必ずプラスになる。誰かが言ってたな……こういう、「エントロピー増大の法則」があるから、木は朽ち、鉄は錆び、どんな整然とした強固な建造物もやがては壊れていくのだ、って。
まあ、今の時点でエントロピーは感覚的に掴んだらいいよ。本当はもっとちゃんとした定義があるんだけど、それは今度話すとして……もう一回さっきの式を眺めてみよう。
ΔG=ΔH-TΔS
ΔHというのは、物質のエネルギー変化だったね。ΔHがマイナスであればあるほど、反応が進むことによって物質は低エネルギー、つまり安定になる。だから、ΔHがマイナスになる反応はよく進む。
ΔSというのは物質の乱雑さの変化だったね。反応は乱雑になる方へと進んでいく。ΔSがプラスに大きい、つまり乱雑さがたくさん増大する反応ほど、よく進む。……あぁ、宇宙全体で見たエントロピー変化は常に正だって言ったけど、反応だけを見たらエントロピーが減ることもあるよ。2分子がくっついて1分子になったりするのもそうだね。
結局、ギブスエネルギー変化ΔGがマイナスであればあるほど、反応は進む。
これについて、別の解釈をしてみよう。ギブスエネルギーは、ざっくり、「変化したい度合い」と見ることができるんだ。反応熱だけじゃなくて乱雑さの変化もちゃんと考慮した、他の物質に変化したい願望とね。
A→Bの反応でΔGがマイナスということは、Aが減ってBになるとその分変化したい度合いが減って安定になるということ。だから、Aを減らしてBを増やそうとする。そうしているうち、ある濃度組成になると、差が0になる。Aがこれ以上減ることも、Bがこれ以上増えることもなく、釣り合っている――つまり、平衡だ。
☆
「……全然……わかりません……」
「あれれ、君でさえそうなっちゃうか……僕の説明、下手だったかな……」
「いえいえっ……もっと修行します!」
今、私の頭上には流れ星が回っていた。
だけど。
「……要するに、反応が進むかどうかは、反応熱……えんたるぴー? だけによって決まるんじゃなくて、乱雑さ……えんとろぴー、によっても決まる、バランスが大事ってことですか」
「そう! 僕が言いたかったことはまさにそれだよ!」
「あっ……そっか、塩化アンモニウムがお湯に溶ける時、乱雑さってすごく増えるんじゃないですか? 固体が溶液になって、イオンが、こう……バーって散らばるわけだから」
「そうそう!! それで?」
「あっ、だから、吸熱変化でエンタルピーが正でも、エントロピーが大きいから、T……温度を大きくしたら、-TΔSが勝って、ΔG……ぎぶすえねるぎー? がマイナスになる!」
「そう! だから、塩化アンモニウムは溶けている方が高エネルギーだけど、温めれば溶けるんだよ!」
「なるほどです! で、冷えるとまた析出する、というわけですね!」
きっと、まだまだこの世界は深いのだろう。けれど、ひとつ謎が解けた感じがして、嬉しくなる。
ふと、外を見る。いつの間にか、時間が経っていた。暗闇はさらに暗くなり、雪の光はいよいよ鋭く眩しい。窓のこちら側だけが、暖かい空気に包まれているみたいだ。
「もうこんな時間だね。まあ、今日はここまでかな。そろそろ親御さんも心配する頃じゃない?」
「両親もお兄さんのことは信用してるでしょうし、大丈夫ですよ」
「ならよかった。でも、せっかくのクリスマスなのに来てもらっちゃって悪かったね」
「そういえば今日はクリスマスでしたね……って、ああぁ!! わかった!!」
「何が?!」
この時、全てがつながったような感覚がした。
「今日、やたらと駅前にカップルが多かったんですよ! 寒いと反応速度が落ちるはずなのになんでカップルはこんな冬に増えるのかなあって疑問だったんですけど、今わかりました!」
「カップル?」
「そうです。カップルになるってことは、それまで別々に好き勝手行動してた男女が一緒になるってことじゃないですか。一緒になって、束縛も増えて、行動が制約される。だから、エントロピーが減るんです! ΔSがマイナスだから、そしたら、Tつまり温度が下がる方が、ギブスエネルギーは小さくなって、そちらの方向に反応が進みやすくなる……だからカップルが増える!」
「ぷぷっ、あははは!」
私が捲し立てると、彼は吹き出した。
柔らかい笑顔で、それでいて大爆笑している。
「さすが、君らしい見方だね!」
「本当ですか!?」
「うん、本当に……それにしてもさ、君は、彼氏とかいるの?」
彼がそう問いかけたとき、何故だか、私の心臓が跳ね上がった。それで、少し答えるのが遅れてしまう。
「……いるわけないでしょ。そんな面倒なもの」
「ふふ、やっぱり君らしいや。でも、君もそろそろいい奴と『反応』しろよな! あぁでも、そもそも『遭遇錯体』が形成できないってか?」
「あは、なんですかそのセリフ! ……お兄さんだってひとのこと言えないんじゃないんですか? クリスマスだというのに、……ぁ……」
私もまた、彼の戯けたような言い方に大笑いしながら――無意識のうちに、私の目はちらと彼の左手を盗み見ていた。見てしまった。後悔した。気づいて後悔した自分自身に驚いた。
――彼の繊細な薬指は、私の知らない黄金色の光に包まれていたのだった。
この少女が高校に入った後のお話(学園モノ)を連載したいなーと考え中です!
ただ、いま連載しているハイファンタジーが完結した後なので、一体いつになるのやら。
それに、この系統では他の作家様が既に素晴らしい作品を投稿されているのですが……